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ユー・ドント・ハフ・トゥ・セイ・ユー・ラブ・ミー ー イタリアからイギリス、そして世界へ

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リアルタイム、といっても、かなり古いので、小学生とかそのあたりですが、なんとはなく聞き覚えがある洋楽というのが多数ありまして。そんな中で、とりわけ印象深い、いつの間にかメロディを覚えてしまった曲の中に、「この胸のときめきを」があります。 もともと、誰のヴァージョンを聴いたのか覚えていません。ラジオから流れるダスティ・スプリングフィールドだったのかも、エルビスだったのかもしれず、もしくは、日本のだれかが歌謡番組で歌ったものだったのかもしれません。 いずれにせよ、一度聴いたら聴き手に強い印象を残す曲だと思います。 さて、この「この胸のときめきを」は、有名なポップスのスタンダードとしてのタイトルは英語版で「ユー・ドント・ハフ・トゥ・セイ・ユー・ラブ・ミー」。 実はこの曲、イギリスの歌手、ダスティ・スプリングフィールドが有名にしましたが、オリジナルはイタリアのソングライター、ピノ・ドナッジョとヴィト・パラヴィチーニの「lo che non vivo(senza te)」。 サンレモ音楽祭で紹介され、決勝に到達し、1965年3月にイタリアで1位になりました。  イタリアでは、ポップスの新曲はまず、音楽祭で公表され、コンテストで勝ち残ったのがレコードになるというパターンがあるよう です。改めて聴いてみても、この曲、とてもイタリア的ですよね。オペラ的で高らかに歌い上げるのがぴったりな感じです。 lo che non vivo(senza te): さて、これが世界ヒットになったのは、イギリスの歌姫、ダスティ・スプリングフィールドがカヴァーヴァージョンを発売したときです。 ダスティ・スプリングフィールドは、1965年のサンレモ音楽祭に参加していたので、ドナッジョが「この胸のときめき」を歌うのを聴衆として聴いていたんですね。 で、歌詞の意味はわからなかったけれど、大変に感動した。で、レコードも買ったのだけど、1年後にその英語版を自分で作り出したということのようです。 1966年3月9日、スプリングフィールドはドナジオ版のインストルメンタルトラックを持っていて、友人であるヴィッキー・ウィッカム、サイモン・ネイピア・ベルと一緒に英語の歌詞を書いた。ウィッカムもネイピアベルも、ソングライターではなく、業界人ではあるもののマネージャー職で、音楽作りはまったくの素人。元のイタリア語の歌詞を理解

シンス・アイ・ドント・ハブ・ユー ー ジャネット・ボーゲル(ザ・スカイライナーズ)

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不滅の名作というのは確実にあります。 本来、音楽というのは、曲ごとに判断すべきもので、アーティストでもレコードスタジオでもレーベルでもなければ、ジャンルでもありません。それはあくまで付加価値に過ぎないからです。 1958年のジミー・ボウモント&ザ・スカイライナーズ「シンス・アイ・ドント・ハヴ・ユー」の凄みというのは、それを最もよくわからせてくれるいい例のひとつです。 ミリオンセラーだから、というだけでなく、歴史の試練に打ち勝ってきたすごみみたいなものが、曲そのものに宿っています。 それは、スカイライナーズの実演と切っても切れないものでもある。 まず、名作に共通していえることは、多くの人々をとらえて離さない、音楽的に極めて優れたエレメントが必ずある点。 歌手の力がすごい、演奏のグルーブがすごい、間奏のギターリックがすごい、出だしのドラムスがすごい、なんでもありですが、「シンス・アイ・ドント・ハブ・ユー」の場合は、全体の素晴らしい出来栄えだけでなく、ラストノートの舞い上がる、ハイCが最大の聴き所なのは、誰が聴いても同感だろうと思います。 リード歌手のジミー・ボウモントの背後のソプラノが前面に躍り出て、スカイライナー(大型旅客ジェット機)のように、天高くかけあがっていく素晴らしいエンディング。 これをうたったのは、スカイライナーズの紅一点、ジャネット・ボーゲル。 ジャネット・ボーゲルのファルセットは、シンス・アイ・ドント・ハブ・ユーととともに、有名になり、リードをとったスカイライナーズ曲「アイ・キャン・ドリーム、キャント・アイ」や、作詞を手掛けた「ディス・アイ・スウェア」などのヒットソング、また、ジャネット・ディーンという変名で出したソロアーテイストとしてのレコードなどで、今日では伝説化していると言っていいでしょう。 ジャネット・ボーゲルは、1942年6月10日ピッツバーグ生まれ。ジミー・ボウモントと会ったのは、高校生のときで、このときからすでにともに音楽活動を始めています。 1958年に女性ボーカリストがいたドゥーワップグループというのは極めて珍しく、それを活かしたサウンドを目指しました。 キャリコレコードのオーディションで「シンス・アイ・ドント・ハブ・ユー」を歌って認められ、さっそくレコーディング。 シングルのリリース前に、グループ名を「スカイライナーズ」としました。

