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銀座イエナのデヴィッド・オクストビー

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10代のころ、銀座にあったイエナという洋書店によく行きました。 その気になれば歩いていける距離だったのです。 週末、ぶらぶらと散歩しながら、高校生だったわたくし、銀座まで行くのですが、レコード屋と洋書店に寄るのがお決まりのコース。 なにせ貧乏な高校生だったので、高価な服などにさく予算はありません。 せいぜい贅沢して、レコード、ロック音楽を扱った図版入りの洋書といったところ。特に大部のロック辞典系は、高価でなかなか手が出ません。 文字ばかりの本は、通って、興味のあるところをよく暗記していました。貧乏くさいですが、仕方ない。貧乏なんだから。 そんな意識はしなくても、好きこそもののなんとやら、努力をしたおかげで、多少は英語にも強くなり、あとで受験戦争といわれた入試バトルにも全戦全勝できました。 それは、銀座イエナと貧乏生活からでた知恵のおかげ。そして、大好きだった50年代や60年代のロックンロールのおかげでもありました。 わたしが高校から大学にかけて、70年代後半から80年代前半当時は、50年代アメリカ文化全般にかかる書籍もたくさん出ていて、日本語訳のあるものも数はすくないものの結構ありました。 特に有名だったのは、惜しくも亡くなられた金沢大学の三井徹先生が訳したもの。グリル・マーカスの名著、「ミステリー・トレイン」もそうですし、デイブ・マーシュの「ロック・エンサイクロペディア」もサンリオ出版から出てました。 こんな本を出すなんてすごいな、とサンリオ出版に就職活動をしたこともありました。 三井先生とはお会いできずじまいでしたが、インターネットのない時代、郵送、お手紙でやりとりをして、日本では手に入らない文献を見せていただいたりしました。 ビル・ヘイリーの伝記は、大量のページ数なのに、全部、ご自身でコピーして送ってくださって、感謝感激したのを覚えております。 さて、そんなロックンロール関係の洋書のなかで、とりわけ好きで今でも持っているのが、画集。 特に、2冊の50年代、60年代ロックを中心としたもので、それぞれふたりのアーティストによるものです。 ひとつは、ベルギーの画家、ギイ・ピラートによる「ロック・ドリームス」。 ポップアート系のコラージュのような技法の目立つ、素晴らしい絵画作品を集めています。 それぞれのアーティストのイメージ、有名な曲が表現したある意味ファンタジック...

イギリス初のロックンローラー クリフ・リチャード&ザ・シャドウズ

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わたくしがクリフ・リチャードをはじめて聴いたのは、全盛期よりかなり後の1972年ごろ。 ラジオで流れていました。 この曲です。 素晴らしいですよね。名作です。 当時、アコースティック・ギターを弾き始めてまして、このラテンっぽいリズムギターがかっこいいなあ、と思ってコピーしたり。 リードギターの音づくりも素晴らしい。 歌もうまいだけでなくて、誰にも出せない味があって、すぐにこの人だとわかる独特の素晴らしい声。おまけにハンサムマン。 大スターになるのも当然、と思います。 ところが、アメリカ側ではさっぱりで、ほとんど一発屋だと思われている始末。こりゃまたどういうわけだ、そんなわけないだろ、と思うのですが、不思議なこともあるものです。 しかしながら、後年、2012年も、御覧のとおり、まったく変わらない。すさまじい大観衆に支えられて、まさに、サーの称号を得るだけのことあるよなあ、と思いますね。(現在は、クリフ・リチャード卿です。) そして、そして、ギターがハンク・マーヴィンで相変わらず最高なサウンドフィエスタレッド、ゴールドパーツのフェンダーストラトがかっこいい! これだよな!俺もすっかりハマったぜ! リチャードのバックはシャドウズで、これまた素晴らしいヒット連発のインストルメンタルバンドでもありました。 マービンは、16歳の時、友人のブルース・ウェルチ(のちにシャドウズのリズムギターになる)とともにアマチュアコンテストに応募したものの、3位と振るわず。 解散に。でも、そんなことであきらめていいのか!いや、よくない!やらなくちゃ!今でしょ! とか林修みたいなことを口走ったりはしてないと思いますが、ふたりは音楽で身を立てる事を決意、生活費を稼ぐためにコーヒー・バーで演奏していたところ、クリフ・リチャードのマネージャーのジョニー・フォスターとばったり出会ってしまいます。 これが幸運のビッグバン。フォスターはマーヴィンにリチャードのバックバンドに入ることを依頼したところ、マーヴィンは、相棒のウェルチと一緒ならいいぜ、と友達思いの優しいやつ。で、リードギターがマーヴィン、リズムギターがウエルチという、50年代から現在にまで至るシャドウズとなるわけです。 ハンク・マーヴィンは、イギリス本国に於いてトニー・アイオミ、ピーター・グリーン、ブライアン・メイ、マーク・ノップラーをはじめとする数...

