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スーパーバイリンガルの大スター ニール・セダカ

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セダカは現在も元気いっぱいで、YOUTUBEとFACEBOOKで、日課みたいに自宅ピアノ弾き語りを配信してます。 セダカは、世界中に出向いて行ってコンサートをして、世界的スターになっていきましたけど、それだけではない。 RCAレコード戦略に乗って、世界中の言語で、世界中のスタジオで吹き込みを行い、レコードを連発し、その国のスターになっていきました。 コニー・フランシスなんかもそうです。 このあたりって、ほとんど語られることがなく、わたしも詳しい事情が書かれたものを見たことがないので、録音記録をもとにあらましをご紹介したいと思います。 ドイツベアファミリーから出ているニール・セダカのボックスセット。 NEIL SEDAKA / OH CAROL -THE COMPLETE RECORDINGS 1956-1866というタイトルで、豪華ブックレット付CD8枚組。 これ、全盛期のRCA録音すべてを含んでまして、本国アメリカのヒット曲すべて、アルバム収録曲すべてで4枚。 あと半分の4枚のうち、1枚は、ヒット曲のインスト集。3枚が外国語版録音という構成です。 まあ、1966年までの全録音の半分近くが、外国でその国の言葉で歌ったものなので、どれくらい力が入っていたかわかります。 最も初期のものは、1960年から1961年にかけて、なんとヘブライ語版の「オー、キャロル」と、ドイツ語版のクレイジー・デイジー(リトル・デビル)。 どちらもオリジナルのバックトラックをそのまま使って別バージョンボーカルトラックをミックスしてます。 その後1963年には、ドイツ本国で、独自のレコーディングをしています。ドイツ独自の曲もあるのですが、このコンセプトはのちのちの世界録音でも続発します。 Neil Sedaka - Candy (Madchen Aus Old Germany) 1963年の5曲は、西ドイツ(当時)のベルリン録音。 同じく1961年、イタリア録音も開始。イタリア語ものは、最も多いです。どれも素晴らしい出来栄えで、アメリカ版とまったく遜色ありません。 1962年から1965年まで、RCAイタリアから、コンスタントに39曲もリリースしています。すべてローマのスタジオ録音。 Neil Sedaka -Viene La Notte そして、スペイン語バージョン。 1962年のブラジルのサ...

オーストラリア最初の世界ポップヒット ー ザ・シーカーズ

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(注)この記事をTHE KINGのために書き、掲載された直後の2022年8月7日、ジュディス・ダーラムが帰らぬ人となりました。R.I.P  シーカーズと聞いて、ジョージーガール、懐かしいなあ、と思い出す世代ももう60代以上となりました。 とりわけ、オーストラリアのグループなので、あまりなじみがないかもしれませんが、可憐な美人の女性リードボーカル、ジュディス・ダーラムの絶大な人気と相まって、世界中で売れに売れたグループ。 百聞は一見にシーカーズ! というわけで、こちらをご覧ください。 The Seekers - I'll Never Find Another You  シーカーズはイギリスとアメリカで主要なチャートで成功を収めた最初のオーストラリアのポップミュージックグループと言われています。結成は1962年。 ポップとは言っても、聴けばわかるとおり、フォークグループとしてとらえられているかもしれません。 オーストラリアの音楽史家イアン・マクファーレンは、彼らのスタイルを「明るくアップテンポなサウンドで、ポップすぎて厳密にフォークとは見なされず、フォークすぎてロックとは言えない」と説明しています。 この非常に微妙な線が、ザ・シーカーズの個性を見事に言い表しているし、それは唯一無二の素晴らしいものでした。 1960年代に「アイル・ネヴァー・ファインド・アナザー・ユー」、「ア・ワールド・オブ・アワ・オウン」、モーニングタウン・ライド」、「サムデイ・ワン・デイ」、「ジョージー・ガール」でトップ10ヒットを記録。  「アイル・ネヴァー・ファインド・アナザー・ユー」と「ジョージー・ガール」で、米国でも成功を収め、結局、世界中で5000万枚以上のレコードが売れたと言われています。 1967年、「オーストラリアン・オブ・ザ・イヤー」に、1995年、ARIAの殿堂入り。 ザ・シーカーズは、もともとは、1962年にメルボルンでベースのアソル・ガイ、12弦ギターのキース・ポガー、ギターのブルース・ウッドリーによって結成されました。 彼らは全員、ビクトリア州のメルボルン男子高校の同級生で、1950年代後半に活動を開始。最初は、ドゥーワップグループで、1962年に、辞めたリードシンガーの代わりに、ジャズ歌手として活躍していたジュディ・ダーラムをリードに抜擢したとこ...