ジミー・ボウモント&ザ・スカイライナーズ

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ジミー・ボウモント&スカイライナーズは、たくさんあるドゥーワップグループのひとつ、というよりも、アメリカのポップ音楽史においても重要な意義を持つグループのひとといっていいでしょう。 リードシンガーでリーダーのジミー・ボウモントが目指したのは、フォア・フレシュメンのように洗練された白人グループでありながら、泥臭い初期の黒人ドゥーワップの支持層にも受けるような、ゴージャスで、しかもソウルフルな音楽でした。 そして、スカイライナーズは、実際にそれをやってのけた世界最初のグループになったのです。 1958年、ピッツバーグで結成されたスカイライナーズは、1945年のチャーリー・バーネットのジャズ曲、「スカイライナー」にちなんで、名づけられました。 大ヒットになった「シンス・アイ・ドント・ハヴ・ユー」は、メンバーの実際の失恋体験をもとにした歌詞にボーモントがメロディをつけた、という、いかにも若々しい(当時全員10代だった)作品だったにもかかわらず、今日に至るまで多くのアーティストにカバーされ続け、スタンダードナンバーとして定着している名曲です。 この曲の歴史的真価は、なんといっても、多くの簡素なドゥーワップグループのサウンドを含む、いわゆる50年代当時の「ロックレコード」のサウンドとはほと遠い、ストリングス入りのスイートなサウンドにありました。 しかし、ボーカルは、本物の黒人グループと比較して、まったく遜色のない、ソウルフルなもので、ボーモントは黒人音楽チャートでもトップを獲得。 最初に有名になった「ブルーアイド・ソウル」(白人ソウル)歌手だと言ってもいいでしょう。 また、この曲は、ポップチャートだけでなく、R&Bチャートでも大ヒットした、初めてのストリングス入りソウルサウンドで、少し後に大ヒットしたドリフターズの「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」、60年代の黒人音楽(フィル・スペクターサウンド)や、ロイ・オービソンの作り出したサウンドの先駆けになりました。 ロマンティックでゴージャスな、オーケストラ付きのロック、とでも言うべきサウンドの原点は、1958年のスカイライナーズ・サウンドにあるのです。 その「シンス・アイ・ドント・ハヴ・ユー」のもっとも感動的な部分は、紅一点メンバー、ジャネット・ヴォーゲルによる、ラストノートの高く舞い上がるファルセット(ハイ・C)で、このラストの大受

サマー・スーヴェニア ~ 50年代後半のビル・ヘイリー

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1957年のイギリスツアーは、「大成功の大失敗」だったという話を前々回にしました。 奥さんと一緒にイギリスのウォータールー駅に到着したヘイリーを待っていたのは、4000人の熱狂的なファンでした。 コンサートも大入り大成功。しかし、ある意味、失敗だったのは、当時のカントリーバンドではスタンダードなアクト(ジョークやコメディアクトを交えたボードビル的なステージング)が若者層に受けなかった。 ちょうど時代の変わり目で、すでにベテランのミュージシャンだったヘイリーが普通だと思っていたことがもう時代遅れになっていた、ということでしょう。 結果、ロック・アラウンド・ザ・クロックだけはイギリスで再び過熱して大ヒットしましたが、それ以外はいまいちだった。 帰路についたヘイリーを見送りにきていたファンはわずか数人だったそうです。 この渡英をきっかけに、ヘイリーは競争から敗退したと言われています。これが、大成功の大失敗という意味です。 なお、60年代の終わり、非常な人気をもって迎えられた50年代ロックリバイバルブームの立役者として返り咲いた際、人気を下支えしたのがイギリスだったことは特筆すべき。21世紀の今でもヘイリーの音楽はイギリスでのほうがアメリカより人気があります。 帰国したヘイリーは、自分のキャリアを再考せざるを得ませんでした。このままではますますダメになると思った。しかし、プロのソングライターもいないコメッツで、目新しい曲を作ることも困難でした。「アイデアが枯渇してしまった」(フランク・ビーチャー)ということだった。そこで、古い世代向けに、一時代前のスタンダードにコメッツ特有のアレンジを施したものを出したけれど(ロッキン・スルー・ザ・ライ、ロック・ロモンド、ユー・ヒット・ザ・ロングノート、ビリーゴートなど)これも当たらず。 おかかえのソングライター、ラスティ・キーファーが書いた、ピカデリー・ロック、ロッキンローリン・シュニッツェルバンクといった「ロッキン・アラウンド・ザ・ワールド」の二番煎じものもダメ。 ハウ・メニーといったカントリーソングもダメ。エディ・アーノルドの有名なイッツ・ア・シンのカバーもぬるい出来でダメ。 ミルト・ゲイブラーによると、「このころには、ヘイリーはもともと持っていたカントリー・フィーリングをなくしていた。」 メリー・メリー・ルーは、かなり出来栄えがよく

