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ムードテナーの帝王 ー サム”ザ・マン”テイラーの軌跡

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  ハーレム・ノクターン いいでしょう!このエロい感じ、路地裏の淫靡なストリップ劇場みたいなエロいサックス! チョットだけよーん、じゃないすよ。あれは、「タブー」という曲。こちらのハーレムノクターンは、サム”ザ・マン”テイラーを一気に有名にした代表曲です。 サム”ザ・マン”テイラーのこってりしたサックスブローは、ロックンロールから日本の演歌まで大きな影響力があり、「ムードテナーの帝王」と言われました。 かつて、こんな下品な音を出してはいけない、音楽的でない、芸術的に格下。。。いつも出てくるこうした「見解」を見るにつけ、ジャズ愛好家だかヒョウロンカだか知らないけど、マジでつまんねえやつらだな、それならジャズなんかどうでもいい、と思ったものですが、実際には、お芸術なジャズ屋なんかより、この人のほうがよほど売れたんですね。なんか痛快な話です。 さて、そんなサム・テイラーさん、どんな人だったのでしょう。 テイラーは、1916年、テネシー州レキシントン生まれ。アラバマ州立大学でジャズを始めた、とあるので、かなりのインテリ。当時の黒人ジャズマンでは、ジャズサックスの元祖、コールマンホーキンスも大卒でしたが、学校なんてロクに出ていない、ワイルドな周囲の音楽仲間に溶け込むのが難しかったそうで、テイラーも珍しいタイプのジャズマンだったのではないかと思います。 その後、スキャットマン・クローザーズ、クーティ・ウィリアムズ、ラッキー・ミリンダー、キャブ キャロウェイ、レイ・チャールズ、バディ・ジョンソン、ルイ・ジョーダン、ビッグ・ジョー・ターナーと仕事をしたテイラーは、1950年代にニューヨークのレコーディング スタジオで最も依頼の多かったセッション サックス奏者の 1 人になりました。 彼はまた、CBS のアラン・フリードのラジオ・シリーズ、キャメル・ロックン・ロール・ダンス・パーティーのハウス・バンドリーダーとして、カウント・ベイシーに取って代わり就任しています。 まあ、経歴を見ればわかるとおり、クーティ・ウイリアムス、ラッキー・ミリンダーなどのジャンプジャズオーケストラにいたいわゆる「ホンカー」で、同じ系統の出身でも、チャーリー・パーカーのようにモダンジャズにいかず、ロックに流れていったサックスマンのひとりですね。 初期ロックソングで有名な、ビッグ・ジョー・ターナーの「シェイク・ラ

スーパーバイリンガルの大スター ニール・セダカ

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セダカは現在も元気いっぱいで、YOUTUBEとFACEBOOKで、日課みたいに自宅ピアノ弾き語りを配信してます。 セダカは、世界中に出向いて行ってコンサートをして、世界的スターになっていきましたけど、それだけではない。 RCAレコード戦略に乗って、世界中の言語で、世界中のスタジオで吹き込みを行い、レコードを連発し、その国のスターになっていきました。 コニー・フランシスなんかもそうです。 このあたりって、ほとんど語られることがなく、わたしも詳しい事情が書かれたものを見たことがないので、録音記録をもとにあらましをご紹介したいと思います。 ドイツベアファミリーから出ているニール・セダカのボックスセット。 NEIL SEDAKA / OH CAROL -THE COMPLETE RECORDINGS 1956-1866というタイトルで、豪華ブックレット付CD8枚組。 これ、全盛期のRCA録音すべてを含んでまして、本国アメリカのヒット曲すべて、アルバム収録曲すべてで4枚。 あと半分の4枚のうち、1枚は、ヒット曲のインスト集。3枚が外国語版録音という構成です。 まあ、1966年までの全録音の半分近くが、外国でその国の言葉で歌ったものなので、どれくらい力が入っていたかわかります。 最も初期のものは、1960年から1961年にかけて、なんとヘブライ語版の「オー、キャロル」と、ドイツ語版のクレイジー・デイジー(リトル・デビル)。 どちらもオリジナルのバックトラックをそのまま使って別バージョンボーカルトラックをミックスしてます。 その後1963年には、ドイツ本国で、独自のレコーディングをしています。ドイツ独自の曲もあるのですが、このコンセプトはのちのちの世界録音でも続発します。 Neil Sedaka - Candy (Madchen Aus Old Germany) 1963年の5曲は、西ドイツ(当時)のベルリン録音。 同じく1961年、イタリア録音も開始。イタリア語ものは、最も多いです。どれも素晴らしい出来栄えで、アメリカ版とまったく遜色ありません。 1962年から1965年まで、RCAイタリアから、コンスタントに39曲もリリースしています。すべてローマのスタジオ録音。 Neil Sedaka -Viene La Notte そして、スペイン語バージョン。 1962年のブラジルのサ