ディム・ディム・ザ・ライツ ー ビバリー・ロス

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つい、先月、1月15日に、ビバリー・ロスが亡くなりました。87歳。認知症だったそうです。 ビバリー・ロスって誰かって? 50年代ロカビリーが好きな人にとっては、「ディム・ディム・ザ・ライツ」(ビル・ヘイリー)を書いたことで有名。 これが彼女の最初のビッグ・ヒットです。 もちろん、その後もたくさんの名曲を描いたソングライター。 ザ・コーデッツがヒットさせた「ロリポップ」、レスリー・ゴーアの「ジュディ・ターンズ・トゥ・クライ」、ロイ・オービソンの「キャンディ・マン」、アールズのドゥーワップクラシック「リメンバー・ゼン」、そして、「闇に響く声」にフィーチャーされたエルビスの傑作「ディキシーランド・ロック」も彼女の作です。 Elvis Presley - Dixieland Rock (King Creole)  ロスは、1934年、ニューヨークのブルックリン生まれ。 子供の頃、家族と一緒にニュージャージー州のレイクウッドに引っ越し、そこでピアノを学んだそうです。 「大都会のど真ん中ではですね、ピアノも近所迷惑じゃーん。ちょっと郊外のニュージャージーなら弾き放題だっぺ?」 とか、東京と横浜と千葉が混ざり合ったような言葉で言いました、なんてことはないんですが、きっとそうだそうに違いない。 学校にいる間、彼女は歌の歌詞を書き始めまして、ニュージャージーにある家族の家からマンハッタンまでバスに乗って、ニューヨークの音楽出版の中心地であったブリルビルディング近辺の音楽出版社街をぶらぶらしていました。 「ぶりるをぶらぶら、略して、ぶりぶらじゃーん。」 なんて、ほざいたとは思えませんが、そこで彼女はジュリアス・ディクソンというソングライターと接するチャンスに恵まれます。やー、ぶらぶらしてみるもんだ。 まあ、当時は、ロックンロールはおろか、のちにブリルビルディングの代名詞となるアルドン・ミュージック(1958年設立)すらない時代ですから、先見の明があったってことなのかな。 で、1954年、19歳のとき、ロスはディクソンと共作で「ディム・ディム・ザ・ライツ」を書き、これがビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツによってレコーディングされたんですね。結果は、ビルボードシングルチャートで11位という大ヒット。これ、「ロック・アラウンド・ザ。クロック」より前なんですよね。 しかも、翌年の1955年...

