投稿

エルビスと初期カントリー音楽

イメージ
  ビル・ヘイリーとエルビスの一番の違いは?髪の毛!ちがーう!ボーっと生きてんじゃねーっ! 答えは、カントリー音楽のとらえ方が違っていたという点です。 ビルにとってのカントリーは、サンズ・オブ・パイオニア。シンギング・カウボーイたちとか西部劇映画の中の世界。 一方、エルビスがカントリーだと思っていたのは、ハンク・ウイリアムズとビル・モンロウ。こちらは、南部のブルースをルーツとしたサウンド。ビルはハリウッド製、エルビスは土着の民謡、くらいの差があった。これが初期のロックサウンドを大きくわけたひとつの要因です。 ちなみに、ハンク・ウイリアムズは、30年代のジミー・ロジャースの系譜から出てきた人ですが、ジミー・ロジャースはカウボーイではなく、鉄道員だったことが面白い。カントリー音楽といえば、カウボーイの音楽という連想は、ジーン・オートリーなどのシンギングカウボーイからきているので、ハンク・ウイリアムスやビル・モンロウはカウボーイ音楽とはなんの関係もないんですよ。カウボーイシャツとカウボーイハットという、衣装が似ているだけ。ロジャースのさらに先祖は、エメット・ミラーで、この人は顔を黒く塗った白人という、ミンストレル芸人ですから、ますますカウボーイとは縁もゆかりもありません。 本当にカウボーイ音楽の系譜にあるのは、オートリー~サンズオブパイオニア~ビル・ヘイリーの路線です。ビルの古いウエスタンスイング音源(40年代後半)は、そういう「カウボーイのうた」がすごく多い。(カバード・ワゴン・ロールド・ライト・アロング、テンガロン・ステットソンなど) そもそも、なぜ、日本人が連想する「カントリー音楽=カウボーイ西部劇の音楽」ではないのでしょう。 それは、なにをもって「カントリー音楽」と呼ぶか、という問題です。 カントリー音楽がスタートしたのは、実は、1944年代後半。えっ?なんで?ジミーロジャースは30年代の人気シンガーでしょ?  アメリカ音楽で、ジャンル分けしだしたのは、ヒットチャートができてからです。カントリー音楽というくくりのチャートがビルボードでできたのは40年代後半で、44年から数年間は、「フォーク音楽チャート」だったんですね。 そのときのサブタイトルは「ヒルビリー、スピリチュアル、カウボーイソング他」でした。すでに、さまざまなタイプの曲を一括して扱っていて、いわば...

もしもこんな日本映画があったら~恵比寿フリスビー映画のベスト10!

イメージ
1 ヤスベバス万才(昭和37年 股蔵映画) 監督 安全運転 主演 恵比寿フリスビー、暗まぐれ 解説 日本映画の秘宝ならぬ秘密、股蔵映画系列製作のエルビスバッタもん映画シリーズは昭和37年に一気に67本製作された。 監督はこの1作のみで知られる安全運転(実は鈴木清順ではないかと言われる)。 主役は、このシリーズ専属俳優、歌手の恵比寿フリスビー。 「ヤスベバス万才」は、最初の1作で、バッタモン女優の暗まぐれ共演。さびれた観光地の小さなバス会社を立て直そうと奮闘する若旦那のガスバス爆発な青春ドラマ。 あらすじ さびれた観光地、山口県土井中村の小さなバス会社を経営する安部安吉(左卜全)は倒産の危機に瀕し、体調を崩して入院してしまった。息子の安男(恵比寿)は、なんとか父の会社を立て直そうと孤軍奮闘する。おりしも地元ヤクザ(松方弘樹)が違法カジノを建設して、村を乗っ取ろうとしていた。 2 ラブミー!テェヘンダー!(昭和37年 股股股蔵映画) 監督 大林小林 主演 恵比寿フリスビー、デブ馬事人 解説 日本映画の秘宝館、恵比寿フリスビーの青春映画シリーズを代表する一作。監督は、青春映画の巨匠、大林中林の弟、大林小林。 恵比寿映画の時代劇ものにあたる本作は、西洋かぶれした江戸期の火消、股座又右エ門(恵比寿フリスビー)が火消に恋に駆けずり回る七転八倒青春時代劇。 あらすじ 江戸下町の火消同心、股座又右エ門(恵比寿)は、江戸の火消で大忙しの毎日。そんなある日、ふと知り合った長屋の娘、おせん(賠償美津子)と恋に落ちる。火消どころじゃねえ、おいらの心が恋の火事だぜ、てえへんだー!青春の火花が江戸の大火事をひきおこす!恋と音楽とドタバタ喜劇の幕が下ろされる。 3 サマーよ!青春(昭和37年 股股股股蔵映画) 監督 夏青春 主演 恵比寿フリスビー、海老留守フラスコ 解説 全然さまよわない、ネアカな青春を送る青空ハレオ(恵比寿フリスビー)の学園キャンパス恋愛喜劇。監督はこれ1作のみで知られる夏青春(実際は鈴木清順ではないかと言われている)。加山雄三と田中邦衛が特別出演している。 あらすじ 大学でイカシタ青春生活を送る青空ハレオ(恵比寿)は、同じキャンパスのテニスサークルで知り合った美恵子(中尾ミエ)と湘南江の島へドライブ。そこで知り合った地元青年団の団長(田中邦衛)と親しくなり、恋のさやあてがはじ...