ロッキン・アラウンド・ザ・ワールド - 50年代半ばのビル・ヘイリー その2

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どうも!ビール平太と彼の米粒です! なんだか、ずいぶん続けてしまったビル・ヘイリー話の続きです。 ところで、ヘイリーは50年代半ばは超売れっ子。なにせ世界で一番稼ぐエンタテイナーと言われていた人ですから。 バンドもばバカテクで高品位、ギターも歌もうまいヘイリー、かっこいい楽曲、凄腕のプロデューサー、大手の配給網、なにからなにまでそろっていた。 現在の耳で聴けば、59年までのデッカ録音すべて、音楽的には成功しています。いい音楽をたくさん作った。歴史の中で、なぜか存在が霞んで見えるのは、当時の状況の中でどうだったか、という視点で見ないとわかりません。 結論からいえば、あまりにあっという間に時代遅れになりすぎたということでしょう。エルビスがすぐ後に出てきて、最初に示したヘイリーのグッド・オールド・ハードロックというロカビリーやロックンロールの行く末をたどっていったのに、当のヘイリーはなぜ「ロッキン・アラウンド・ザ・ワールド」だの、「ヘイリーズ・チックス」だの「ロッキン・ザ・オールディーズ」だの、ロックな世界民謡の世界だとか、大昔のポップソングのロック版とか、だっさい楽曲ばかり録音してせっかくのファンからスルーされ続けたのか。 演奏も録音も素晴らしいので、現在は高い評価を得ていますが、当時は、さぞびっくりするほどださかっただろうと思います。火の玉ロックにハートブレイクホテルの時代だったのにねえ。 もともとの失敗の種は、アルバム「ロック・アラウンド・ザ・クロック」に続いてすぐに出た2枚目のアルバム「ロックンロールステージショー」から見えていました。 ルディーズ・ロックみたいな強力な目玉があったのに、ミルスブラザースみたいなヘイゼンゼアナウだのアコーディオンのインストだの、古式ゆかしいいい曲だけど、明らかに自分で作った波に乗り遅れている、というか、逆行しはじめている。 もう、この時点で、反逆的なロックのスター性とは無縁の、流行のリズムで演奏するホテルのダンスバンド路線一直線。 気が付かないうちに乗り遅れていたのかもしれません。 それでも、ハリウッドは、濡れ手で粟、一攫千金のチャンス、とばかり、その手の怪しい製作者のサム・カッツマンがヘイリーのマネージャーと友達だったために、製作に乗り出しました。そしてできた安手の即席映画が「ロック・アラウンド・ザ・クロック」です。 現在では映像