フランキー・フォードの「シー・クルーズ」

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フランキー・フォード、といって、すぐに、「あー、シー・クルーズの人!」って気が付く人は相当のロックンロールマニアかと思います。 この人が知られているのは、この1曲のおかげ。でも、この曲、とにかくゴキゲンなんですよね。 Frankie Ford "Sea Cruise" 1950年代のニューオーリンズR&Bサウンドの一番おいしいところどりをしたような、すさまじく楽しくかっこいい曲であります。これ大ヒットしました。 あまり印象に残らないフランキー・フォード。 歌は素晴らしいけど、そんなにカリスマチックなアイドルっぽくもないし、そもそも若い白人のアイドル歌手路線からほど遠い、南部のドタバタしたR&Bサウンドなんですから、なにか、ミスマッチな印象がある。 「フランキー、ちょっと悲しいな。だって、ラブソングじゃないんだもーん!」 なんて叫んだという記録はいっさい残ってません。  彼はルイジアナ州グレトナ生まれ。ニューオーリンズの川向うくらいの位置の町です。 彼は幼い頃に歌と踊りを学び、高校では歌手とピアニストとしてシンコペーターズというグループに加わって活動しています。 地元ルイジアナ州をツアーした後、ヒューイ「ピアノ」スミス&ザ・クラウンズの「シークルーズ」でボーカルのオーバーダブを録音した、となっている。 その際、いつくかの効果音(ベルと船のホーン)もついでにオーヴァー・ダビング。 オリジナルのスミスのほうは、録音はできていたものの、ツアーを離れていたので、プロモートの関係からか、エイスレコードはフォードのバージョンをリリースすることを決定といういきさつだったらしい。 で、泥臭いニューオーリンズのR&Bらしい曲なのに、チャートを飛び越えて、ポップチャートで14位、R&Bチャートで11位に上がり、結局、ミリオンセラーになりました。(ゴールドディスク)。 さて、以前ご紹介した、ヒューイ・ピアノ・スミス。 ちょっと復習をしてみましょう。 ヒューイ”ピアノ”スミスは、ニューオーリンズのピアノ奏者としては、歴史上1,2を争う影響力を持った人でしたが、その器楽奏者としての活躍ぶりとは別に、たいへん面白い音楽をたくさん残したことで知られています。 彼らの2大レコードは、お笑いビョーキネタソングの「ロッキン・ニューモニア・アンド・ザ・ブギウギ・フルー(ロッキン肺炎とブ...

ディム・ディム・ザ・ライツ ー ビバリー・ロス

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つい、先月、1月15日に、ビバリー・ロスが亡くなりました。87歳。認知症だったそうです。 ビバリー・ロスって誰かって? 50年代ロカビリーが好きな人にとっては、「ディム・ディム・ザ・ライツ」(ビル・ヘイリー)を書いたことで有名。 これが彼女の最初のビッグ・ヒットです。 もちろん、その後もたくさんの名曲を描いたソングライター。 ザ・コーデッツがヒットさせた「ロリポップ」、レスリー・ゴーアの「ジュディ・ターンズ・トゥ・クライ」、ロイ・オービソンの「キャンディ・マン」、アールズのドゥーワップクラシック「リメンバー・ゼン」、そして、「闇に響く声」にフィーチャーされたエルビスの傑作「ディキシーランド・ロック」も彼女の作です。 Elvis Presley - Dixieland Rock (King Creole)  ロスは、1934年、ニューヨークのブルックリン生まれ。 子供の頃、家族と一緒にニュージャージー州のレイクウッドに引っ越し、そこでピアノを学んだそうです。 「大都会のど真ん中ではですね、ピアノも近所迷惑じゃーん。ちょっと郊外のニュージャージーなら弾き放題だっぺ?」 とか、東京と横浜と千葉が混ざり合ったような言葉で言いました、なんてことはないんですが、きっとそうだそうに違いない。 学校にいる間、彼女は歌の歌詞を書き始めまして、ニュージャージーにある家族の家からマンハッタンまでバスに乗って、ニューヨークの音楽出版の中心地であったブリルビルディング近辺の音楽出版社街をぶらぶらしていました。 「ぶりるをぶらぶら、略して、ぶりぶらじゃーん。」 なんて、ほざいたとは思えませんが、そこで彼女はジュリアス・ディクソンというソングライターと接するチャンスに恵まれます。やー、ぶらぶらしてみるもんだ。 まあ、当時は、ロックンロールはおろか、のちにブリルビルディングの代名詞となるアルドン・ミュージック(1958年設立)すらない時代ですから、先見の明があったってことなのかな。 で、1954年、19歳のとき、ロスはディクソンと共作で「ディム・ディム・ザ・ライツ」を書き、これがビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツによってレコーディングされたんですね。結果は、ビルボードシングルチャートで11位という大ヒット。これ、「ロック・アラウンド・ザ。クロック」より前なんですよね。 しかも、翌年の1955年...

キング・オブ・ニュー・オーリンズ・ピアノ ~ ヒューイ”ピアノ”スミス

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1950年代のニュー・オーリンズ音楽の一番おいしいところを一手に魅せてくれるのが、ヒューイ”ピアノ”スミス&ザ・クラウンズ。 彼らの2大レコードは、お笑いビョーキネタソングの「ロッキン・ニューモニア・アンド・ザ・ブギウギ・フルー(ロッキン肺炎とブギウギ風邪)」(1957年)、同じくビョーキネタの「ハイ・ブラッド・プレッシャー」(高血圧)と両面ヒットになった「ドント・ユー・ジャスト・ノウ・イット」(1958年)。どちらも、立派なミリオンセラーで、ゴールド・ディスクになっています。 ピアノ・スミスの演奏スタイルは、当時大変な影響力を持ち、ロックの形成にも大きな役割を果たしたと言われています。それは、ピート・ジョンスン、ミードラクス・ルイスといった古いブギウギとジェリー・ロール・モートンのジャズなどを基にし、そこにニュー・オーリンズR&B特有のセカンドライン・ビートを効かせたスタイルの先駆者であるプロフェサー・ロングヘアのスタイルを踏襲したものでした。 1934年、ニュー・オーリンズ生まれのヒューイ”ピアノ”スミスが最初に歌を書いたのは、8歳のときで、15歳のときには、ギターのエディ・ジョーンズ(後のギター・スリム)と組んで、ライブ活動をして有名になりました。1952年、18歳でサヴォイ・レコードと契約。53年には、後のニュー・オーリンズ・ファンクの始祖のひとり、アール・キングとも吹き込みをしています。 1955年、スミスは21歳で、スペシャルティ・レコードの新進スター、リトル・リチャードの最初のピアニストになりました。また、同年、ロイド・プライスをはじめ、ニューオーリンズきってのR&Bチャートで大ヒットしたアーティストたちのレコーディング・セッションに参加、特に「ゾーズ・ロンリー・ロンリー・ナイツ」(アール・キング)、「アイ・ヒア・ユー・ノッキング」(スマイリー・ルイス)は、ヒットになりました。 そして、1957年、ついに、女声ボーカルそっくりに歌う風変わりな男性ボーカリスト、ボビー・マーチャンと組んで、自身のグループ、「ヒューイ・ピアノ・スミス&ザ・クラウンズ」を結成。スペシャルティ・レコードのプロデューサー、ジョニー・ヴィンセントのエイス・レコードと契約し、「ロッキン・ニューモニア~」をはじめ、馬鹿馬鹿しくも楽しげな、50年代ニュー・オーリンズを代表する傑作を次々に...

