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6月, 2021の投稿を表示しています

コニー・フランシス

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フランシスは、我が国でも「カラーに口紅」や「ヴァケイション」がカヴァーされて、知名度が高い人ですが、50年代後半から60年代前半にかけて、トップ10に12曲を送り込んだ女性歌手。これに匹敵するのは、ブレンダ・リーだけです。 アマチュアコンテストに出場した当初、イタリア系の人らしく、アコーディオンを抱えた歌手「コンチェッタ・フランコネロ」だったのですが、もっと覚えやすい名前にしなさいな、とアドヴァイスされ、「13歳のフランシスちゃん」になった彼女は、MGMからデビュー。1955年のことでしたが、その後もぜんぜん当たらず。 MGMもクビにしたがってるし、大学行くことにして、歌手やめちゃおっかなー、とか思いつつ、これで最後だあ、と吹き込んだ「フーズ・ソーリイ・ナウ」が思いがけないヒットになり、1958年にとうとうミリオンセラーになりました。 その後、ニール・セダカ&ハワード・グリーンフィールドのソングライターコンビが書いた「ステューピッド・キューピッド」がトップ10入り。セダカ&グリーンフィールドは、「フォーリン」、「ホエア・ザ・ボーイズ・アー」も提供して、どちらもヒット、さらに、「リップスティック・オン・ユア・カラー」、「フランキ-」とヒットが続いて、コニー・フランシスは、最も多くのトップ10ヒットを生み出す女性歌手となっていきました。 CONNIE FRANCIS "WHERE THE BOYS ARE" (ON STAGE FILM) ティーン・ポップではなく、大人の歌手として大成する決定打となったのは、1959年にペリー・コモ・ショーで歌った「ママ」で、レコードはイタリア語と英語の両方で歌われたものが発売されてどちらも大ヒットし、以後、たくさんのアルバムを他国籍語ヴァージョンで吹き込むことになります。 1961年には、自身のテレビショーを持ったり、流行のバラエティ番組に出たり大活躍、映画界にも進出(ボーイ・ハント)、エルビスと同じように大スターへの道を歩んでいきました。彼女が売ったレコードはアメリカ国内だけで9000万枚にも及びます。 しかし、イギリス大襲来で影が薄くなり、最後のトップ10ヒットは、62年の「ヴァケイション」となりました。 しかし、今、tubeで、当時のライブ映像を見ると、その圧倒的な歌唱力に驚愕します。稀代の大歌手、といってい

70年代カーペンターズをめぐるいわれなき悪評

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わたくしが、中学、高校生くらいだった1970年代、すごく好きでアルバムを買いそろえたりしていた洋楽アーティストのなかにカーペンターズがありました。ホントに大好きだったのですよ。流れるような美しいメロディ、スムースなアレンジ、素晴らしいボーカル、ため息がでるほど見事な器楽演奏、すべてがよかった。 そんな、カーペンターズについては、日本語版ウィキペディアを読めば、実に事細かにフォローがなされていて、わたしが書くことなどなにもありません。 それほど、日本にとどまらず、世界各国で絶大な人気を誇り、今では完全にスタンダードとなっているカーペンターズの音楽。 唯一ひっかかっていたのが、当時の音楽評論家の酷評の数々でした。これはよく覚えている。ローリングストーンのアルバムレビューブックでも、酷い扱いで、星1つが並んでいたと思います。 当時、文句なく「専門家」の間で高評価だったのは、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、古いR&B音楽(リトル・リチャード、チャック・ベリーなど)で、売れなかったマイナーなロックの中にも高評価なものはかなりありました。 一方で、まったく相手にされなかったのは、RCA移籍後のエルビス(サン時代だけしか評価しない人が多かった)、AORやイージーリンスニング系(パーシー・フェイス、、ポール・モーリアなど含む)、フランキー・アヴァロン、コニー・フランシスといったアイドル系など、売れに売れて大金持ちな白人、っていうのが嫌われる対象でしたね。 まあ、70~80年代は黒人公民権運動が最高潮に達していて、黒人文化を盗んだ白人は皆殺しだくらいの世相だったものだから、当時流行っていた「左翼インテリ白人」の最先端だった音楽評論界はそんなノリだったのだろうと、現在は思えます。 そんなこんなとは遠く離れた日本の東京に住んでいたわたしには、そんな感覚はまったくなし。だから、純粋に「音楽そのもの」を楽しんでいたのだから、わたしの感覚のほうが正しいと思う。アメリカで酷評されていた大多くの音楽が、イギリスと日本ではうってかわって大人気だったのは、当然じゃないか、それは音楽そのものを聴いていたから、と思います。 まあね、たぶん、カーペンターズを聴いた後でチャック・ベリー聴いたりすれば、とくに若い人は、カーペンターズは平板で甘ったるいつまらない音楽に聴こえるだろうと思う。それはそもそ

