ディム・ディム・ザ・ライツ ー ビバリー・ロス
つい、先月、1月15日に、ビバリー・ロスが亡くなりました。87歳。認知症だったそうです。
ビバリー・ロスって誰かって?
50年代ロカビリーが好きな人にとっては、「ディム・ディム・ザ・ライツ」(ビル・ヘイリー)を書いたことで有名。
これが彼女の最初のビッグ・ヒットです。
もちろん、その後もたくさんの名曲を描いたソングライター。
ザ・コーデッツがヒットさせた「ロリポップ」、レスリー・ゴーアの「ジュディ・ターンズ・トゥ・クライ」、ロイ・オービソンの「キャンディ・マン」、アールズのドゥーワップクラシック「リメンバー・ゼン」、そして、「闇に響く声」にフィーチャーされたエルビスの傑作「ディキシーランド・ロック」も彼女の作です。
Elvis Presley - Dixieland Rock (King Creole)
ロスは、1934年、ニューヨークのブルックリン生まれ。
子供の頃、家族と一緒にニュージャージー州のレイクウッドに引っ越し、そこでピアノを学んだそうです。
「大都会のど真ん中ではですね、ピアノも近所迷惑じゃーん。ちょっと郊外のニュージャージーなら弾き放題だっぺ?」
とか、東京と横浜と千葉が混ざり合ったような言葉で言いました、なんてことはないんですが、きっとそうだそうに違いない。
学校にいる間、彼女は歌の歌詞を書き始めまして、ニュージャージーにある家族の家からマンハッタンまでバスに乗って、ニューヨークの音楽出版の中心地であったブリルビルディング近辺の音楽出版社街をぶらぶらしていました。
「ぶりるをぶらぶら、略して、ぶりぶらじゃーん。」
なんて、ほざいたとは思えませんが、そこで彼女はジュリアス・ディクソンというソングライターと接するチャンスに恵まれます。やー、ぶらぶらしてみるもんだ。
まあ、当時は、ロックンロールはおろか、のちにブリルビルディングの代名詞となるアルドン・ミュージック(1958年設立)すらない時代ですから、先見の明があったってことなのかな。
で、1954年、19歳のとき、ロスはディクソンと共作で「ディム・ディム・ザ・ライツ」を書き、これがビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツによってレコーディングされたんですね。結果は、ビルボードシングルチャートで11位という大ヒット。これ、「ロック・アラウンド・ザ。クロック」より前なんですよね。
しかも、翌年の1955年、ポップチャートとR&Bチャートの両方でヒットし、「白人歌手がR&Bチャートに到達した最初のロックンロール曲」と言われています。
BILL HALEY AND HIS COMETS "DIM DIM THE LIGHTS"
ローリング・ストーン誌は、後に、この曲を「ブルージーなエレキ・ギターのリフ、派手なウォーキングベース、そして思春期の無邪気さを維持しながらも、高校のときめきやボトルを回すようなパーティーゲームに触発された、軽快な歌詞」と表現しました。
「ソーダとポテトチップスでおなかいっぱい。でも今は味わいたいんだ、君の甘い唇を。」という歌詞ですね。
こうした、非常に明るいリズム的楽しさと軽いロマンチックなテーマの組み合わせが彼女のトレードマークとなります。
「あたしゃね、それだけじゃないんだよ。もっと、なんかフツーじゃないものを作るんだっ。」
とか、下町ロケット女社長版みたいなこと言ったかどうか知りませんが、ちょっと変わった感じの曲が多い気がします。
「ディム・ディム・ザ・ライツ」も例の「パヨパヨパヨー」っていう、ノベルティなベースボーカルやところどころマンボビートに変化するなど、普通じゃないです。まあ、ディクソン氏のほうが面白いもの好きだったのかも。
続いてロスとディクソンが書いたのは、1958年の「ロリポップ」。こちらは、ザ・コーデッツが全米2位、そのカバーであるザ・マッドラークス版がイギリスで2位と、これらは世界ヒットになりました。
曲の由来もこのコンビらしくヘン。
ディクソンの娘が髪留めにロリポップをさすのに手間取って、手伝っていたらセッションに遅れたらしい。
「そのはなし、いただきいー。」と叫んだかもしれないロスが曲を書き始め、デモバージョンを録音。
当初、ディクソンは、RCAレコードにもちこんで、「ロナルド・アンド・ルビー」に歌わせたのですが、これが黒人男性と白人女性の異人種デュオであることがわかって、以前に予約されていたテレビ出演はキャンセル。
結局、全員白人女性のザ・コーデッツ(米国で2位)で国際的なヒット曲になりました。(のちに、イギリスのマッドラークスによるカバー・バージョンがイギリスで2位。)
で、このロナルド・アンド・ルビーという一発屋デュオの女性のほうが実は、ロス本人。ルビー=ロスですね。
人種差別の激しかった当時、ロスという人、時代の先取りだったのがわかります。
RONALD AND RUBY "LOLLIPOP"(ORIGINAL VERSION)
1950年代後半、ジェフ・バリーと一緒にブリルビルディングで働いていた間、ロスは出版社ヒル&レンジに採用されました。
これがきっかけで、ペンネームのレイチェル・フランクを使用して、アーロン・シュローダーと「ディキシーランド・ロック」を共同執筆。この曲は、エルビス・プレスリーが1958年の映画「闇に響く声」のために録音し、サウンドトラックアルバムでリリースされました。
エルビスの曲は、もう1曲あります。もともとはチャーリー・ブラックウェルのシングルのB面として最初にリリースされた作品で、後の1960年にプレスリーによってカバー。「奴の彼女に首ったけ」(ザ・ガール・オブ・マイ・ベスト・フレンド)です。
ELVIS PRESLEY"THE GIRL OF MY BEST FRIEND"
素晴らしい出来栄えのプレスリーバージョンは、彼のアルバム「エルビス・イズ・バック」に収録され、イギリスで9位、アメリカで19位に到達。
その後、ロスはキャロル・キングと共に、ブリル・ビルディングのソングライターとしてトップとなりました。そして、さらに、フレッド・ニールと共作した「キャンディー・マン」は、ロイ・オービソンでヒット。トニー・パワーズと共作した「リメンバー・ゼン」は1962年にアールズによってヒット。
さらに、レスリー・ゴーアが「ジュディ・ターン・トゥ・クライ」を大ヒットさせて、60年代前半を代表するソングライターの一人となりました。
その後、セミリタイアした後、80年代に復帰して、エンゲルベルト・フンパーディンク、ボニー・レイットといったアーティストたちに曲を提供してきましたが、今年1月に亡くなりました。
ほとんど忘れ去られている大作詞家、ビバリー・ロスのお話でございました。
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