ザ・ファット・マン – ファッツ・ドミノ

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「ワーワーワー♪ みんなが呼ぶのさあ~、オレのこと~を~♪、デブ、デブ、デブ~、おデーブく~ん♪」 1951年の名作「ザ・ファット・マン」を聴き、「くっそー!あんなに格好いいミュージシャンになれるならデブになりたい!」などとわけのわからないことを思ったこともあるオイラです。 さて、T木ブーさんの昔から、今やテレビタレント好感度ナンバー1のI塚さんまで、デブキャラ、日本にもいろいろな方がいらっしゃるようですが、50年代アメリカを石鹸、もとへ、席捲したデブキャラといえば、この人、ファッツ・ドミノ。 まあ、キンキラ衣装にアクセごてごてのアメリカン・デブオヤジですが、その実力たるや世界5本の指に入るほどのすごさ。いや、体重の話じゃありません。 ギネスブックのゴールドレコード獲得数で常時3位を誇るアーティストこそ、ファッツ・ドミノ。これより上は、エルヴィス・プレスリーとビートルズだけ。 (注:2010年の記事です。) エルヴィスのようにセクシーでもなく、ジェリー・リー・ルイスほどワイルドでもなく、初期のビートルズのようにアイドル的だったわけでもなく、リトル・リチャードのようにアグレッシブだったわけでもなければ、チャック・ベリーのように、10代向けのソングライターでもなかった。そんな「木訥とした、昔ながらのニューオルリンズソングとサウンドの後継者」とでも言うべきふとっちょのおっさんがなぜ、こんなにも売れ、しかも、伝説となっているのでしょう。 ひとつだけはっきりしているのは、「当時のニューオルリンズサウンドは、最高だった」ということです。ドミノに限らず最高のサウンドだった。そこには、アフリカやカリブやフランスなど、様々な異文化の交わる融合地点であるニューオルリンズではぐくまれた、伝統ある独特の混血文化が背景にありました。 そして、素晴らしい腕前のミュージシャン(ピアニスト兼歌手)として、めきめき頭角を現し、20世紀後半のニューオルリンズを代表する、たくさんの曲を書いたのが、ファッツ・ドミノと、アレンジャーだったデイブ・バーソロミューのコンビだったのだ、ということではないかと思います。 さてさて、1928年、ニューオルリンズ生まれの「オデブ」こと、アントワーヌ・ドミニーク・ドミノ、育ったのがなにしろ街中に年がら年中生演奏が流れているようなジャズの街、ニューオルリンズです。従兄弟にプ...

アワッババルーバッバロッバンブーン! ~ リトル・リチャード

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「あわっばばるーわっばわっパット・ブーン!」 違う!!間違った! 「あわっばばるーばっばろっばんぶーんっ!」 1955年、ジョージア州メイコンで、父を殺され、家族を養うためにひたすら皿洗いしていた貧しいクリスチャンの黒人青年が、ニューオルリンズのバーにあるピアノの前で即興で歌った、「ワッババルーバッバロッバンブーン!」。 この意味不明のシャウトで始まる「トゥティ・フルティ」が、以後の世界の音楽史を塗り替えました。 75歳の現在も現役でシャウトする「キング・オブ・ロックンロール」、リチャード・ペニマン牧師。 ステージネームは「リトル・リチャード」です。 (注:2011年の記事です。その後、2020年5月87歳で没。) 1955年、リトル・リチャードがスペシャルティ・レコードの45回転盤「トゥティ・フルティ」の冒頭でこれを叫び、がんがんはずむピアノと狂ったような金切り声のヴォーカルになだれ込んでいったとき、リズム&ブルーズとポップ音楽の間の壁に修復不可能な大穴があき、それがロックンロールという一大潮流となって後続の音楽シーンを塗り替えていきました。 1932年、ジョージア州メイコン生まれのリチャード・ウエイン・ペニマンは、12人兄弟のひとりで、父は煉瓦職人であり、ブートレガー(密造酒業者)、おまけにジューク・ジョイントを経営する商売人でもありました。しかし、それにも関わらず、一家は大変熱心なクリスチャンで、祖父と叔父は説教師という家庭。ペニマン兄弟は、ゴスペル・グループを結成しており、以後、彼の人生は常に教会と切り離せないものになるのです。 リチャードは、メイコン市の公会堂でアルバイトを見つけ、そこに公演にやってくる、リズム&ブルーズとゴスペルの有名アーティストをたくさん観るチャンスを得ました。 そこで観た、シスター・ロゼッタ・サープ、ルース・ブラウン、マヘリア・ジャクスンといった女性シンガーに多大な影響を受けます。また、ピアニストのエスケリータから、ホーンセクションを向こうに廻してもガンガン鳴り響くピアノスタイルを教えてもらいます。 しかし、彼は自由奔放な子供で、いつも同じ日常生活に嫌気がさしていたうえ、同性愛者だったので、父とうまくいかず、14歳で、メディシンショウの一座に養子に出されます。そして、15歳でミンストレルショウの初舞台を踏んだとき以来、リチャード・ペニ...