愛のシャリオ~アイ・ウィル・フォロー・ヒムの軌跡 ーポール・モーリアのティーンポップ金字塔

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  まず、こちらをお聴きください。 ポール・モーリア「愛のシャリオ」 フランスのイージーリスニングのインストルメンタルで、作はフランク・プゥルセルとポール・モーリア、演奏はフランク・プゥルセル・オーケストラ。1962年のことです。 この曲はこれがオリジナル版ですが、プゥルセルは、ポップソングをインストにして当てることでも有名で、日本で最も知られているのは、ラジオ番組JET STREAMで使われた「ミスター・ロンリー」です。 ちなみに、ミスター・ロンリーのオリジナルはボビー・ヴィントンのポップソング。ヴィントン本人の作で、1964年に全米1位になっています。このとき、バックをつけたのがバディ・グレコのバンドです。 ポール・モーリアは親日家で頻繁に来日しコンサートやラジオテレビに出演、69年から97年まで870回の公演をこなしました。 最初のきっかけは、1968年に『恋はみずいろ』がビルボード全米ヒットチャートで連続5週トップを記録したときで、これを機に世界的にヒット(約500万枚)。年間チャートでも3位。RIAAゴールドディスク、ACCディスク大賞などを受賞。イギリスでは12位、日本では18位まで上昇しました。 さて、シャリオ(邦題:愛のシャリオ)は、翌年の1963年、イギリスの歌姫、ペトゥラ・クラークがフランス語版を吹き込みます。(全英39位)。ペトゥラは同年に「恋のダウンタウン」を世界ヒット(全米1位)させ、世界中にたくさんのファンが生まれました。 ペトゥラ・クラーク「愛のシャリオ」 名作、愛のシャリオはここで終わりません。 さらに、アメリカのリトル・ペギー・マーチがタイトルを「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」と変えた英語版を64年に吹き込み、全米1位にしたところでこの曲は本物のティーン・ポップの伝説になるのです。 当時14歳の彼女は「最年少1位獲得記録」を樹立。いまだに、最年少1位獲得女性歌手の記録は破られていません。 この曲は、日本語でも吹き込まれ、ペギー・マーチは64年、日劇ウエスタンカーニバルに出演するために来日。 以後、日本でも三木たかしの「忘れないわ」がヒットしています。 リトル・ペギー・マーチ「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」 さらに、先があります。 1992年のハリウッド映画「天使にラブソングを」にゴスペルバージョンがフィーチャーされ、主演のウーピー・