お笑い版みんなの音楽祭シリーズ 

イメージ
                    第一部 正しいニッポンのメロデイ ステージA おらすの考えた懐メロ大会at代々木公園第三ベンチ前ビニールシート 演目及び出演 誰が故郷のオナガザル(靄島昇) ブルーライトオコサマ(いしだおかみ、6歳) 有楽町でアヘましょう(フランクまがい、マルチ臭) 大根無情(三波春巻) 長崎は今日もダメだった(前側清) 東京だよ落下傘(島倉ちょこ) 赤いランプの終電車(春日走ろう) 恋のバカッス(豆姉妹) 無法街の一掃(村田”アンタッチャブル”英雄) 俺は持ってるぜ(石原U事工事) 難曲とかは後にして(ペギラ葉山) ふるさとの岡晴夫(岡晴夫もとへ藤山イチロー) 恋のふがふが(豆) ハゲを慕いて(富士山一路) 別れの団子(ケーシー高峰子) べサメムチオ(黒田笛子) 島の鼻唄(三橋未知也) 田舎のブス(中村メー子) 松野さんどう?一万(鶴タコジ) 下世話になりました(井上ずーーーーん) ゲタを持った笑い採り(小林あさひ) どうせひろった鯉だもの(コロンダロース) 別れの一本過ぎ(春日走ろう) 買い物ブギー(ジョンリー深尾) チョイマッテの夜(伊藤久々男) ほかキリがない後期高齢者な面々 司会 宮田テル(93歳) ステージB あたくしの考えた昭和フォークの夜at 大船風邪に好かれて(ハックシ) 出演 家具屋死ね、あばた靨、伊豆宮重、伊勢海老三、かまやちぴろき、部室等、谷村卍、高田笑、マイク牧、南こっせつ、高石トモワ、武田鉄夫、出杉田痔瘻、山本ンコ太郎 ほかくっさい面々 司会 森山周一郎(CG 直太朗ではない) 第二部 間違ったニッポンのメロデイ ステージA おいらの考えたギシギシ軋むブルーズィーな夜at阿佐ヶ谷オイラしてえ 出演 エリックプランクトン、ピータープランクトン、リッチーミトコンドリア、泥水男、アルバイト菌具、ファッツアミノ ほか微生物な面々 司会 ブルースウイルス ステージB あたちの考えたハードロックナイトat高円寺エロ基地 出演 ロバート植木、安詐欺、レッドツッパリン、鱚(キス)、エロアミスス、ボン樹里、キュイーン、ヴァン痙攣、メタ里香、地味頁、フレディ牧売、パンチラ、ばってんJAPAN  ほかはちゃめちゃな面々 司会 デーモンオクレ 第三部 その他どうでもいい代物 ステージA わだすの考えたズージャセッションat新宿2丁...