レース・ウイズ・ザ・デヴィル ー ジーン・ヴィンセント

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ウエーーーーーーーーーーーール・・・ビーバッパルーラ♪シーズマイベイベェ~♪ 目玉ひんむいて真似してみても、具合が悪いサラリーマンにしか見えないオヤジ、サンチャゴです。 みなさんも一度くらいはくちずさんだことがあるに違いないこの唄、我が国でも、有名な50年代ロックソングの古典、「ビー・バップ・ア・ルーラ」。 ブラック・レザー・レベル(黒の革ジャンのツナギ、ワークブーツの不良スタイル)をロックンロールのイメージとして定着させた張本人、ジーン・ヴィンセントが、57年に唄ったこの曲は、ロカビリー音楽を代表する楽曲のひとつとして、すっかり世界中に定着しています。 1935年、ヴァージニア州ノーフォーク生まれの、ヴィンセント・ユージーン・クラドックこと、ジーン・ヴィンセントは、ラジオから流れるカントリー&ウエスタン、リズム&ブルーズなどを聴いて育ちました。 父は、片田舎で小さな雑貨店を経営していましたが、うまくいかず、生活するのが精一杯という家庭だったようです。楽器買ってもらうなんてとんでもない、っていう極貧家庭。 そんなある日、12歳だったヴィンセントは、友人からギターを譲り受けます。 この友人が、「ねえちゃんがギター鳴らしてうるさいから、このギター預かってくれよう。」と言ったとか言わないとか。 この姉思いじゃない身勝手な友達の思いつきのおかげで、ギターを覚えたヴィンセントは、好きなブルーズやカントリーを弾き語りするのが大のお気に入りになったのです。 しかし、ヴィンセントの本当の夢は、第二次世界大戦中、ボランティアで湾岸警備隊員をしていた父の栄光を継いで、海兵になることでした。きっと、誇り高い、素晴らしいお父さんだったのでしょう。 「おいどんは、海の男として、死ぬまで、がんばっていくですたい!!」 となぜか鹿児島弁で言ったわけないヴィンセントですが、1952年、17歳のとき、とうとう、高校を中退し、海軍に志願します。そして、ボイラー係として全商船に乗り込み、ポパイのように、一生海兵隊の一員として生きていく覚悟だったのです。 1955年には当時の朝鮮戦争に参加、朝鮮(今の韓国)に滞在しますが、戦線にたつことはなく、無事に故郷のノーフォークに戻ってきたのですが、その直後、思わぬ不運が襲いました。 戦線近くでは、軍人として、運良く無事に過ごせていたのに、故郷に帰ったとたん、大事故...

ザ・デイ・ザ・ミュージック・ダイド ~ バディ・ホリー

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こんにちは。バディ・堀井です。 エルビスのように、セクシーでもなく、パーキンズのように、泥臭くもなく、フェビアンのようなカワイイアイドルでもなく、ジェリー・リー・ルイスのようにイカれてもいない、黒縁眼鏡とスーツがトレードマークの、スマートでにこやかなノッポさん、チャールズ・ハーディン・ホリーこと、バディ・ホリーは、1936年生まれ。 1959年にわずか22歳で亡くなるまでの間、表立って活躍したのはわずか1年半に過ぎないのですが、ロック史で最も影響力のあったアーティストのひとりとして記憶されています。 その影響は、特にビートルズ、ローリング・ストーンズに顕著ですが、そもそも、バディ・ホリー&クリケッツは、エレキギター2本とベース、ドラムズという編成をロック・バンドのスタンダードにした、元祖でもあるのです。 そうした、歴史的な影響力の大きさから、2004年にローリング・ストーン・マガジンが選んだ、「最も偉大な100人のアーティスト」で13位に選ばれています。 ホリーが生まれたのは、テキサス州ラボックで、地理的位置から考えると、ホリーが主に聴いていたのは、カントリー、リズム&ブルーズ(テキサス・ジャンプ)、テックス・メックスだっただろうと言われています。 民族系音楽の非常に豊かな土地柄であり、ラジオから流れ出る白人、黒人、ラテンといった多種の音楽、混血音楽は、徐々に、彼自身の中でさらにミックスされて、後に特徴的なバディ・ホリー・サウンドを生み出すもとになるのです。 そんなわけで、音楽一家だったホリー家で、バディくんは、ピアノ、ギター、フィドルを習いましたが、まだガキンチョのくせにすでに地元のラジオ局で自分の番組を持っていたという天才ぶり。そして、1949年、中学時代に、ボブ・モンゴメリという男とばったり出会います。 「おっ!いいね!おまえさん!」「なんだい!おまえさんこそ!このイカす眼鏡男!」「いや、うふん、ばかーん」なんてキモいやりとりが男同士であったかどうか知りませんが、とにかく、好きな音楽で気があったふたりは、ブルーグラスっぽいデュオ、バディ&ボブとして、地元のクラブや高校のタレントショーなどで活動を開始。 ところが、1955年初頭、地元ラボックにやってきた、当時としては風変わりな歌手、エルビス・プレスリーを見て大ショック!「うわー!かっけーー!僕らもこんなのをやろ...