ママ、アイ・ウォント・トゥ・シング -ドリス・トロイの物語

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ドリス・トロイ(1937年1月6日〜2004年2月16日)は、多くのファンに「ママソウル」として知られるアメリカのR&Bシンガー兼ソングライターでした。 目立つヒットは「ジャスト・ワン・ルック」のみで、「最も才能ある一発屋」と言われることもありますが、この人は後にそれとは関係なく、伝説となりました。それはある物語の主人公として、です。 さて、彼女の最大のヒットは、1963年のトップ10ヒットである「ジャスト・ワン・ルック」で、これはのちに最も多くカバーされたR&B曲のひとつとなっています。 Doris Troy - Just One Look ホリーズ、フェイス、ホープ&チャリティー、メジャー・ランス、リンダ・ロンシュタット、ブライアン・フェリー、アン・マレー、クラウス・ノミ、ハリー・ニルソンなどなどキリがありませんが、われわれ世代でとりわけ記憶に残っているのは、リンダ・ロンシュタット版ではないでしょうか。リンダの曲だと思われていることが多いと思います。 Just One Look (Linda Ronstadt 2015 Remaster) ドリス・トロイはブロンクスのハーレム生まれ。彼女の両親はペンテコステ派の教会の人であって、リズムやブルースのような音楽を認めなかったらしく、ティーンのころは父親の合唱団で歌いながら、リズム&ブルースで有名なアポロ劇場では案内係のアルバイトとして働いていたのだそうです。 その後、持前の歌唱力を活かしてレコーディング業界に入り、トロイはディオンヌ&ディーディー・ワーウィックとともにアトランティックレコードのバックアップボーカリストとして働くことになります。 彼女は1963年にThe Sweet Inspirationsの最初のメンバーとして、ソロモンバーク、ドリフターズ、ディオンヌ・ワーウィックなどのバックアップボーカルを歌った後、自作曲「ジャスト・ワン・ルック」を1963年のUSビルボードホット100で10位になる大ヒットにします。この、一度聴いたら頭から離れなくなってしまう魅惑的なメロディとリズムの曲は時代を超えてヒットしつづけ、今ではスタンダードになっています。 この曲は、1962年10月にプロデューサーのバディルーカスがアトランティックレコードのデモとして10分で録音したもの。 アトランティックはデモを聞いた後、再

リトル・ガール・ウイズ・ビッグ・ヴォイス ー ティミ・ユーロ

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  ティミ・ユーロは、デビュー当時、若くかわいらしい小柄な白人女性で、しかも、トップ10に入った大ヒットは1曲だけだったせいか、「よくいる一発屋のアイドル歌手」だと誤解されがち。 そのため、「最も過小評価されてきた歌手」のひとりといわれていますが、この5フィート(152センチ)に満たない小柄な女性は、素晴らしい「ブルーアイド・ソウル歌手」(白人ソウル歌手)でした。 それは、同時代のアリーサ・フランクリン、アーマ・トーマスといった黒人ソウル歌手に決してひけをとらないもので、白人と黒人をヒットチャート上で、厳密に区分けしていた当時の音楽事情を考慮すれば、極めて異例のことだったといえます。 自分自身が彼女の大ファンであることを公言した最も有名な人物は、エルヴィス・プレスリーで、後年、ユーロ版「ハート」のカヴァー・ヴァージョンを出してもいます。 ティミ・ユーロこと、ローズマリー・ティモティー・ユーロは、1941年にシカゴで生まれました。 シカゴというのは、ご存じのとおり、マディ・ウォーターズを抱えるチェスレコードがあった有名なブルーズの街です。 ティミは、子供のころからヴォーカル・レッスンを受けていたのですが、先生が、「この子は、特殊な声帯と肺を持っている」と言うくらい、持続力のある、極めて大きな声の持ち主だったそうですが、当時、ユーロ家で、家政婦をしていた黒人女性が、そんな子供時代のティミを地元のブルースクラブへ連れて行ったのです。 そこで、ダイナ・ワシントン、ミルドレッド・ベイリーといった、高名なジャズシンガーを目の当たりにしたティミは、「わたしにだってできるわ!」と、黒人音楽の歌い方を目指すようになります。 1952年に家族が引っ越したカリフォルニアで、彼女が最初に聴衆の前で唄ったのは、家族が経営するイタリアンレストランでのこと。やがて、彼女の唄は、客の間で評判になり、ナイトクラブなどで唄うようになります。 プロとしてデビューしたのは、1959年。リバティーレコードのオーディションに合格し、契約したときでした。 しかし、彼女は、当時としては、大変な変わり者。というのは、自分に向かない素材は絶対に唄わないという主義を最初から貫いていたからです。 当時の流行と彼女の外見イメージに合わせるために選ばれた、アイドルっぽい、自分が好きになれない唄は全部放り出してしまい、リバティ