カナディアン・アイドル ー ポール・アンカ

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おはこんばんにちは、ポール安価です。 大安売りだよ、そこのおばちゃん、おばちゃんどっから来たの?え?彼方の小田原から?違うの、カナダのオタワからあ?そいつはてえへんだ、地球のうらっかわじゃござんせんか。 ポール・アンカってカナダの人だったんですね。知りませんでした。 日劇ウエスタンカーニバルな、「ダイアナ」、「君は我が運命」など、日本でも1950年代から人気があって、日本の歌手にたくさんカヴァーされましたし、1958年(昭和33年)には、来日もしています。 さらに、ソングライターとしても有名。 トム・ジョーンズの最大のヒット曲の1つ、「シーズ・ア・レイド」。 エルビス・プレスリーを含む多くの人が録音したフランク・シナトラの代表曲「マイ・ウェイ」。(シャンソンのクロード・フランソワとジャック・レヴォーの曲。アンカは英語版の歌詞の作者。) アンカとセダカは、日本では並べられて2大アイドルっぽい扱いだったと思いますが、セダカはニューヨークの、しかもブリルビルディングのエリート作曲家ですから、まったく異なる背景の人たちです。 しかしながら、アンカは、女の子たちが絶叫卒倒するイケメンのスーパーアイドルというだけに終わらず、全く素晴らしい大歌手であっただけでなく、超一流のソングライターでありました。 アンカはカナダのオンタリオ州オタワの生まれ。両親はレストランのオーナーなので、中流家庭の出身です。 彼の父はシリアのダマスカスのバブトゥマからアメリカに来て、彼の母はレバノンからの移民でした。 白人系のアイドル歌手が目立つアメリカ60年代のティーンアイドルの中では、ちょっとエキゾチックな感じの風貌ですが、中東の血筋だからでしょうか。 ちなみに、イギリスでアイドルだった、エンゲルベルト・フンパーディンクもインドの血筋の人ですね。 アンカは、レバノンのキリスト教関係者で、聖エリアス・アンティオキア正教会の聖歌隊と一緒に歌いました。 そして、フィッシャーパーク高校に通い、ボビー・ソクサーズと呼ばれるボーカルトリオの一員となりました。 まあ、こういう話、実は歌の奥には宗教的な深い意味があった、とか、そういう話になりがちですが、まったくそんな評論家が喜びそうな話はいっさいありません。アンカの場合、当初はまったくのティーンアイドル、おバカなアメリカンラブソング(ほんとはカナディアン)ばかりで、...

レスリー・ゴーア ー ユー・ドント・オウン・ミー

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レスリー・ゴーアは、60年代のヒット歌手ですが、最もよく知られているヒット曲は、「イッツ・マイ・パーティ」(涙のバースデイパーティ」のタイトルで日本でもヒット)、自身が書いた「メイビー・アイ・ノウ」、そして、最初のフェミニズムソングと言われた「ユー・ドント・オウン・ミー」でしょう。 ユー・ドント・オウン・ミー レスリー・ゴーアは、1946年、ブルックリンの生まれ。運命的な出会いがあったのは、16歳のとき。人気作曲家のクインシー・ジョーンズと出会った。 パーティでばったり!とか、ゴーアが歌うステージをたまたまクインシーが見た、とか、いや、見たのは家政婦だ、とかいろいろ言われているようですが、実際は、ボーカルレッスンを受けていたとき、ピアノ奏者とスタジオにいってデモ曲を作って、クインシー・ジョーンズに送ったところ、即採用となって呼ばれた、ということらしい。なんだ、偶然とかじゃなくて、実力じゃん、ってことですよね。 しかしながら、レコーディングデビューは、ブリルビルディングのエリー・グリニッチが書いた「イッツ・マイ・パーティ」で、プロデューサーがクインシー。これが大ヒット。当初、レコードが発売になったことも知らずにラジオで流れてびっくりした、とか、なんだか、当時らしい、というか、歌手も作曲家も派遣切り的なブリル・ビルディングらしい話。 ラジオのDJが住所まで言っちゃったらしく、ある朝起きたら、庭で群衆がキャンプ状態だったとか、もう寝耳に水、ねずみにミミズ、みたいな話もあり。そんなパパラッチーパパあっちっちな毎日でも、ちゃんと学校に通い、勉強優秀だったらしい。しっかりした人だったんでしょうねえ。この勉強好きがのちのち彼女のイメージというか、活動姿勢を変えていきます。 まあ、とにかく、歌手としてもナンバー1とったら、もうこっちのもんだぜ、ってことで、ゴーアの快進撃が始まりました。 TUBE:イッツ・マイ・パーティ~ジュディ・ターンズ・トゥ・クラ イ 続いて出たのが、「イッツ・マイ・パーティ」の続編、「ジュディ・ターンズ・トゥ・クライ」でこちらも、ナンバー5という大ヒット。その後も、学校で勉強しながら歌手活動、でも大ヒット、でもアイドルというすごい活躍ぶり。「シーズ・ア・フール」、「ザッツ・ザ・ウエイ・ボーイズ・アー」、「ルック・オブ・ラブ」、「サンシャイン、ロリポップス・アン...