サマータイム・ブルース - エディー・コクラン

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こんにちは、エディー・小倉です。 さて、1938年ミネソタ生まれのレイ・エドワード・コクランことエディー・コクランは、ごく一般的な家庭の出身で、12歳のときにスクールバンド(いわゆるブラバンね)でドラムスをたたくのが夢でした。 しかし、学校バンドではよくあること、なぜかトロンボーン担当になってしまいます。 「えーっ・・ま、いっか・・仕方ない」と、ボントロを始めるのですが、今度は、ブラバンの先生が、「君はボントロに向いてないねえ・・クラリネットにしなよ。」と言ったとか言わないとか。「気まぐれでモノを言うんじゃねえ!先公!」なんて、怒るのがロックンローラーっぽいのですが、当のコクランは「クラリネットって何?」っていう始末。 「オレのおお!イカすドラマーの夢はどうなったんだああああ!」と叫んだかどうか知りませんが、うまくいかずに興味を失いつつあった青春のある日、兄貴のビルからケイ製のチープなギターを借りて興味を持ちます。そして、「ギターコードブック」を見ながら、コードを覚えて弾くのが日課、という、まるで今の日本の中学生と全然変わらない生活を送っていました。 ジュニア・ハイスクール時代の1951年、コクランは、別の中学校バンドでウッドべースを弾いていた仲間、コニー・スミスと出会います。そして意気投合した二人は、53年に、ギター2本とベースによるトリオを結成、アマチュアとして、あちこちのスーパーやパーティなどで演奏して、日銭を稼ぐようになるのです。 「なんか、オレ、才能あるかも・・かっけーかも・・モテっかも・・」と思ったかどうかわかりませんが、ハイスクール進学後も、ギターばかりいじって、様々なギグに顔を出し、「高校なんか辞めてプロのミュージシャンになりたい。」という淡い夢を抱くようになったコクランくん。 当時の彼のお気に入りは、チェット・アトキンズ、ジョー・メイフィス(ともに、カントリー&ウエスタンのギタリスト)とジョニー・スミス(ジャズ・ギタリスト)などで、常人には演奏不可能に思える有名なメイフィスの早弾きなども、完璧コピーでこなしていた。 コクランは、ロカビリー・シンガーというイメージがありますが、もともとは、今でもよくいる「ギター小僧」だったわけです。 1954年、とある、セミプロのウエスタンバンドを見にいった、コクランは、清水の舞台から飛び降りるつもりで、「メンバーに...

ハードロックギターの発明者 ~ リンク・レイ

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さて、ロック音楽が好きなら、知らない人がいない、ジミー・ヘンドリックス、ジミー・ペイジ、ザ・フー、レッド・ツェッペリンなどなど、ハードロックの有名バンドやギタリストたち。 彼らが有名にし、今では、すっかり当たり前になってしまったディストーションの効いた爆音エレキギター。あれは、誰が始めたのでしょう? どこにでもいそうなサラリーマン風のスーツに帽子のお父さんが、音楽スタジオに行くと、「ギョワアアアアアンンンン!グイーンンン!!!」なんてエレキで爆音出しながら、芋虫みたいに身をよじらせて弾いているギター小僧がいました。にこにこと微笑みながら、お父さんは、休憩中のギター小僧に近づきます。 お父さん「ねえ、坊や、どこでそんなこと覚えたんだい?」 ギター小僧「今流行っているロックバンドでこうやってるんだ。どうやるのかギターマガジンの記事に出てたから、同じようにやってるのさ!」 お父さん「そのロックバンドって、もしかして、レッド・ツェッペリン?」 ギター小僧「ちげーよ!!そんなジジイバンドじゃねえよ!」 お父さん「ツェッペリンがジジイなら、ジミヘンはどうなっちゃうんだ?ザ・フーは?」 ギター小僧「なにそれ?化石かなんか?」 お父さん「化石か・・。ようし!じゃあ、これはどうなんだあああああああああああああああ!!」 お父さんがスーパーマンのようにスーツを脱ぐと、下から現れたのは、黒の革ジャン、帽子をとると、ヅラのようなリーゼント!大昔のロックンローラーそのものです! そして懐からドラえもんのように取り出したのは、めっさ古くて安―い50年代のダンエレクトロ・ギターリン!(当時のメンズ雑誌に出てる通販用ギター。) お父さんがそのギターをアンプにつないで狂ったように弾き出すと、「ドギャアアアアアンン!!!!!!ギュイイイインンン!!!ブワオオオオオンン!!!」 「か、かっけぇ・・・」ギター小僧は、目を丸くして卒倒していまいました。 お父さんの正体は、実は、「ハードロック・ギターの発明者」リンク・レイだったのです!! と、まあ、ずいぶんくだらない空想で始まりましたが、リンク・レイは、1958年にリンク・レイ&レイメン名義で出したシングル、「ランブル」たった1枚で、ロック・ギターの歴史を塗り替えてしまいました。 1958年といったら、あーた、まだ、バディ・ホリーが生きてた時代、レッド・ツェ...

1950年代のレッド・ツェッペリン ~ ジョニー・バーネット・トリオ

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  ジョニー・バーネットといえば、なんといっても知名度を上げたのは、大ヒット曲「ドリーミン」(1960年 11位)「ユーアー・シックスティーン」(1960年 8位)で、甘いティーンポップ歌手として知られてますね。 ところが、昔、なにかの雑誌で「ジョニー・バーネット・トリオ~50年代のレッド・ツェッペリン」と紹介されていたので、お?こらなんだべ?とあわててLPを買って聴いたのですよ。30年も前ですが。 まあ、「ロッカビリー・ブギ」とか「トレイン・ケプト・ア・ローリン」とか、ざっと聴くと、エルビスっぽい、シンプルなロカビリーなんですが、なんか変。ギターが特に変なんだよなー。このギターのポール・バリソンが曲者、という話。 Johnny Burnette - RockaBilly Boogie さて、ざっと時の流れを追ってみると、まずは、ジョニーとドーシーというバーネット兄弟がおったそうな。1932年と1934年の生まれらしい。 で、彼らはボクシングとかやっているバリバリのスポーツマンだったのだけど、音楽も大好きでバンドを始めたわけですな。そこにドーシーのボクサー中間のポール・バリソンが加わって、トリオで演奏することになった。 なんだか要するに、全員ボクサーじゃん。具志堅だの亀田だのが寄ってたかってロックバンド作ったようなものか。うわ、こわそー。強そうだし、「へたくそ!」とか言ったら殺されそうな気がする。 結成当初の音を聴くと、バリバリのウエスタン(Go Mule Goなど)。ドーシーがもともとスティールギターだったこともあるのかもしれないけど、技術的には決して完成されてないけど50年代前半のカントリーの香りがする味のある演奏です。 まあ、しかし、ぜーんぜん売れなかった。別の仕事みつけてやっとこやっとこ働きながらライブハウスで演奏、なんて生活をしていたバーネットトリオですが、エルビスとひょんなことで知り合いになり、サンレコードに売り込むと撃沈。 たぶん、これがのちのちまでトリオが歴史に取り残された一番の原因でしょう。サム・フィリップスにはねられたというのは相当キツい。 で、こんな南部の田舎にいらんねえっ!おらにゅーよーぐざいぐだ!と勇んで大都会へ。ここでもまた、やっとこやっとこ仕事探し。バイトル、とかリクルートなんとかなんてないでしょうからあ、新聞広告でも探したんで...