元祖エロカワ・ギャルズ ー ザ・ロネッツ

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  60年代前半に大活躍した「元祖エロカワギャル・グループ」、ロネッツ。 わたくし、中学生時代にLPをすべて手に入れ、さらにCDでも全て持っているのです! 実は、種を明かせば、アルバムは1枚きり(無名時代のコルビックスレコード・コンピ入れても2枚)、という短命なグループだったわけです。 ロネッツは、1960年代を代表的するガール・グループのひとつでありまして、ヴェロニカ・ベネット(後のロニー・スペクター)、エステル・ベネットの姉妹と、従姉妹のネドラ・タリーの3人で結成されました。 最も特徴的だったのは、有名な「ウォール・オブ・サウンド」。これは、プロデューサーだったフィル・スペクターの手になるもので、100人近いオーケストラを使い、多重録音を繰り返して、レコード上で、これまで誰も聴いたことのなかった分厚いサウンドを作り上げたのでした。 さて、ベネット姉妹と、近所に住んでた従姉妹のネドラの3人組は、子供のころから一緒に唄うのが大好きでした。しかも、3人そろってモデル体系、おまけにダンスもめちゃウマ!という、アイドルになるのが当然のような美形グループだったわけです。そして、1959年、音楽好きのおばあちゃんの勧めで、アポロシアターのオーディションに出ることに。 しかし、才能抜群のめちゃエロカワイイ10代の美人3人組をそのまま放っておく馬鹿は、もちろん、いません。当然のごとく、スカウトされまして、マネージャーもつき、10代の女の子らしく、チャリティ・ショーで可愛らしくドゥーワップ唄ったりしておりました。 そして、彼女たちは、1961年、思わぬ偶然からチャンスを手にします。 有名なクラブ、ペパーミント・ラウンジのオーディションに合格した彼女たち、レイ・チャールズのナンバー、「ホワッド・アイ・セイ」をノリノリで歌ったところ、これが馬鹿ウケ! そして、これを契機に、ロニー&レラティヴスとしてコルピクス・レコードと契約し、「アイ・ウォント・ア・ボーイ」をシングルリリース。また、ボビー・ライデル、デル・シャノン、ジョウイ・ディーなどのバックアップシンガーを勤めたりもします。 そんなわけで、コルピクス・レコードで、何曲かレコーディングし、今聴いても、当時のガール・グループの中でもとりわけ素晴らしい出来映えだったのですが、50年代半ばのシャンテルズ以来、結構たくさんあったガール・ドゥー

ザ・シャンテルズ ー 世界最初のロックガールグループ、ブロンクスへの帰還

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  2019年の4月5日、ゴールドレコードになったMAYBEの大ヒットで初期のロックンロール史に不滅の足跡を残したザ・シャンテルズは、ブロンクスのイースト166thストリートにあるパドヴァ教会で演奏しました。 ここは、彼女たちにとって始まりの地。小学生だった彼女たちが初めて人前でグループとして演奏した場所だったのです。 グループ名のシャンテルズは、ここの名前(school St. Frances de Chantal)からきています。 そして、この日、ニューヨーク市は、イースト166番通りとプロスペクトアベニューの角にある通りの名前を「シャンテルズ メイビー1958」に改名しました。 かつて、5人のオリジナルメンバー(アーリーン・スミス、ソニア・ゴーリング・ウィルソン、レニー・マイナスホワイト、ロイス・ハリス・パウエル、ジャッキー・ランドリー・ジャクソン)がパドヴァ小学校の聖アントニーに出席し、合唱団のメンバーとして出会い、シスターの指導の下で一緒に歌うことを学びだしてから、60年以上がたっていますが、この日は97年に亡くなったジャクソンを除くオリジナルメンバーがそろいました。 「今日の再会は、ロックンロールの殿堂入りしたときよりうれしかったわ。」                      ハリス・パウエル(オリジナルメンバー) THE CHANTELS "MAYBE" 2019 ザ・シャンテルズは、ヒットチャート入りした最初のアフリカ系アメリカ人の女性グループであり、また、同時にカトリック学校の合唱団から出てきた唯一のグループと言われています。 確かに、「Maybe」、「Every Night」、「The Plea」、「Prayee」など、多くのヒットは、どれも祈りに言及していて、教会グループとしてのルーツを感じさせるものが多いです。しかしながら、のちのソウルグループについて、よく言われたように、ゴスペルシンガーが転じていったものでないんです。 シャンテルズはクラシックとラテン音楽をもともと下地に持つグループでした。リードのアーリーン・スミスは音楽の神童で、12歳のときにクラシック音楽の歌い手としてカーネギーホールに出ています。それに楽器を演奏もすれば、作詞作曲の才にも恵まれていました。初期の素晴らしい音源は彼女のオリジナル曲(例:ヒーズ・ゴー