ラ・メール~ビヨンド・ザ・シー シャルル・トレネとボビー・ダーリン

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1959年の大ヒット「ビヨンド・ザ・シー」。 ビルボードで6位、R&Bチャートでも15位、イギリスでも8位。 歌ったのは、ボビー・ダーリンで、のちに彼の波乱万丈の人生を描いた伝記映画のタイトルにもなりました。 その前にも、2つのインストゥルメンタルによるレコーディングがトップ40に入っています。 ベニー・グッドマンのバージョン(1948年)とロジャー・ウィリアムズ(1955年)です。 さて、この曲、はじめて英語の歌詞がついた歌ものとして出たのはダーリン版で、その前はインストでしたが、そもそもは歌ものでした。 ただし、フランス語で、歌詞の内容も全く異なる、海を題材にした風景画のようなものでした。ダーリン版はそれに「ビヨンド(超えて)」をつけて、海を越えていく恋心といった内容のラブソングにしてヒットしたわけです。なお、アメリカ人による歌ものの元祖はビング・クロスビーで、1953年のアルバム「ル・ビング」に収録されました。こちらは、フランス語のオリジナル歌詞版ですね。 Bing Crosy (1953) La Mer  もともとのタイトルは、ラ・メール。 フランスのシャルル・トレネが作詞作曲、1945年にローラン・ジェルボーが初めて歌い、翌年の1946年にトレネが歌って非常に有名になったとされます。 トレネは16歳のときにこの曲の元となる詩を書いたそうです。1943年、トレネがモンペリエとペルピニャンの間を鉄道に乗って旅をしていとき、南仏のトー湖の眺めが目に入り、かつて書いた詩のメロディを思い出したトレネは急いで曲をまとめたという逸話があるらしい。 フランスでは非常に有名な古典曲となり、以後、世界中の非常に多くのミュージシャンによってカバーされ続けており、エディット・ピアフの「ラ・ヴィ・アン・ローズ」と並んでフランスで最も売れた曲となっています。 Charles Trenet - La mer [Live Version]  そのほか、ジョージ・ベンソンがダーリン版をカバーしてヒット。(1985年) その後も「ビヨンド・ザ・シー」のカバーは、ロビー・ウィリアムズ(2001年)(アニメ映画『ファインディング・ニモ』のエンドクレジットで使用)、バリー・マニロウ(2006年)、ロッド・スチュワート(2010年)などなど、以後も現在までたくさんのカバーが存在しま...

恋のダウンタウン ー ペトゥラ・クラーク

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ペトゥラというステージネームは、おとうさんが名付けたんだそうです。 なんでも、自分の昔のガールフレンド2人の名前をミックスしたんだそうな。 しかし、なにこれ?的などうでもいいトリビア、英語版ウイキ多くね?なぜ? 「おひょひょひょ、おらっつがよお、むかーす好きだったおなごにンーちゃんとペちゃんがいたのよお。だっかあよう、おめえはンーペだっペ!」 とかいうのと一緒じゃねえかよ。 今回は、イギリスの、というよりヨーロッパの、60年代を代表する歌姫のひとり、ペトゥラ・クラーク。 まあ、有名ですわな、「恋のダウンタウン」。別に松本なんとかがでてきませんよ! 名作、傑作多数あれど、これまた珍しいくらい「一発で覚えちゃえる強烈曲」だと思います。よく出来てる。 ンーペ、じゃなくて、ペトゥラは9歳のとき、偶然、ラジオ、映画、テレビに出演した、という、え?なんでなんで?ウッソー!みたいな話からスタートします。 1942年といいますから、戦時中。イギリスといえば、空爆でロンドン壊滅という、すさまじい状態にあったわけですね。 おとうさんと一緒にBBCラジオ番組に参加しているときに、海外駐在の叔父にメッセージを送ろうとしたところ、空襲で放送が遅れた。ナチスによる爆撃の間、プロデューサーが、 「あーっ!やべえ!みんなをリラックスさせなくちゃ!おらじゃあだめだすい、だ、だれかたしけてけれえ!」 って叫んだところ、ガキのくせして、ペトゥラちゃん、「マイティ・ラック・ア・ローズ」を歌い、これが大うけ。よーしっってんで、軍隊を励ますパフォーマンスをするため、その後、なんと約500回も出演することに。やー、世の中、特に、戦時中ですからね、なにが起こるかわからない。 で、この人、映画やラジオの子役となるのですが、同業仲間にいたのがジュリー・アンドリュース。 「サウンド・オブ・ミュージック」や「メリー・ポピンズ」の人ね。  やがて、彼女は「イギリスのシャーリーテンプル」としても知られるようになります。 アメリカと同じように、イギリス陸軍でマスコットになった。ある意味、戦時を支えた女性だった。 1946年、終戦を迎えると、ペトゥラはBBCのバラエティ番組に出演してテレビでも活躍。自分の番組をもって(まだ14歳)、1950年までホストを務めています。 1947年にペトゥラはポリゴンレコードへ吹き込みを開...

