ロッキン・アラウンド・ザ・ワールド - 50年代半ばのビル・ヘイリー その2


どうも!ビール平太と彼の米粒です!

なんだか、ずいぶん続けてしまったビル・ヘイリー話の続きです。


ところで、ヘイリーは50年代半ばは超売れっ子。なにせ世界で一番稼ぐエンタテイナーと言われていた人ですから。

バンドもばバカテクで高品位、ギターも歌もうまいヘイリー、かっこいい楽曲、凄腕のプロデューサー、大手の配給網、なにからなにまでそろっていた。

現在の耳で聴けば、59年までのデッカ録音すべて、音楽的には成功しています。いい音楽をたくさん作った。歴史の中で、なぜか存在が霞んで見えるのは、当時の状況の中でどうだったか、という視点で見ないとわかりません。

結論からいえば、あまりにあっという間に時代遅れになりすぎたということでしょう。エルビスがすぐ後に出てきて、最初に示したヘイリーのグッド・オールド・ハードロックというロカビリーやロックンロールの行く末をたどっていったのに、当のヘイリーはなぜ「ロッキン・アラウンド・ザ・ワールド」だの、「ヘイリーズ・チックス」だの「ロッキン・ザ・オールディーズ」だの、ロックな世界民謡の世界だとか、大昔のポップソングのロック版とか、だっさい楽曲ばかり録音してせっかくのファンからスルーされ続けたのか。

演奏も録音も素晴らしいので、現在は高い評価を得ていますが、当時は、さぞびっくりするほどださかっただろうと思います。火の玉ロックにハートブレイクホテルの時代だったのにねえ。

もともとの失敗の種は、アルバム「ロック・アラウンド・ザ・クロック」に続いてすぐに出た2枚目のアルバム「ロックンロールステージショー」から見えていました。

ルディーズ・ロックみたいな強力な目玉があったのに、ミルスブラザースみたいなヘイゼンゼアナウだのアコーディオンのインストだの、古式ゆかしいいい曲だけど、明らかに自分で作った波に乗り遅れている、というか、逆行しはじめている。

もう、この時点で、反逆的なロックのスター性とは無縁の、流行のリズムで演奏するホテルのダンスバンド路線一直線。

気が付かないうちに乗り遅れていたのかもしれません。




それでも、ハリウッドは、濡れ手で粟、一攫千金のチャンス、とばかり、その手の怪しい製作者のサム・カッツマンがヘイリーのマネージャーと友達だったために、製作に乗り出しました。そしてできた安手の即席映画が「ロック・アラウンド・ザ・クロック」です。

現在では映像としてのコメッツが観られる貴重な歴史的映像ですが、当時は、よくあるどうでもいいBムービー。ヘイリーは6日間の撮影で4万ドルを手にしています。(現在価値で39万ドル=約4100万円)。

安い映画、とは言ってもこんなすごい収入では出ないはずありません。

映画の中で、コメッツは9曲を演奏。ハイライトは、ルディーズ・ロックで、ルディ・ポンぺリとアル・レックスの有名なステージパーフォーマンスをフィーチャーしていました。

この映画のときには、すでにベース、サックス、ドラムスは交代。(優秀なジャズマンだったサックスのルディ・ポンペリ、ドラムスのラルフ・ジョーンズ、ベースに40年代にヘイリーのウエスタンスイングバンドにいたアル・レックスが復帰)

こういう流行にのっただけの低予算映画というのは実際、リターンが大きく、必ず続編が作られます。

それが、ドント・ノック・ザ・ロックで、ロック音楽の流行に眉をひそめる保守的な大人に向けたくだらない言い訳ばっかのバカ映画なのですが、ティーンはヘイリーの音楽聴きたさに映画館に脚を運びました。

コメッツはこの2本の駄作映画の合間に、ツアーをしていますが、そのときのギャラは1週間で1万ドル。

さらに、56年はボビー・チャールズのカバー版、シー・ユー・レイター・アリゲイターが大ヒット。しかし、このあたりからヘイリーは自己の楽曲出版社の収入をあげようと、自作曲にこだわりだしたのが間違いだったようです。確かに、アーティスト収入の10倍はいるわけだから実入りが大きい。

しかし、ヘイリーもコメッツメンバーにも、プロの作家はいないので、自作曲は当たらず。よくできた他人の曲ならカバーでもたくさん売れればよく儲かる、と考えなかったのが敗因といわれているようです。莫大な金額を稼ぎまくったものの、浪費に次ぐ浪費も相まってビジネスを圧迫。1956年が終わるころにはもうヒットが出なくなっていました。




人気が落ちまくりのヘイリーの救いの主は、海外からやってきました。というより、海外へツアーしまくったのです。

結果出てきたアルバムが、世界民謡ロック大全みたいな、「ロッキン・アラウンド・ザ・ワールド」。わたし、このアルバムも好きです。なんか、寺内タケシ的というか。音楽的レベルはホントに高いんですよ。でも、こけまくった。売れなかった。そういう時代だったのですね。

まず向かったのが、オーストラリア。大変な人気で、なんと、7万7千ドルという莫大な予算のツアー、同行したのは、ビッグ・ジョー・ターナー、ラヴァーン・ベイカー、プラターズ、フレディ・ベルという、今考えると夢のようなメンバー。

これがヘイリーが体調をくずして、3万ドルの損失を出すという、経済的には失敗したものの、動員数、人気具合は大成功。

続いて、トンボ帰りでイギリスへ。これが、歴史的に有名な、「第2のワーテルロー」で、これでヘイリーの未来永劫続くイギリスでの人気が確定しました。ただし、これも当時は、ある意味失敗だったと言われています。まだ、産声を上げたばかりのロック音楽、音楽だけで姿が見えないヒーローに夢をいだいていたイギリスのテッズたちは、丸顔でずんぐりした頭の薄いおっさんのヘイリーとおっさんだらけのコメッツにがっかりし、その後の人気凋落に一役買ってしまった。

明けて58年には、ヘイリーはほぼ、ヒットチャート圏外が続いてひとりの芸人めいた立場になっていくのでした。

さて、この続きは、またあとで!

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