ロカビリーの女王~ワンダ・ジャクソン

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ワンダ・ラヴォンヌ・ジャクソンは、1937年、オクラホマシティの生まれ。 当初、細身の美人の彼女は、ギターをかき鳴らしながら歌う、カントリー・ガールとして、世間の注目を集めますが、ボーイフレンドだったエルビス・プレスリーからそそのかされてロカビリー歌手になり、見かけとはえらく違う、カエルを踏んずけたようなダミ声で怒鳴りまくる強烈さに、聴き手はびっくら仰天トコロテンでありました。 「女性はおしとやかに」というのがアメリカでも当たり前だった当時、ワンダのような歌手はほとんどおらず、無敵で「女子ロカビリー界」(?)をひっぱっていったのでした。 そのせいで、彼女は、「クイーン・オブ・ザ・ロカビリー」という唯一無二の称号を手に入れましたが、ロカビリー自体のブームが去ってしまうと、他の男性ロカビリアンたちと同じく、古巣であるカントリー&ウエスタンの世界に戻っていきました。 しかし、ここでも、1960年代から1970年代にかけて、なかなかの成功を収めます。そして74歳になる現在も、たいへんタフな活躍を続ける現役のミュージシャンでもあるのです。 (注:2022年現在84歳。2019年に引退を発表。) さて、彼女の父親は、理髪師でしたが、セミプロのカントリー・フィドルのミュージシャンでもあり、音楽の夢を追ってカリフォルニアに引っ越します。そんな父は、子供時代のワンダにとって、最初の音楽の先生でもありました。彼は40年代当時、全国的に流行していたウエスタン・スイングが大好きで、ボブ・ウイルス、スペイド・クーリイといった、そのジャンルを代表するミュージシャンたちが率いるバンドを、幼いワンダを連れて見せて歩いたのだそうです。きっと、このころの、強烈な楽しさが忘れられなかったことが、彼女を音楽の道に進ませる原動力をなったのでしょう。ワンダはギターを手にして、すっかり気に入り、フィドルの父といつもふたりで楽器を弾いて遊んでいたのだそう。 と、まあ、このあたりは、50年代のほのぼのホームドラマ「パパ大好き」みたいなのですが、パパの思うとおりの素直なカントリーミュージシャンにならなかったことが、彼女の人生を大きく変えることになります。 数年が過ぎ、「懐かしの我が家、オクラホマに帰りたい!」と言った(本当に言った!)母親の意向で、一家はオクラホマへ戻りました。 そんなこんなで、オクラホマの田舎で大の...

マザー・オブ・ロックンロール ー エラ・メイ・モールス

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「何が最初のロックレコードか?」っていう、鶏と卵みたいな話が昔からあるんですよね。 そもそも「ロックってなんだ?」ってところもはっきりしないような気がしますが、一応、面白いお話ではある。  ロバート・ジョンソン、マディ・ウォーターズ、T・ボーン・ウォーカー、チェット・アトキンスなどなど、いろいろと有名なアーティストが「ロックの元祖」みたいに取り上げられてきている中、とても無視するわけにはいかない重要人物なのに、ひっそりと忘れられている人がいます。 彼女の名は、 エラ・メイ・モールス。 1924年、テキサス州マンスフィールドに生まれたエラは、1940年代初頭、ポップ、カントリー、ジャズ、リズム&ブルーズをブレンドした音楽を唄った、最初の歌手のひとりです。 ロックはブルースとカントリーのミックスだという説がありますが、そういったサウンドが目立ってきていた50年代には、はっきりした名前がなく、一説によると、こうした音楽をかける専門のDJ、アラン・フリードが「ロックンロール!」と叫んだことによって、ロックンロールという名前で呼ばれるようになった、と言われています・・・・・ ・・・とかなんとか、書くと、 「あれ?それって、どこかで聞いたような話だぞお?」 「んだんだ!そら、あれでねえか、恵比寿フリスビーとかいうやつの話でねえべか?」 「いんや、ビール平太とカレーの米粒、とか言う連中の話じゃ?」 なんて井戸端でのやりとりが聞こえてきそうな感じ、ですよね?(そこのお客さん、失笑しないでくれる?) いえいえ、1942年に出たウエスタン・スイングナンバー、「カウ・カウ・ブーギ」を唄ったとき、彼女は17歳。今聴けばわかるとおり、そのフィーリングは、完全に初期のロカビリー(白人によるリズム&ブルーズ)です。 このとき、エルビスは、紙飛行機を飛ばして遊んでいる7歳の子供ですし、ビル・ヘイリーは、エラよりひとつ下の16歳ですが、やっとギターケースをどっこらしょ、ともって旅回り楽団に入ったばかりのころ。まだ自分のバンドを結成すらしていません。 エラは、白人ですが、父親がプロのジャズドラマーだったことから、幼いころから黒人音楽に親しんで育ちました。 そして、歌手としてバンドに正式加入したのは、1939年、わずか14歳のときで、バンドはローカルどころか、世界的に有名だったジミー・ドーシーのオーケス...

