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歌うカウボーイたち

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「カウボーイ音楽だよ。ロックンロールの前にガキどもの心をつかんでたのは。俺はサンズ・オブ・パイオニアーズみたいなウエスタン音楽が大好きだったんだ。ブルーグラスでもヒルビリーでもない。ジーン・オートリー、ドイ・オデル、アイアンアイズ・コディ、ティム・マッコイ。だって、当時の7,8歳の子供らはみんなカウボーイになりたがってたんだよ。」                  デビッド・リンドレイ(ミュージシャン) カウボーイは歌うのですよ。馬上で。ギター弾きながら。すごいでしょ? 昔、1960年代、わたしが小学生だったころ、東京12チャンネルというローカル局がありまして、(現在のテレビ東京)、ここは予算がないもんだから、自前の番組をあまり作れなかった。で、どうしたかっていうと、当時、投げ売りしていたアメリカのちょい古いB級映画の放送権を一山いくらでまとめ買いして、真昼間から垂れ流していたんですよ。 今考えると映画マニア垂涎のあんな映画こんな映画変な映画珍作奇作がずらずらーっと並んでおったとさ! そんなわけでございまして、小学生だったわたくし、騙しに騙され、徹底的に観ましたわ、東京12チャンネル。 西部劇は名作なんかよりB級!なんたって安く出きるからね。 歌うカウボーイは観た記憶がないんだけど、ちょい古いからかと思います。40年代が中心でしょう。でも、有名西部劇俳優のジョン・ウエインが実はめちゃくちゃ歌がうまくて、初期の「シンギング・カウボーイ」だったことはあまり知られていません。わたしも普通の西部劇しか観たことがない。しかし、歌うカウボーイ連中はひとつの人気ジャンルとしてちゃんとあったのですね。これが今とても面白い。映画じゃなくて、歌のほうです。なんともノスタルジックでのんびりしてます。 「再びサドルにまたがって、44口径と我が道を行くのさ。」(ジーン・オートリー バック・イン・ザ・サドル・アゲイン 1941年) ジーン・オートリー。この人の人気は絶大なものがあったようです。 もともとはロデオの騎手。歌がうまいロデオの人、ということで映画界入りしたということで、映画俳優、お芝居、というより歌手として大成功した。あまりに人気があって、1998年に亡くなった時点でもまだハリウッドのマネーメイカーのトップ10に入っていたというから大変です。「シンギング・カウボーイ」というのは、ジー

40-50年代カントリー音楽のルーツ

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アメリカのカントリー音楽。日本では全盛期のころの愛好家世代が80代近くになり、演奏者も下の世代に受け継がれていますが、お客さんがだいぶ減ってきたという噂も聞きます。 私も近年のものはあまり接することがなくなり、よく知らないのですが、数年前、テキサス州サンアントニオ郊外の屋外ライブバーでホンモノのバンド演奏を堪能するチャンスを得ました。すごいですよ、ツアーバスですっげえド田舎の、まるで1940年代あたりで時がとまったような小さな町にやってくるバンド。テキサスですから、今でも古めかしいクラシックカントリーやウエスタンスイングが大人気です。そしてそれを見に来る観客。 全員カウボーイなんですよ。だって、町の周囲は数10キロ四方、牧場しかないんだもん。行けども行けども車すらすれ違わないんですよ。 会場の外には、40年代の車、馬とならんで、牛までが駐めてある。あれは異世界だったなあ。映画の中に入り込んだみたいな。 ああいうのは、思い切って、観光客なんて絶対に行かないような辺鄙なところまでいかないと味わえないだろうなと思いました。 ピストル・パッキン・ママ さて、カントリー音楽の歴史は1944年に始まります。(ビルボードのカントリーチャートの前身、ジュークボックスフォークチャート)。 44年に最も聴かれたのは、 ビング・クロスビーの「ピストル・パッキン・ママ」で、オリジナルは43年に書かれました。 ホーム・オン・ザ・レンジ 1872年にダニエル・E・ケリーによって作られたホーム・オン・ザ・レンジは1947年にカンザス州の州歌となりました。 40年代に始まったカントリー音楽チャート前身はビルボードフォークチャートで、サブタイトルがついていました。(ヒルビリー、スピリチュアル、カウボーイソングその他)。複数ジャンルの統合でできたのがカントリー音楽だとわかります。その中で、これは最も世界中に知られたカウボーイソングのひとつ。 我が国では66年にNHKみんなのうたで、峠の我が家として紹介され、広く親しまれるようになりました。 レッド・リバー・ヴァレイ 赤い川の谷間、として我が国でも古典になっているレッドリバーバレイ。最初のレコーディングは1926年、タイトルはカウボーイ・ラブ・ソングといいます。 ユー・アー・マイ・サンシャイン 歌う知事として有名なジミーデイヴィスのルイジアナ州知事当選の