銀座イエナのデヴィッド・オクストビー

イメージ
10代のころ、銀座にあったイエナという洋書店によく行きました。 その気になれば歩いていける距離だったのです。 週末、ぶらぶらと散歩しながら、高校生だったわたくし、銀座まで行くのですが、レコード屋と洋書店に寄るのがお決まりのコース。 なにせ貧乏な高校生だったので、高価な服などにさく予算はありません。 せいぜい贅沢して、レコード、ロック音楽を扱った図版入りの洋書といったところ。特に大部のロック辞典系は、高価でなかなか手が出ません。 文字ばかりの本は、通って、興味のあるところをよく暗記していました。貧乏くさいですが、仕方ない。貧乏なんだから。 そんな意識はしなくても、好きこそもののなんとやら、努力をしたおかげで、多少は英語にも強くなり、あとで受験戦争といわれた入試バトルにも全戦全勝できました。 それは、銀座イエナと貧乏生活からでた知恵のおかげ。そして、大好きだった50年代や60年代のロックンロールのおかげでもありました。 わたしが高校から大学にかけて、70年代後半から80年代前半当時は、50年代アメリカ文化全般にかかる書籍もたくさん出ていて、日本語訳のあるものも数はすくないものの結構ありました。 特に有名だったのは、惜しくも亡くなられた金沢大学の三井徹先生が訳したもの。グリル・マーカスの名著、「ミステリー・トレイン」もそうですし、デイブ・マーシュの「ロック・エンサイクロペディア」もサンリオ出版から出てました。 こんな本を出すなんてすごいな、とサンリオ出版に就職活動をしたこともありました。 三井先生とはお会いできずじまいでしたが、インターネットのない時代、郵送、お手紙でやりとりをして、日本では手に入らない文献を見せていただいたりしました。 ビル・ヘイリーの伝記は、大量のページ数なのに、全部、ご自身でコピーして送ってくださって、感謝感激したのを覚えております。 さて、そんなロックンロール関係の洋書のなかで、とりわけ好きで今でも持っているのが、画集。 特に、2冊の50年代、60年代ロックを中心としたもので、それぞれふたりのアーティストによるものです。 ひとつは、ベルギーの画家、ギイ・ピラートによる「ロック・ドリームス」。 ポップアート系のコラージュのような技法の目立つ、素晴らしい絵画作品を集めています。 それぞれのアーティストのイメージ、有名な曲が表現したある意味ファンタジック...

ムードテナーの帝王 ー サム”ザ・マン”テイラーの軌跡

イメージ
  ハーレム・ノクターン いいでしょう!このエロい感じ、路地裏の淫靡なストリップ劇場みたいなエロいサックス! チョットだけよーん、じゃないすよ。あれは、「タブー」という曲。こちらのハーレムノクターンは、サム”ザ・マン”テイラーを一気に有名にした代表曲です。 サム”ザ・マン”テイラーのこってりしたサックスブローは、ロックンロールから日本の演歌まで大きな影響力があり、「ムードテナーの帝王」と言われました。 かつて、こんな下品な音を出してはいけない、音楽的でない、芸術的に格下。。。いつも出てくるこうした「見解」を見るにつけ、ジャズ愛好家だかヒョウロンカだか知らないけど、マジでつまんねえやつらだな、それならジャズなんかどうでもいい、と思ったものですが、実際には、お芸術なジャズ屋なんかより、この人のほうがよほど売れたんですね。なんか痛快な話です。 さて、そんなサム・テイラーさん、どんな人だったのでしょう。 テイラーは、1916年、テネシー州レキシントン生まれ。アラバマ州立大学でジャズを始めた、とあるので、かなりのインテリ。当時の黒人ジャズマンでは、ジャズサックスの元祖、コールマンホーキンスも大卒でしたが、学校なんてロクに出ていない、ワイルドな周囲の音楽仲間に溶け込むのが難しかったそうで、テイラーも珍しいタイプのジャズマンだったのではないかと思います。 その後、スキャットマン・クローザーズ、クーティ・ウィリアムズ、ラッキー・ミリンダー、キャブ キャロウェイ、レイ・チャールズ、バディ・ジョンソン、ルイ・ジョーダン、ビッグ・ジョー・ターナーと仕事をしたテイラーは、1950年代にニューヨークのレコーディング スタジオで最も依頼の多かったセッション サックス奏者の 1 人になりました。 彼はまた、CBS のアラン・フリードのラジオ・シリーズ、キャメル・ロックン・ロール・ダンス・パーティーのハウス・バンドリーダーとして、カウント・ベイシーに取って代わり就任しています。 まあ、経歴を見ればわかるとおり、クーティ・ウイリアムス、ラッキー・ミリンダーなどのジャンプジャズオーケストラにいたいわゆる「ホンカー」で、同じ系統の出身でも、チャーリー・パーカーのようにモダンジャズにいかず、ロックに流れていったサックスマンのひとりですね。 初期ロックソングで有名な、ビッグ・ジョー・ターナーの「シェ...