ふたりのガンター ~ ロックのご先祖様

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こんばんは。八十六頑太です。 ハトロクガンタ!みなさまのハトロクガンタでございます!次の選挙にはぜひわたくしハトロクガンタ!ハトロクガンタ! をよろしくお願いします! いやー、地方選挙に出てきそうな名前だー、と思いますがいかがざんしょ?なにがざんしょだ!馬鹿者!もう残暑なんて終わったわ! なんだかんだでアナコンダ!大丈夫です、まだ完全には狂っていません! というわけで、ハードロック・ガンターをご存じの方は最寄りの警察署まで、ではないですね、滅多にいません、たぶん。 与太はこれくらいしまして、ハードロックっていってもレッドツェッペリンをコピーしてた近所のガキの頑太くんではなくて、ホントに文字通り「硬い岩」のこと。 硬井岩男なんて名前もありそうですなあ。この人、本名をシドニー・ルイ・ガンター・ジュニアというので、少しフランス系っぽいのかな。生まれは1925年なので、同じ歳の似たような立場の人はビル・ヘイリー御大です。ヘイリーと違ってこの人、ほとんど無名に近いけれども長生きした。2013年没、となっているし、最晩年に撮られたインタビューもある。 カントリー&ウエスタン、ウエスタン・スイング系の人ですが、ロックのご先祖様のひとり。 アラバマ州バーミングハムの生まれ。ティーンころからマセガキだった頑太くん、フートオウルランブラーズというバンドを作ったり、ノベルティソングをソロで歌ったりして大活躍、1939年にゴールデンリバーボーイズというカントリースイングバンドに加入。 ここで、「バンの扉に挟まれる事故にあってもケガひとつしなかった」という理由で、硬井岩男、じゃなかった、ハードロックというあだ名がついたらしい。いやー、つまんねえ理由だなあ。でもね、モダンジャズの神様チャーリー・パーカーだって、あだ名のバードの由来は、ツアー中、車でうっかり曳いてしまった鶏をわざわざ拾いにいって、持ち帰り、「みんなで食おう」といったからだそうですよ。どこが面白いんだこの話。 ジモピーの間で評判になったガンターさん、バーミングハムのローカルなレコードレーベル、バマでもって、「バーミングハム・バウンス」という曲を吹き込んだ。で、これがなかなかのローカルヒット。20ものカバーバージョンが出た。そのうち、有名人のレッド・フォーリー盤がビルボードのカントリーチャートとポップチャート両方でヒットしたから、こ...

フラニー・ビーチャー  ー ベテランジャズマンがいかにしてロックギターの元祖になったか

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  まずは「こちら」をお聴きください。 こちらはグッドマンセプテッドですが、メンバー構成の中に、フランシス・ビーチャー(FRANCIS BEECHER)の名前があることにお気づきでしょうか。 古いジャズ録音で、ベースとのシンクロ奏法からあまり明瞭には聞き取れませんが、ギターの音が聴こえると思います。 今回のお話はこのギターの人。フランシス、別名、フラニー・ビーチャー、世界最初のロックギタリストのひとりです。 ビル・ヘイリーのギタリストとして有名なフラニー(フランシス)・ビーチャーは、ダニー・セドローン急死の後1955年にコメッツ入りした時点で、ヘイリーより4つ年上ですでにジャズマンとして一流でした。 特に1949年春の一連のベニー・グッドマン・セクステットのリズムセクションで巨大な「エピフォンエンペラーギター」でザクザクとジャズコードを刻み続けた仕事を聴けばベイシーのフレディ・グリーン系の古典的なジャズギタリストであることがよくわかります。 ちなみに「フレディ・グリーン」は、スイング時代を代表するギタリストで、エレクトリックを一度も手にせず、生涯一度もギターソロを取らなかった(録音が残っていない)と言われている「ミスター・リズム」。 グリーンのギターは、伝説的な「ストロンバーグ・マスター400」。世界に100本しかない、スイングジャズギターの名器。グリーンはものすごい弦高(12フレットで約2.5センチ。ミリ、ではない)でした。高くすると音が大きくなるからです。 「ストロンバーグ・マスター400」  この特大の特注ギターで、フルオーケストラをむこうにまわしてアコースティックギターだけでリズムをとったのです。ベイシー(ピアノ)、グリーン(ギター)、ウオルター・ペイジ(ベース)、ジョー・ジョーンズ(ドラムス)の4人は「オール・アメリカン・リズム・セクション」といってジャズのリズムセクションの御手本になりました。 話が少しそれますが、こんな動画もある。同じくビンテージギターショップの草分けであるノーマンズレアギターショップのものですが、ここで登場してストロンバーグで見事な腕前を披露しているのは、俳優で歌手でギタリストの「フランク・スタローン」。シルベスター・スタローンのお兄さんです。俺の彼女のケツよりでかいギターだぜ!とかいかにも下品なギャグがスタローン家...

世界最初のロックドラマー ディック・リチャーズ

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  2020年7月12日、ビル・ヘイリーコメッツの最後の生き残りメンバーのひとり、ディック・リチャーズがその生涯を閉じました。享年95歳。 本名をリチャード・マーレイ・ボセリといいますが、もうひとつの芸名はディック・ボセリでした。こちらの芸名は俳優としてのもので、たくさんの映画、テレビドラマ、劇場に出演していました。 1924年デラウェア生まれ。コメッツ入りは1951年で、最初のメンバーのひとりでした。(51年なので、具体的にはコメッツではなくサドルメン)。55年にジョディマーズ結成の伴いコメッツを抜け、58年までジョディマーズのドラムス兼ボーリストとして活躍。その後音楽業界を抜けて、高校の体育教師を務めました。70年代には教師業の傍ら、映画やテレビなどの俳優として活動。87年に再結成されたオリジナルコメッツのメンバーとしてつい昨年まで現役のドラマーだったのですが、今年春くらいに体調を崩し、亡くなったということのようです。 彼が有名になるのは、ジョディマーズからです。 サドルメン~コメッツのメンバー中、マーシャル・ライトル、ジョーイ・アンブローズ、ディックの3人は、雇われ組で、それぞれ、ダブル・ベイス、サックス、ドラムズを担当していました。  ベイスは、マーシャルの前がアル・レクスでしたが、この人は後で出戻りすることになります。サックスのジョーイは、当時まだ10代の若いミュージシャンで、R&B界の大物ビッグ・ジョウ・ターナーから「最も白い黒人サックス奏者」(実際は白人)と賛辞を送られていた若手のホープ。マーシャルは、まだ10代のセミプロ・ギタリストでしたが、ヘイリーからスラップ・ベイスのテクニックを教わったそうです。ドラムズのディックはコメッツ時代はライブ専用のメンバーで、なぜか主要なスタジオ録音はすべて、プロのセッションマン、ビリー・ゲサックの手になります。当時の録音技術では、ドラムズは音量の関係で録るのが極めて難しかったので、その専門家を必要としたのかもしれません。 彼らは、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のセッション(LPにまとめられた歴史的名盤)まで参加し、その直後にコメッツを辞めて自身のグループ「ジョディマーズ」を結成しました。まあ、コメッツそっくりのバンドですが。バンド名は、それぞれの名前の最初の部分をとって名付けたそうで、...