ふたりのガンター ~ ロックのご先祖様

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こんばんは。八十六頑太です。 ハトロクガンタ!みなさまのハトロクガンタでございます!次の選挙にはぜひわたくしハトロクガンタ!ハトロクガンタ! をよろしくお願いします! いやー、地方選挙に出てきそうな名前だー、と思いますがいかがざんしょ?なにがざんしょだ!馬鹿者!もう残暑なんて終わったわ! なんだかんだでアナコンダ!大丈夫です、まだ完全には狂っていません! というわけで、ハードロック・ガンターをご存じの方は最寄りの警察署まで、ではないですね、滅多にいません、たぶん。 与太はこれくらいしまして、ハードロックっていってもレッドツェッペリンをコピーしてた近所のガキの頑太くんではなくて、ホントに文字通り「硬い岩」のこと。 硬井岩男なんて名前もありそうですなあ。この人、本名をシドニー・ルイ・ガンター・ジュニアというので、少しフランス系っぽいのかな。生まれは1925年なので、同じ歳の似たような立場の人はビル・ヘイリー御大です。ヘイリーと違ってこの人、ほとんど無名に近いけれども長生きした。2013年没、となっているし、最晩年に撮られたインタビューもある。 カントリー&ウエスタン、ウエスタン・スイング系の人ですが、ロックのご先祖様のひとり。 アラバマ州バーミングハムの生まれ。ティーンころからマセガキだった頑太くん、フートオウルランブラーズというバンドを作ったり、ノベルティソングをソロで歌ったりして大活躍、1939年にゴールデンリバーボーイズというカントリースイングバンドに加入。 ここで、「バンの扉に挟まれる事故にあってもケガひとつしなかった」という理由で、硬井岩男、じゃなかった、ハードロックというあだ名がついたらしい。いやー、つまんねえ理由だなあ。でもね、モダンジャズの神様チャーリー・パーカーだって、あだ名のバードの由来は、ツアー中、車でうっかり曳いてしまった鶏をわざわざ拾いにいって、持ち帰り、「みんなで食おう」といったからだそうですよ。どこが面白いんだこの話。 ジモピーの間で評判になったガンターさん、バーミングハムのローカルなレコードレーベル、バマでもって、「バーミングハム・バウンス」という曲を吹き込んだ。で、これがなかなかのローカルヒット。20ものカバーバージョンが出た。そのうち、有名人のレッド・フォーリー盤がビルボードのカントリーチャートとポップチャート両方でヒットしたから、こ

フラニー・ビーチャー  ー ベテランジャズマンがいかにしてロックギターの元祖になったか

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  まずは「こちら」をお聴きください。 こちらはグッドマンセプテッドですが、メンバー構成の中に、フランシス・ビーチャー(FRANCIS BEECHER)の名前があることにお気づきでしょうか。 古いジャズ録音で、ベースとのシンクロ奏法からあまり明瞭には聞き取れませんが、ギターの音が聴こえると思います。 今回のお話はこのギターの人。フランシス、別名、フラニー・ビーチャー、世界最初のロックギタリストのひとりです。 ビル・ヘイリーのギタリストとして有名なフラニー(フランシス)・ビーチャーは、ダニー・セドローン急死の後1955年にコメッツ入りした時点で、ヘイリーより4つ年上ですでにジャズマンとして一流でした。 特に1949年春の一連のベニー・グッドマン・セクステットのリズムセクションで巨大な「エピフォンエンペラーギター」でザクザクとジャズコードを刻み続けた仕事を聴けばベイシーのフレディ・グリーン系の古典的なジャズギタリストであることがよくわかります。 ちなみに「フレディ・グリーン」は、スイング時代を代表するギタリストで、エレクトリックを一度も手にせず、生涯一度もギターソロを取らなかった(録音が残っていない)と言われている「ミスター・リズム」。 グリーンのギターは、伝説的な「ストロンバーグ・マスター400」。世界に100本しかない、スイングジャズギターの名器。グリーンはものすごい弦高(12フレットで約2.5センチ。ミリ、ではない)でした。高くすると音が大きくなるからです。 「ストロンバーグ・マスター400」  この特大の特注ギターで、フルオーケストラをむこうにまわしてアコースティックギターだけでリズムをとったのです。ベイシー(ピアノ)、グリーン(ギター)、ウオルター・ペイジ(ベース)、ジョー・ジョーンズ(ドラムス)の4人は「オール・アメリカン・リズム・セクション」といってジャズのリズムセクションの御手本になりました。 話が少しそれますが、こんな動画もある。同じくビンテージギターショップの草分けであるノーマンズレアギターショップのものですが、ここで登場してストロンバーグで見事な腕前を披露しているのは、俳優で歌手でギタリストの「フランク・スタローン」。シルベスター・スタローンのお兄さんです。俺の彼女のケツよりでかいギターだぜ!とかいかにも下品なギャグがスタローン家っぽい!! 「フラ

