ロック・ザ・ジョイント - 1950年代前半のビル・ヘイリー その1



今回は前回の続き。前回は、1940年代、ウエスタンスイング時代のビル・ヘイリーのお話。今回は、その後、ロック・アラウンド・ザ・クロックでロック時代最初の世界的スターとなるまでのお話です。

よく言われるように、きっかけは、ジャッキー・ブレンストンのR&B曲、ロケット88をカバーしたことですね。


1951年、ビル・ヘイリーはフィラデルフィアのマーケットストリートにあるスピゴットカフェで毎日午後7時から10時まで、40分ステージ2回、土曜はさらに明け方までサドルメンで演奏する仕事をしていました。40分ステージ2回、ってのは日本の現在のライブハウスでも定型じゃないかと思いますが、当時のアメリカでもそうだったんですね。

このときの週給はバンド全体で281ドルだったそうで、高給ではない、とされていますが、4人編成のバンドだったので、一人当たりの月給がいくらになるか、インフレーションカルキュレーター(物価上昇率をはじき出すオンラインボット)で計算すると、日本円で現在の28万円くらい。まあ、普通のサラリーマンくらいってところでしょうか。日本でこれくらい稼ぐバンドマンは相当凄い人なので、当時の音楽自体の需要の重要性が理解できる話です。

さらに、ヘイリーは、マネージャーのジャック・ハワードとヘイリー&ハワード出版社を作っており、印税を管理して定期的に入ってくるようにしていました。ま、それでも、まだまだ、頑張るローカルバンド、って感じ。

そんな生活の中、ヘイリーはルス・ブラウンのR&B曲、ティア・ドロップス・フロム・マイ・アイズを吹き込んだのですが、発売元のアトランティックレコードがお蔵入りにしてしまいました。それを知ったハワードの差し金で白人ジュークボックス向けに顔だしNGでロケット88を吹き込んだようです。ジュークボックスからの印税を稼ぐためです。ここには前回も触れたとおり、マネージャー兼共同経営者のジャック・ハワードとマフィアとのつながりが絡んでます。

しかも、これが直接の動機(黒人向けジュークボックスへの利権獲得)となって、ロケット88が吹き込まれている。

このとき、ビルは相当嫌がったと言われています。カントリー歌手なんだから、黒人音楽なんてやりたくない、という。

ティアドロップは冗談だったんだ、みたいなことだったらしい。結局、サドルメンのメンバーに、俺たちは失うものなんてなにもないじゃないか、と説得されて録音したらしい。これがビルにとっての最初の目立ったローカルヒットになったわけですね。



これは当時よくあった、すぐに白人の演奏だとわかる録音とはかけ離れており、嫌々やったわりに本格的なR&Bに匹敵するクオリティだった。しかも、変な楽器編成(ウエスタンスイングの編成)なんで、目立って新しいサウンドだった、と言われています。

また、このレコードはギターのダニー・セドローン(ロック・アラウンド・ザ・クロックで有名な人)が参加した最初のものです。なお、この時期、セドローンのバンド、エスクワイア・ボーイズのためにヘイリーが書いたのが、ロッカ・ビーティン・ブギで、同時期に黒人R&Bグループのトレニアーズが吹き込んでもいます。


ロッカ・ビーティン・ブギ(エスクワイア・ボーイズ 1952)



ヘイリー自身は色物(ノベルティ)だと考えていたそうですが、グリーン・ツリー・ブギ、サンダウン・ブギなど、カントリーブギ曲を自作し、吹き込んでいます。これらは、アーサー”ギターブギ”スミスの有名なインスト、ギター・ブギ・シャッフルを聴いて影響を受けたらしい。こういうノリの曲というのは40年代からカントリー音楽にもたくさんあったのですね。サドルメンは実演でも金を稼ぐようになり、バーではなくてホテルで演奏するようになっています。

52年にデイブ・ミラーの経営するエセックスレコードと契約。カントリーバラードのアイシー・ハートを吹き込みますがのちに本当に重要になったのは、B面のほうで、サドルメン版のロック・ザ・ジョイントでした。


ロック・ザ・ジョイント(ビル・ヘイリー&サドルメン 1952)



なお、この時期のサドルメンにはドラムスがおらず、のちのデッカ録音では聞くことができない、ヘビーなバックビートを打つヘイリーのリズムギター・プレイがよく聞こえます。セドローンのギターソロはロック・アラウンド・ザ・クロックと同じで、彼自身がのちに自分のフレーズを使いまわしたことがわかります。

カントリーミュージシャンの夢、グランド・オール・オープリー出演を目指していたヘイリーにとって、あくまで勝負曲はアイシー・ハートのほうだったのですが、ビルボードでは、どこにでもある曲と一蹴されたのに、B面のロック・ザ・ジョイントは、カントリーとR&Bの奇妙な融合だが、エキサイティングで聴く価値ありと評価されました。

この出来事が、ヘイリーの行き先、ロックンロールの幕開けへと導いていくことになります。

この時期になると、出演先は高級ホテルで、バンドの収入の倍増。

ヘイリーは27歳で、ライブだけで月給60万円近くを稼ぐようになった、と考えればかなりすごい売れっ子ですよね。

そして、ロック・ザ・ジョイント以降次々に出たヒット、特にクレイジー・マン・クレイジーの大ヒット(ビルボードで12位)により、ヘイリーの印税を除く実演ギャラは、ラスベガスのホテルが中心となって、月収換算にしてみると、およそ現在の日本円で500万円を稼ぐレベルになっていきます。大手のデッカに移籍してゴールドディスクを出す前、まだエセックスという小さなインディーズにいたころでこの額ですから、どれくらいの速度でレベルアップしたかよくわかりますね。アメリカのミュージシャンって、当たると大きいですなあ。

いくらカントリーが好きだった、夢があったといっても、なんで音楽を苦労してやっているのかといえば、それは金のため。映画、ロック・アラウンド・ザ・クロックで、本人役で出ているヘイリーが劇中、「で、カネは?」と尋ねる場面がありますが、あれは当たり前のこと。そうでなければ、誰もバンドマンなんかしない。あたりをつかんだら、そっちへまっしぐらに行くのが当たり前。だからロックも時代の要請だったということです。

このあたりは次回。では、また!


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