スラップベース最強の伝説 - アル・レックスに関する短いストーリー

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  ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの、おそらく最も有名なベーシスト、アル・レックスが2020年5月に亡くなった。91歳。 グレッグ・ピシリリは1962年、アルバート・ピシリリの息子として生まれた。 「コメッツのアル・レックスとして知られた父は私が生まれる前に引退しました。1960年だと思う。」 ペンシルベニア州ノリスタウン出身のアルは、1960年以降、家族とともに過ごし、9人の子供たちを養うため、アランウッドスチール(鉄鋼会社)での堅実な仕事のために音楽を辞めた。 グレッグは、父から当時の話をよく聴いた。 「父は40年代後半にビル・ヘイリー&サドルメンのベーシストとして活躍しました。その後、父が街を離れた50年代初頭にサドルメンはコメッツになりましたが、1955年にコメッツに再び加わり、成功を収めて映画を撮りました。」 アル・レックスは、コメッツの一員として、55年と56年の映画「ロック・アラウンド・ザ・クロック」と「ドント・ノック・ザ・ロック」に出演し、有名なアクロバットなステージで多いに人気を得た。そして伝説になった。 「何年にもわたって、父はそれについていつも話していました。私の兄と妹は、エド・サリバン・ショーとアーサー・ゴッドフリー・ショーに出ていた父をテレビで観ていたと言っています。」とグレッグ。  「私の父がとても影響力を持っていたのは、2つの楽器のように機能するベース(スラップベース)を演奏する彼の素晴らしい才能だったと思います。彼はベースの上で立ち上がり、仰向けになって弾き、上に寝そべって弾きました。本当にアクロバティックでした。そして当時、子供たちはそのようなものに夢中になりました。」 「バンドの人気は低下し始め、私の妹が1961年に生まれるまでに、父には7人の子供がいて、家にいて仕事に就かなければならないと感じていました。いつもツアーをし必死で働いても、ジェット機で飛び回る今日のロックスターのように優遇されていた時代ではなかったと思います。私の父がツアー始めたとき、古いトラックに機材を積み込んで、クラブ廻りをしたり、ニューヨークでのレコーディングセッションにも運転していかなければなりませんでした。それは困難な道でした。」 「父は、新進気鋭のエルビス・プレスリーがクリーブランドでビル・ヘイリーと彼のコメッツのためにショーを開いたと...

サマー・スーヴェニア ~ 50年代後半のビル・ヘイリー

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1957年のイギリスツアーは、「大成功の大失敗」だったという話を前々回にしました。 奥さんと一緒にイギリスのウォータールー駅に到着したヘイリーを待っていたのは、4000人の熱狂的なファンでした。 コンサートも大入り大成功。しかし、ある意味、失敗だったのは、当時のカントリーバンドではスタンダードなアクト(ジョークやコメディアクトを交えたボードビル的なステージング)が若者層に受けなかった。 ちょうど時代の変わり目で、すでにベテランのミュージシャンだったヘイリーが普通だと思っていたことがもう時代遅れになっていた、ということでしょう。 結果、ロック・アラウンド・ザ・クロックだけはイギリスで再び過熱して大ヒットしましたが、それ以外はいまいちだった。 帰路についたヘイリーを見送りにきていたファンはわずか数人だったそうです。 この渡英をきっかけに、ヘイリーは競争から敗退したと言われています。これが、大成功の大失敗という意味です。 なお、60年代の終わり、非常な人気をもって迎えられた50年代ロックリバイバルブームの立役者として返り咲いた際、人気を下支えしたのがイギリスだったことは特筆すべき。21世紀の今でもヘイリーの音楽はイギリスでのほうがアメリカより人気があります。 帰国したヘイリーは、自分のキャリアを再考せざるを得ませんでした。このままではますますダメになると思った。しかし、プロのソングライターもいないコメッツで、目新しい曲を作ることも困難でした。「アイデアが枯渇してしまった」(フランク・ビーチャー)ということだった。そこで、古い世代向けに、一時代前のスタンダードにコメッツ特有のアレンジを施したものを出したけれど(ロッキン・スルー・ザ・ライ、ロック・ロモンド、ユー・ヒット・ザ・ロングノート、ビリーゴートなど)これも当たらず。 おかかえのソングライター、ラスティ・キーファーが書いた、ピカデリー・ロック、ロッキンローリン・シュニッツェルバンクといった「ロッキン・アラウンド・ザ・ワールド」の二番煎じものもダメ。 ハウ・メニーといったカントリーソングもダメ。エディ・アーノルドの有名なイッツ・ア・シンのカバーもぬるい出来でダメ。 ミルト・ゲイブラーによると、「このころには、ヘイリーはもともと持っていたカントリー・フィーリングをなくしていた。」 メリー・メリー・ルーは、かなり出来栄えがよく...