さよならグラディス ー グラディス・ホートン(ザ・マーヴェレッツ)

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  1975年。アメリカ。2曲のナンバー1ヒットを出す大スターだったカーペンターズは、長年のビートルズのファンで、ビートルズナンバーの中から大好きな曲、「プリーズ・ミスター・ポストマン」を1974年にカヴァーした。そして、ビルボードで1位の大ヒットになった。 1963年。イギリス。世界規模のレコード販売EMIグループは、アメリカのモータウン・レコードの英国内販売権を獲得した。当時EMIを代表するグループだったザ・ビートルズは、プロモーションを兼ねて、2作目のイギリス盤公式オリジナル・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』の7曲目にモータウン最初のミリオンセラー曲、「プリーズ・ミスター・ポストマン」を収録した。 1961年。アメリカ、ミシガン州インクスター。 「うそみたい!」当年とってまだ17歳のグラディス・ホートンは大喜びしていた。こんな大ヒットになってるなんて、まったく知らされていなかった。友達から聞いてびっくりしたのだ。素人の高校生である自分たちが一から作り上げ、地元近くの小さな、新しいレコード会社モータウンから出したデビュー曲が、とうとう週間ランキング第1位を獲得してしまった!信じれない快挙だ!「プリーズ・ミスター・ポストマン」は、グラディスが作ったグループ「マーヴェルズ」のメンバー、ジョージア・ドビンズのボーイフレンド、ウイリアム・ギャレットが詩を書いてきたものに、ジョージアが曲をつけたものだった。 だけど、レコード会社と契約する前にジョージアがグループを辞めてしまった。結局、リードを歌うことになったグラディスが、もともとブルース風の曲調だったものに手を加えて、戦地にいる恋人の手紙を待つ女の子を気持ちを歌った、流行歌に作り変えたものだった。グループ名を「ザ・マーヴェレッツ」に変えたのもグラディスだった。 1945年、フロリダ州ゲインズヴィルで、身寄りのない孤児として生まれたグラディス・ホートンは、里親を転々としながら育った。 15歳のとき、歌が大好きなグラディスは、住んでいたデトロイト郊外の田舎町インクスターで、高校のグリークラブのメンバー5人を集めて、コーラス・グループを結成した。メンバーは、グラディス、ジョージアナ・テイルマン、ファニータ・カウアート、ジョージア・ドビンズ、そして、リードを歌ったキャサリン・アンダーソン。そのグループ「マーヴェルズ」は、タレン