ロック・アラウンド・ザ・クロック - 50年代半ばのビル・ヘイリー その1

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さらあらい もとへ おさらい そもそもの始まりに戻ると、エセックスレコードのオーナー、デイブ・ミラーとニュージャージーのツインバーというチープなバーで知り合ったのがヘイリーのキャリアのスタートだったといえます。 このミラーという男、実はインチキ薬のセールスマン。はっきりと詐欺師ですね。出発点からして怪しいこのふたり、いったい何をしでかすのかわからない。 マフィア商売との関係からロケット88を吹き込んで、でっち上げたエセックスレコードからリリースして云々という話は前々回ここでお話しました。詐欺師とヤクザ、よくある話なのかどうか知りませんが、もうこの時点でアブナイ商売をしている胡散臭い連中の中にいたのがわかる。 続いて出たロック・ザ・ジョイントも他人のふんどしで、ジミー・プレストン版がすでに有名だったものを、冗談半分でカバーしたものが15万枚売れてヒットしました。 さて、ロック・アラウンド・ザ・クロックは、1953年に、60歳になるフィラデルフィアのベテランソングライター、マックス・フリードマンが書いた曲です。(他に、スー・シティ・スーが有名。)デイブ・ミラーは、フリードマンと共作したとされるジェームズ・マイヤーズとの版権上のトラブルを恐れて録音を拒否したとされていますが、このマイヤーズという人が曲者。実は曲など書いていない、とされています。なにか版権上の策略があったのでしょうが、名前だけで著作料をなにかのマージン代わりにしていた胡散臭い人ですよね。 この人がレコーディングを実現させて儲けようと、ヘイリーをエセックスから引き離してデッカレコードに連れていき、ジャズ界の名プロデューサーのミルト・ゲイブラーに引き合わせたところから、いよいよ世界的有名人、大金持ちへの道が開けることになります。あぶない橋を渡りまくったあげくのビッグ・ビジネスのスタートです。 ゲイブラーは、父がコモドアレコードの創立者で、音楽業界の名家の御曹司。数々のジャズの名盤を手掛けてきた人です。 このとき、手掛けていたのが、R&Bのルイ・ジョーダンだったので、ヘイリーがやっているタイプのR&Bに理解があった。 ヘイリーに、クレイジー・マン・クレイジーは覚えているけど、もっと改善してあげる、と言ったそうです。 マネージャーがわりのマイヤーズは当然、契約の際の条件として、自分に著作権があるものをまず録音するこ

クレイジー・マン・クレイジー ~ 50年代前半のビル・ヘイリー その2

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みなさん、こんばんはらたつのり! さて、前回に引き続きまして、ビル・ヘイリーの有名人になる前後のお話。 前回書いたように、ロック・ザ・ジョイント以降次々にヒットが連発、中でも53年に出たクレイジー・マン・クレイジーの大ヒット(ビルボーで12位)により、ヘイリーの印税を除く実演ギャラは、ラスベガスのホテルが中心となって、月収換算にしてみると、およそ現在の日本円で500万円を稼ぐレベルになっていきます。もはや、セレブ。大金持ち。 大手のデッカに移籍してゴールドディスクを出す前、まだエセックスという小さなインディーズにいたころなので、無名なイメージがありますが、実際は、もう全国レベルのヒットソングメイカー、大スターなんですよね。 52年のヒット、ロック・ザ・ジョイントの後、ヘイリーがした大きな仕事は、バンドの衣替えです。ロック・ザ・ジョイントでできた、ホテルなどの都市型ハイソサエティな舞台で活躍しだした新しいダンスバンドのイメージを作るべく、バンド名をサドルメンなんていう泥臭いものからコメッツに変更。カウボーイハットにウエスタンシャツ、という40年代ウエスタンスターの田舎ヒーローくさいイメージを捨てるためにタキシードに変更。ここでは、カントリーヒットを夢見る若者ではなくて、実利をとる、冷静なプロフェッショナルとしてのヘイリーがよく出ています。この人となりがその後、10代のガキどもからの支持を失う元凶にもなっていくのですが、まだ、エルビスも出てきていない時点では、ガキんちょどもも熱狂的な新しいヘイリーサウンド(のちのロックンロール)に夢中だったのですね。 話が少しさかのぼって53年の初頭、ヘイリーはサウンドを確立させるべく、いくつかバンドに手を入れています。 ひとつは、ドラムスの導入。なんだかなあ、53年でやっとドラムス?なにそれ?と思うかもしれませんが、当時のカントリー音楽にはドラムは入ってません。めちゃくちゃ保守的なんですよ、オープリーとかナッシュビルは。当時は電気ギターですら亜流だと思われていたそうで、スチールギターよりドブロのほうが好ましい、とか言われていた。 ドラムスがちゃんと入ったのは、リール・ロック・ドライブあたりから。初期の写真に写っているあまりその後見かけない顔の人、チャーリー・ヒグラーが初代ドラマーです。53年夏からはディック・リチャーズに入れ替わり、こ