オーストラリア最初の世界ポップヒット ー ザ・シーカーズ

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(注)この記事をTHE KINGのために書き、掲載された直後の2022年8月7日、ジュディス・ダーラムが帰らぬ人となりました。R.I.P  シーカーズと聞いて、ジョージーガール、懐かしいなあ、と思い出す世代ももう60代以上となりました。 とりわけ、オーストラリアのグループなので、あまりなじみがないかもしれませんが、可憐な美人の女性リードボーカル、ジュディス・ダーラムの絶大な人気と相まって、世界中で売れに売れたグループ。 百聞は一見にシーカーズ! というわけで、こちらをご覧ください。 The Seekers - I'll Never Find Another You  シーカーズはイギリスとアメリカで主要なチャートで成功を収めた最初のオーストラリアのポップミュージックグループと言われています。結成は1962年。 ポップとは言っても、聴けばわかるとおり、フォークグループとしてとらえられているかもしれません。 オーストラリアの音楽史家イアン・マクファーレンは、彼らのスタイルを「明るくアップテンポなサウンドで、ポップすぎて厳密にフォークとは見なされず、フォークすぎてロックとは言えない」と説明しています。 この非常に微妙な線が、ザ・シーカーズの個性を見事に言い表しているし、それは唯一無二の素晴らしいものでした。 1960年代に「アイル・ネヴァー・ファインド・アナザー・ユー」、「ア・ワールド・オブ・アワ・オウン」、モーニングタウン・ライド」、「サムデイ・ワン・デイ」、「ジョージー・ガール」でトップ10ヒットを記録。  「アイル・ネヴァー・ファインド・アナザー・ユー」と「ジョージー・ガール」で、米国でも成功を収め、結局、世界中で5000万枚以上のレコードが売れたと言われています。 1967年、「オーストラリアン・オブ・ザ・イヤー」に、1995年、ARIAの殿堂入り。 ザ・シーカーズは、もともとは、1962年にメルボルンでベースのアソル・ガイ、12弦ギターのキース・ポガー、ギターのブルース・ウッドリーによって結成されました。 彼らは全員、ビクトリア州のメルボルン男子高校の同級生で、1950年代後半に活動を開始。最初は、ドゥーワップグループで、1962年に、辞めたリードシンガーの代わりに、ジャズ歌手として活躍していたジュディ・ダーラムをリードに抜擢したところからザ・シーカーズ

スラックキーの王様 ー ギャビー・パヒヌイ

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夏がやってきました。 さて、わたしたちの世代は夏というと、海。海というと、三浦海岸、湘南、館山なんてところなんですけども、やっぱりハワイっすよね。 もう30年前、わたし、ハワイに一度だけ行きました。 で、一言でいえば、あそこは、もう、行ったら最後、帰ってこれません。 日本に戻ってきて、じっとりしたよどんだ空気に接したとたん、がっかりしすぎて病気になりそうでしたもん。 それくらい、文句なしいいところ。あそこは人が気持ちよく住むところですね。何もしなくてもいい。 音楽でいったら、そりゃあもう、ハワイアンに決まってるじゃん! 昭和のハワイアンっていうと、バッキーさんですけど、本場のモノホンは、実はちょっと違うんですよ。 本物のハワイアンミュージックの王様、ギャビー・パヒヌイのお話です。 1921年、フィリップ・クニア・パヒヌイは、ホノルルの貧しい地区で育ちました。幼少期から、新聞や靴を売って家族を養っていたといいます。 ポフカイナスクールの5年生の後に学校を中退。 その後、チャーリー「タイニー」ブラウンのバックアップギタリストとしてバーで演奏するようになります。すぐにスティールギターを習得。読譜技術も身につけて、活動をはじめました。 最初は、オーケストラでスティールギターを演奏。ギグの標準的な衣装はギャバジンパンツ。で、「ギャビー」となった、とも言われています。 ギャバジンパンツを愛用し、ギャビーというニックネームを定着させたらしい。なんとも、おしゃれで愉快な話ですね。 ハワイアン・スティール・ギターの熟練したプレーヤーになったギャビーですが、伝統的なハワイアン・スラックキー・ギター(指で弾くオープン・コードスタイル)としても有名になっていきました。 1946年、ギャビーはベルレコードレーベルで彼の最初のレコーディング「Hi'ilawe」を行い、これは、スラック・キー・ギターを使ったハワイアンソングの最初のレコードともいわれています。このレコードは多くの地元のミュージシャンにインスピレーションを与えました。翌年には、スラック・キー・ギターインストゥルメンタルの最初のレコード、「フラ・メドレー」を録音。 「フラメドレー」は、文化的、歴史的、または美的重要性のために米国国立録音登録簿に登録されています。 さらに、アンディ・カミングス、レナ・マチャド、レイ・キニーなど、

