リトル・ガール・ウイズ・ビッグ・ヴォイス ー ティミ・ユーロ

 


ティミ・ユーロは、デビュー当時、若くかわいらしい小柄な白人女性で、しかも、トップ10に入った大ヒットは1曲だけだったせいか、「よくいる一発屋のアイドル歌手」だと誤解されがち。

そのため、「最も過小評価されてきた歌手」のひとりといわれていますが、この5フィート(152センチ)に満たない小柄な女性は、素晴らしい「ブルーアイド・ソウル歌手」(白人ソウル歌手)でした。

それは、同時代のアリーサ・フランクリン、アーマ・トーマスといった黒人ソウル歌手に決してひけをとらないもので、白人と黒人をヒットチャート上で、厳密に区分けしていた当時の音楽事情を考慮すれば、極めて異例のことだったといえます。

自分自身が彼女の大ファンであることを公言した最も有名な人物は、エルヴィス・プレスリーで、後年、ユーロ版「ハート」のカヴァー・ヴァージョンを出してもいます。



ティミ・ユーロこと、ローズマリー・ティモティー・ユーロは、1941年にシカゴで生まれました。

シカゴというのは、ご存じのとおり、マディ・ウォーターズを抱えるチェスレコードがあった有名なブルーズの街です。

ティミは、子供のころからヴォーカル・レッスンを受けていたのですが、先生が、「この子は、特殊な声帯と肺を持っている」と言うくらい、持続力のある、極めて大きな声の持ち主だったそうですが、当時、ユーロ家で、家政婦をしていた黒人女性が、そんな子供時代のティミを地元のブルースクラブへ連れて行ったのです。

そこで、ダイナ・ワシントン、ミルドレッド・ベイリーといった、高名なジャズシンガーを目の当たりにしたティミは、「わたしにだってできるわ!」と、黒人音楽の歌い方を目指すようになります。


1952年に家族が引っ越したカリフォルニアで、彼女が最初に聴衆の前で唄ったのは、家族が経営するイタリアンレストランでのこと。やがて、彼女の唄は、客の間で評判になり、ナイトクラブなどで唄うようになります。


プロとしてデビューしたのは、1959年。リバティーレコードのオーディションに合格し、契約したときでした。

しかし、彼女は、当時としては、大変な変わり者。というのは、自分に向かない素材は絶対に唄わないという主義を最初から貫いていたからです。

当時の流行と彼女の外見イメージに合わせるために選ばれた、アイドルっぽい、自分が好きになれない唄は全部放り出してしまい、リバティーとの契約を一方的に破棄してしまいます。それでは、単なる思い上がったコナマイキな馬鹿娘みたいですが、そうでないことを彼女は自分で証明してみせました。

彼女は、当時まだ、ソウル音楽が一般的でなかった時代に先んじて、ソウルフルな歌い方をし、そのためには、本当に自分が心から歌える楽曲が必要だ、と考えていたのです。


そして、自分が向いていると思った、ロイ・ハミルトン1954年のR&Bヒット曲「ハート」を、アカペラで唄って録音し、それをプロデューサーのクライド・オーティスのところに持って行って聴かせます。そして、これにすっかり感心したオーティスは、ティミと再契約を結ぶことになるのでした。

「ハート」は、結局、1961年にリリースされ、ポップチャートの4位、リズム&ブルーズチャートの22位という大ヒットを記録しました。

TIMI YURO "HURT" 1962



レコードをラジオで聴いた、多くの人々は、テレビに映ったティミを見て、びっくり仰天。その圧倒的な情感あふれる轟くようなソウルフルなビッグ・ヴォイスは、黒人歌手、しかも、相当大柄な女性、もしくは男性だとすら思っていた人が多かったのですが、実際は、20歳そこそこの、アイドルっぽい小さな白人女性だったからです。

当時、同じような容姿の人気歌手にブレンダ・リーがいましたが、ティミの声は、ブレンダ・リーよりはるかにクロっぽく、誰もそんな人物を想像していなかったのです。


フランク・シナトラと共演した球場コンサートで、音響のトラブルでマイクが使えなくなってしまう事態になったとき、ティミは満席の客を前に生声で歌い、満席の聴衆を沸かせるという伝説を残したりもしています。そのビッグ・ヴォイスは、球場全体に響き渡りました。


その後、ティミは、1961年から1965年にかけ、11曲のトップ100ヒットを出していきますが、トップ10に届くヒットは結局出ずじまい。

フランク・シナトラとツアーに出たり、クライド・オーティスがリバティレコードを辞めた後は、後釜のフィル・スペクターと組んで、「ホワット・ア・マター・ベイビー」を、ポップチャート12位、R&Bチャート16位に送り込んでヒットさせたりもしますし、バート・バカラックと組んでイージー・リスニングチャートでも活躍したりするのですが、レコード会社のおえらいさんの言うとおりにすることを拒み、頑固にマイペースな活動を続けてきたティミは、結局、69年、結婚を機に引退することにしました。


そして、60年代後半から70年代にかけて、ほとんど引退状態だったティミですが、結婚生活がうまく行かなかったこともあり、1980年に復帰を目指します。しかし、健康上の問題など、困難が続きました。

TUMI YURO "A LITTLE THINGS MEAN A LOT"



なんとか、オランダでアルバムをリリースしたのをきっかけに、ラスヴェガスで定期的にショーを行う活動に入って、音楽界に復帰。その後、ヨーロッパでリリースしたアルバムは、徐々に売れていき、完全に復帰するかと思われました。

しかし、80年代終わりころから、健康状態が悪化、表舞台から遠ざかっていき、長い闘病の末、とうとう2004年に亡くなりました。享年63歳。


かつて、ベテランの大歌手、ダイナ・ワシントンが、「ティミ・ユーロは、喉で唄っているのではない。あの声は、心から直接出てくるものだ。」と言ったことがあります。カヴァー曲も他人の物真似ではなく、彼女自身の楽曲のように思えるほど自分のものにして、独自の唄を聴かせました。

TIMI YURO "ALL ALONE AM I" 1981


posted on2011年10月15日

コメント

このブログの人気の投稿

ムードテナーの帝王 ー サム”ザ・マン”テイラーの軌跡

1950年代のレッド・ツェッペリン ~ ジョニー・バーネット・トリオ

イギリス初のロックンローラー クリフ・リチャード&ザ・シャドウズ