史上最高のポップ・ディーヴァ ー ダスティ・スプリングフィールド

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 さて、このブログは、もともとファッション・ブランド、the kingのコラムとして書き下ろしたものを個人的ブログとして掲載しなおしているものなのですが、the king掲載100回記念に、わたくしのつたないながらも50年以上に渡る人生で、一番好きなアーティストについて書くぞ!と決めていたのです。 しかし、なかなか書けず。いわゆる「無人島にたった1枚だけLP(CD)を持って行くとしたらどれにする?」っていうやつ。 わたしに限らず、子供のころから、誰でもたくさんの音楽を聴いてきてますよね。そんな中から「これが一番!」ってのを選ぶのなんて所詮無理な話だ、というのはよく聞きます。でも、よく考えてみたら、それって、あまりに「真面目な考え」に基づくもので、本当はもうとっくに感覚でわかってるんですよね。だって、いちばん好きって考えて、いちばん先に思い浮かぶ人がいちばん好きな人ってことでしょ?本当は、好きや嫌いに、余計な詮索も理屈もいらないわけですよね。 たまごかけごはんがなんで嫌いなんだ?なんで、空豆ばかり買い占めるほど食うんだ?ちゃんと好き嫌いしないで食べなさいっ!おかあさんは怒るわよ!と問われても、嫌いだから嫌い、好きだからしょうがない、としか答えられないですよね。 メアリー・イザベル・キャサリン・バーナデット・オブライエン。ダスティ・スプリングフィールドという名で知られる彼女は、本国のみならず、世界の認めた20世紀最高の女性歌手のひとり。日本ではモデルの「ツイギー」ばかり有名ですが、ダスティも世界的に見れば、60年代の「世界の恋人」と言っていい存在だと思います。単なる「俺的惚れ込み」だけってわけでもないんですよ。近所に住んでた美人のこずえちゃんじゃないんですから。(誰それ?)近年の「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第35位。 プロの歌手が口をそろえて言うのは、「あんな正確無比で、すごい歌唱テクニックを「すごい」と気がつかないくらいさらりとこなしてしまう人はいない。」ということですね。 このレベルになると、ほぼ「天才」です。 さらに、「彼女はまるで名女優のようだった」とも言われています。映画に女優として出ていた、っていう意味じゃないんですよ。曲によって、作者がその曲を通じて言いたいこと、訴えたいことを、声だけでなく、表情、身振り手振りで

個人的な「ベスト曲」トップ40

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先日、突如閃いて、「生涯で一番好きな曲トップ40」を選んでみたい!いや、選んでみなくちゃ!いつ?今でしょ!と、林修みたいにすぐに軽はずみに選ぶつもりがかなり力が入って、ちゃんと選んでしまいました。 なんせ、歳が歳ですし、人生100年とか言ってますが、実際は健康年齢は今でも70そこそこなわけで、わたしだってあと10年元気で過ごせたらラッキー、くらいなもんですからね。 思いついたことはできるうちにできるだけ実行したい、と思うわけ。自分の頭の中だけでできることなんて金もかからず準備もいらない!というわけでどしどしどし、と選んだ結果をせっかくなので、発表します。 まあ、本当は全曲に、著作権を根こそぎクリアしているyoutubeリンクを入れてご紹介したいところですが、なにせエディター泣かせ、でございます。 お!8の野郎、俺と同じじゃねえかっ!この野郎!とか、お!知らねえ曲ばかりだからちょっと調べてみっか!とか、その辺は読者様にお任せおかませおかまうふーんなので、適当にやっとってください。 曲ごとの解説も面倒!ありがた迷惑!ということで省略。 では、選考にあたって、とか、選んだ結果、自分のなにがわかったのか、とか、とにかく、わたしが俺が俺様が、という自己中ノリで終始いきたいと思います! TOP40ということで、とにかく考えずに、出来るだけ心の赴くまま素直に、曲単位で選びました。 ただし、1曲1アーティストとしました。でないと、40曲全部ダスティ・スプリングフィールドということになったりするためです。そこだけ作為的に散らしました。 次々挙げていく中で改めて聴き直して「こっちよりこっちのほうがいいいな。」「これはいまさらのように凄い」などの印象を得て、順番を入れ替えていったわけです。順不動ではなくかなり熟考して自分の好きな曲を順番づけたということになります。 あまり偏りがないように選んだわけではありません。自然とこうなってしまった。明らかに偏っているのは、時代で、1955年から1964年ころまでの曲がほとんどを占め、たまに70年代が混じる程度です。 なぜこういう好みなのか、考えても意味はないけど、自分なりに掘り下げてみた結果は自然と次のトップ10に現れてきたのではないでしょうか。 当たり前ですが、あくまで他人は他人であって、決して変えることが出来ません。変わるのは自分自身だけでそれ