イギリス初のロックンローラー クリフ・リチャード&ザ・シャドウズ

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わたくしがクリフ・リチャードをはじめて聴いたのは、全盛期よりかなり後の1972年ごろ。 ラジオで流れていました。 この曲です。 素晴らしいですよね。名作です。 当時、アコースティック・ギターを弾き始めてまして、このラテンっぽいリズムギターがかっこいいなあ、と思ってコピーしたり。 リードギターの音づくりも素晴らしい。 歌もうまいだけでなくて、誰にも出せない味があって、すぐにこの人だとわかる独特の素晴らしい声。おまけにハンサムマン。 大スターになるのも当然、と思います。 ところが、アメリカ側ではさっぱりで、ほとんど一発屋だと思われている始末。こりゃまたどういうわけだ、そんなわけないだろ、と思うのですが、不思議なこともあるものです。 しかしながら、後年、2012年も、御覧のとおり、まったく変わらない。すさまじい大観衆に支えられて、まさに、サーの称号を得るだけのことあるよなあ、と思いますね。(現在は、クリフ・リチャード卿です。) そして、そして、ギターがハンク・マーヴィンで相変わらず最高なサウンドフィエスタレッド、ゴールドパーツのフェンダーストラトがかっこいい! これだよな!俺もすっかりハマったぜ! リチャードのバックはシャドウズで、これまた素晴らしいヒット連発のインストルメンタルバンドでもありました。 マービンは、16歳の時、友人のブルース・ウェルチ(のちにシャドウズのリズムギターになる)とともにアマチュアコンテストに応募したものの、3位と振るわず。 解散に。でも、そんなことであきらめていいのか!いや、よくない!やらなくちゃ!今でしょ! とか林修みたいなことを口走ったりはしてないと思いますが、ふたりは音楽で身を立てる事を決意、生活費を稼ぐためにコーヒー・バーで演奏していたところ、クリフ・リチャードのマネージャーのジョニー・フォスターとばったり出会ってしまいます。 これが幸運のビッグバン。フォスターはマーヴィンにリチャードのバックバンドに入ることを依頼したところ、マーヴィンは、相棒のウェルチと一緒ならいいぜ、と友達思いの優しいやつ。で、リードギターがマーヴィン、リズムギターがウエルチという、50年代から現在にまで至るシャドウズとなるわけです。 ハンク・マーヴィンは、イギリス本国に於いてトニー・アイオミ、ピーター・グリーン、ブライアン・メイ、マーク・ノップラーをはじめとする数