スーパーバイリンガルの大スター ニール・セダカ

イメージ
セダカは現在も元気いっぱいで、YOUTUBEとFACEBOOKで、日課みたいに自宅ピアノ弾き語りを配信してます。 セダカは、世界中に出向いて行ってコンサートをして、世界的スターになっていきましたけど、それだけではない。 RCAレコード戦略に乗って、世界中の言語で、世界中のスタジオで吹き込みを行い、レコードを連発し、その国のスターになっていきました。 コニー・フランシスなんかもそうです。 このあたりって、ほとんど語られることがなく、わたしも詳しい事情が書かれたものを見たことがないので、録音記録をもとにあらましをご紹介したいと思います。 ドイツベアファミリーから出ているニール・セダカのボックスセット。 NEIL SEDAKA / OH CAROL -THE COMPLETE RECORDINGS 1956-1866というタイトルで、豪華ブックレット付CD8枚組。 これ、全盛期のRCA録音すべてを含んでまして、本国アメリカのヒット曲すべて、アルバム収録曲すべてで4枚。 あと半分の4枚のうち、1枚は、ヒット曲のインスト集。3枚が外国語版録音という構成です。 まあ、1966年までの全録音の半分近くが、外国でその国の言葉で歌ったものなので、どれくらい力が入っていたかわかります。 最も初期のものは、1960年から1961年にかけて、なんとヘブライ語版の「オー、キャロル」と、ドイツ語版のクレイジー・デイジー(リトル・デビル)。 どちらもオリジナルのバックトラックをそのまま使って別バージョンボーカルトラックをミックスしてます。 その後1963年には、ドイツ本国で、独自のレコーディングをしています。ドイツ独自の曲もあるのですが、このコンセプトはのちのちの世界録音でも続発します。 Neil Sedaka - Candy (Madchen Aus Old Germany) 1963年の5曲は、西ドイツ(当時)のベルリン録音。 同じく1961年、イタリア録音も開始。イタリア語ものは、最も多いです。どれも素晴らしい出来栄えで、アメリカ版とまったく遜色ありません。 1962年から1965年まで、RCAイタリアから、コンスタントに39曲もリリースしています。すべてローマのスタジオ録音。 Neil Sedaka -Viene La Notte そして、スペイン語バージョン。 1962年のブラジルのサ...

オーストラリア最初の世界ポップヒット ー ザ・シーカーズ

イメージ
(注)この記事をTHE KINGのために書き、掲載された直後の2022年8月7日、ジュディス・ダーラムが帰らぬ人となりました。R.I.P  シーカーズと聞いて、ジョージーガール、懐かしいなあ、と思い出す世代ももう60代以上となりました。 とりわけ、オーストラリアのグループなので、あまりなじみがないかもしれませんが、可憐な美人の女性リードボーカル、ジュディス・ダーラムの絶大な人気と相まって、世界中で売れに売れたグループ。 百聞は一見にシーカーズ! というわけで、こちらをご覧ください。 The Seekers - I'll Never Find Another You  シーカーズはイギリスとアメリカで主要なチャートで成功を収めた最初のオーストラリアのポップミュージックグループと言われています。結成は1962年。 ポップとは言っても、聴けばわかるとおり、フォークグループとしてとらえられているかもしれません。 オーストラリアの音楽史家イアン・マクファーレンは、彼らのスタイルを「明るくアップテンポなサウンドで、ポップすぎて厳密にフォークとは見なされず、フォークすぎてロックとは言えない」と説明しています。 この非常に微妙な線が、ザ・シーカーズの個性を見事に言い表しているし、それは唯一無二の素晴らしいものでした。 1960年代に「アイル・ネヴァー・ファインド・アナザー・ユー」、「ア・ワールド・オブ・アワ・オウン」、モーニングタウン・ライド」、「サムデイ・ワン・デイ」、「ジョージー・ガール」でトップ10ヒットを記録。  「アイル・ネヴァー・ファインド・アナザー・ユー」と「ジョージー・ガール」で、米国でも成功を収め、結局、世界中で5000万枚以上のレコードが売れたと言われています。 1967年、「オーストラリアン・オブ・ザ・イヤー」に、1995年、ARIAの殿堂入り。 ザ・シーカーズは、もともとは、1962年にメルボルンでベースのアソル・ガイ、12弦ギターのキース・ポガー、ギターのブルース・ウッドリーによって結成されました。 彼らは全員、ビクトリア州のメルボルン男子高校の同級生で、1950年代後半に活動を開始。最初は、ドゥーワップグループで、1962年に、辞めたリードシンガーの代わりに、ジャズ歌手として活躍していたジュディ・ダーラムをリードに抜擢したとこ...