世界最初のロックドラマー ディック・リチャーズ

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  2020年7月12日、ビル・ヘイリーコメッツの最後の生き残りメンバーのひとり、ディック・リチャーズがその生涯を閉じました。享年95歳。 本名をリチャード・マーレイ・ボセリといいますが、もうひとつの芸名はディック・ボセリでした。こちらの芸名は俳優としてのもので、たくさんの映画、テレビドラマ、劇場に出演していました。 1924年デラウェア生まれ。コメッツ入りは1951年で、最初のメンバーのひとりでした。(51年なので、具体的にはコメッツではなくサドルメン)。55年にジョディマーズ結成の伴いコメッツを抜け、58年までジョディマーズのドラムス兼ボーリストとして活躍。その後音楽業界を抜けて、高校の体育教師を務めました。70年代には教師業の傍ら、映画やテレビなどの俳優として活動。87年に再結成されたオリジナルコメッツのメンバーとしてつい昨年まで現役のドラマーだったのですが、今年春くらいに体調を崩し、亡くなったということのようです。 彼が有名になるのは、ジョディマーズからです。 サドルメン~コメッツのメンバー中、マーシャル・ライトル、ジョーイ・アンブローズ、ディックの3人は、雇われ組で、それぞれ、ダブル・ベイス、サックス、ドラムズを担当していました。  ベイスは、マーシャルの前がアル・レクスでしたが、この人は後で出戻りすることになります。サックスのジョーイは、当時まだ10代の若いミュージシャンで、R&B界の大物ビッグ・ジョウ・ターナーから「最も白い黒人サックス奏者」(実際は白人)と賛辞を送られていた若手のホープ。マーシャルは、まだ10代のセミプロ・ギタリストでしたが、ヘイリーからスラップ・ベイスのテクニックを教わったそうです。ドラムズのディックはコメッツ時代はライブ専用のメンバーで、なぜか主要なスタジオ録音はすべて、プロのセッションマン、ビリー・ゲサックの手になります。当時の録音技術では、ドラムズは音量の関係で録るのが極めて難しかったので、その専門家を必要としたのかもしれません。 彼らは、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のセッション(LPにまとめられた歴史的名盤)まで参加し、その直後にコメッツを辞めて自身のグループ「ジョディマーズ」を結成しました。まあ、コメッツそっくりのバンドですが。バンド名は、それぞれの名前の最初の部分をとって名付けたそうで、意味はありません。

スラップベース最強の伝説 - アル・レックスに関する短いストーリー

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  ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの、おそらく最も有名なベーシスト、アル・レックスが2020年5月に亡くなった。91歳。 グレッグ・ピシリリは1962年、アルバート・ピシリリの息子として生まれた。 「コメッツのアル・レックスとして知られた父は私が生まれる前に引退しました。1960年だと思う。」 ペンシルベニア州ノリスタウン出身のアルは、1960年以降、家族とともに過ごし、9人の子供たちを養うため、アランウッドスチール(鉄鋼会社)での堅実な仕事のために音楽を辞めた。 グレッグは、父から当時の話をよく聴いた。 「父は40年代後半にビル・ヘイリー&サドルメンのベーシストとして活躍しました。その後、父が街を離れた50年代初頭にサドルメンはコメッツになりましたが、1955年にコメッツに再び加わり、成功を収めて映画を撮りました。」 アル・レックスは、コメッツの一員として、55年と56年の映画「ロック・アラウンド・ザ・クロック」と「ドント・ノック・ザ・ロック」に出演し、有名なアクロバットなステージで多いに人気を得た。そして伝説になった。 「何年にもわたって、父はそれについていつも話していました。私の兄と妹は、エド・サリバン・ショーとアーサー・ゴッドフリー・ショーに出ていた父をテレビで観ていたと言っています。」とグレッグ。  「私の父がとても影響力を持っていたのは、2つの楽器のように機能するベース(スラップベース)を演奏する彼の素晴らしい才能だったと思います。彼はベースの上で立ち上がり、仰向けになって弾き、上に寝そべって弾きました。本当にアクロバティックでした。そして当時、子供たちはそのようなものに夢中になりました。」 「バンドの人気は低下し始め、私の妹が1961年に生まれるまでに、父には7人の子供がいて、家にいて仕事に就かなければならないと感じていました。いつもツアーをし必死で働いても、ジェット機で飛び回る今日のロックスターのように優遇されていた時代ではなかったと思います。私の父がツアー始めたとき、古いトラックに機材を積み込んで、クラブ廻りをしたり、ニューヨークでのレコーディングセッションにも運転していかなければなりませんでした。それは困難な道でした。」 「父は、新進気鋭のエルビス・プレスリーがクリーブランドでビル・ヘイリーと彼のコメッツのためにショーを開いたときのことを話しまし