フランキー・フォードの「シー・クルーズ」

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フランキー・フォード、といって、すぐに、「あー、シー・クルーズの人!」って気が付く人は相当のロックンロールマニアかと思います。 この人が知られているのは、この1曲のおかげ。でも、この曲、とにかくゴキゲンなんですよね。 Frankie Ford "Sea Cruise" 1950年代のニューオーリンズR&Bサウンドの一番おいしいところどりをしたような、すさまじく楽しくかっこいい曲であります。これ大ヒットしました。 あまり印象に残らないフランキー・フォード。 歌は素晴らしいけど、そんなにカリスマチックなアイドルっぽくもないし、そもそも若い白人のアイドル歌手路線からほど遠い、南部のドタバタしたR&Bサウンドなんですから、なにか、ミスマッチな印象がある。 「フランキー、ちょっと悲しいな。だって、ラブソングじゃないんだもーん!」 なんて叫んだという記録はいっさい残ってません。  彼はルイジアナ州グレトナ生まれ。ニューオーリンズの川向うくらいの位置の町です。 彼は幼い頃に歌と踊りを学び、高校では歌手とピアニストとしてシンコペーターズというグループに加わって活動しています。 地元ルイジアナ州をツアーした後、ヒューイ「ピアノ」スミス&ザ・クラウンズの「シークルーズ」でボーカルのオーバーダブを録音した、となっている。 その際、いつくかの効果音(ベルと船のホーン)もついでにオーヴァー・ダビング。 オリジナルのスミスのほうは、録音はできていたものの、ツアーを離れていたので、プロモートの関係からか、エイスレコードはフォードのバージョンをリリースすることを決定といういきさつだったらしい。 で、泥臭いニューオーリンズのR&Bらしい曲なのに、チャートを飛び越えて、ポップチャートで14位、R&Bチャートで11位に上がり、結局、ミリオンセラーになりました。(ゴールドディスク)。 さて、以前ご紹介した、ヒューイ・ピアノ・スミス。 ちょっと復習をしてみましょう。 ヒューイ”ピアノ”スミスは、ニューオーリンズのピアノ奏者としては、歴史上1,2を争う影響力を持った人でしたが、その器楽奏者としての活躍ぶりとは別に、たいへん面白い音楽をたくさん残したことで知られています。 彼らの2大レコードは、お笑いビョーキネタソングの「ロッキン・ニューモニア・アンド・ザ・ブギウギ・フルー(ロッキン肺炎とブ

ディム・ディム・ザ・ライツ ー ビバリー・ロス

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つい、先月、1月15日に、ビバリー・ロスが亡くなりました。87歳。認知症だったそうです。 ビバリー・ロスって誰かって? 50年代ロカビリーが好きな人にとっては、「ディム・ディム・ザ・ライツ」(ビル・ヘイリー)を書いたことで有名。 これが彼女の最初のビッグ・ヒットです。 もちろん、その後もたくさんの名曲を描いたソングライター。 ザ・コーデッツがヒットさせた「ロリポップ」、レスリー・ゴーアの「ジュディ・ターンズ・トゥ・クライ」、ロイ・オービソンの「キャンディ・マン」、アールズのドゥーワップクラシック「リメンバー・ゼン」、そして、「闇に響く声」にフィーチャーされたエルビスの傑作「ディキシーランド・ロック」も彼女の作です。 Elvis Presley - Dixieland Rock (King Creole)  ロスは、1934年、ニューヨークのブルックリン生まれ。 子供の頃、家族と一緒にニュージャージー州のレイクウッドに引っ越し、そこでピアノを学んだそうです。 「大都会のど真ん中ではですね、ピアノも近所迷惑じゃーん。ちょっと郊外のニュージャージーなら弾き放題だっぺ?」 とか、東京と横浜と千葉が混ざり合ったような言葉で言いました、なんてことはないんですが、きっとそうだそうに違いない。 学校にいる間、彼女は歌の歌詞を書き始めまして、ニュージャージーにある家族の家からマンハッタンまでバスに乗って、ニューヨークの音楽出版の中心地であったブリルビルディング近辺の音楽出版社街をぶらぶらしていました。 「ぶりるをぶらぶら、略して、ぶりぶらじゃーん。」 なんて、ほざいたとは思えませんが、そこで彼女はジュリアス・ディクソンというソングライターと接するチャンスに恵まれます。やー、ぶらぶらしてみるもんだ。 まあ、当時は、ロックンロールはおろか、のちにブリルビルディングの代名詞となるアルドン・ミュージック(1958年設立)すらない時代ですから、先見の明があったってことなのかな。 で、1954年、19歳のとき、ロスはディクソンと共作で「ディム・ディム・ザ・ライツ」を書き、これがビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツによってレコーディングされたんですね。結果は、ビルボードシングルチャートで11位という大ヒット。これ、「ロック・アラウンド・ザ。クロック」より前なんですよね。 しかも、翌年の1955年、ポップ