ポップ音楽の大作曲家 ー チャールズ・チャップリン

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子供のころ、よく日比谷の映画館に映画を観にいってました。小学生のころは母か父と一緒です。 当時、チャーリー・チャップリンの回顧上映シリーズがあって、全部観ました。残らず全部です。 で、あまりに好きだったので、ビデオを買いました!わけないですね、当時はそんなものありません。パンフレット、全部集めました。 ロードショーとかスクリーン(当時の映画専門誌。スクリーンはちょっぴりエッチで大好きだった)の切り抜き集でも飽き足らない。 で、買ってもらったのが、チャーリー・チャップリン映画音楽集2枚組。フランスのミシェル・ヴィラール・オーケストラによるチャップリン作品の映画音楽演奏大全集。 タイトルを、VIVA CHAPLINといいます。まだ持ってます、というより、これはわたしの子供時代からの音楽のバイブル。ついでに久々にLPを開いてみたらスクリーン誌の楽譜の切り抜き(ライムライトのテーマ)が出てきた。なんかもう、自分で勝手に感無量です。 こんなに素晴らしいレコードはありません。毎日、そらでオケの全部のパートをハミングできるくらい、聴きまくっていました。 このときから、今日まで、チャップリンは史上最大のポップス作曲家のひとりだと信じています。実際、たくさんの有名歌手がチャップリンが自ら作曲したテーマ曲をヒットチャートに送り込んでいます。 改めて簡単にご紹介しますと、喜劇王チャーリー・チャップリンは、本名、チャールズ・スペンサー・チャップリン。イギリス人です。生まれたのは、1889年ですから、のちに「独裁者」でチャップリンがコケにしてみせたアドルフ・ヒトラーとは同い年。 ちなみに、わが国の知名度高い有名人は、石橋征二郎。(ブリジストンタイヤの創業者)、作家の夢野久作などがいます。 ちょっと意外だったのは、ハッブル望遠鏡で有名な天文学者エドウィン・ハッブル。まあ、ずいぶん古い人ですね。 チャップリンがなくなったのは、1977年なんで、88歳と長命でした。 サイレント映画時代に名声を博しましたが、あの有名な浮浪者キャラ、山高帽に大きなドタ靴、ちょび髭にステッキという、今ではアイコンになっているキャラクターの元祖です。 映画史の中で最も重要な人物のひとりであって、サイレントからトーキーに至る時代に今でも受け継がれる物語映画の基盤を作ったといわれています。とくに、自伝的要素や社会的及び政治的...

20世紀最大の女性歌手 ~ デイム・シャーリー・バッシー

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みなさん、こんばんは。オールドフィンガーです。年を取ると指さばきも鈍くなって、もうわしゃダメじゃ、じゃなくて、今日は、ジェームズ凡人さんが見えましてね。近所の焼き鳥屋でいっぱいやってきたとこですわ、なわけないすね。 ところで、1964年のジェームズ・ボンド映画「ゴールド・フィンガー」。覚えてますか?つか、知ってますか? 映画そのものは、かなりばかばかしい劇画風になってきたころのだぶるおーせぶんもの。いわゆるひとつの、ボンドくんじゃござんせーんか映画の1つ。わたくし、ガキのくせして映画館で観ております。もちろん、小学生で、再上映のときですね。悪役のひとりの殺人執事が山高帽を投げるとなぜか木が切れたり人の首がとんだりするのが面白くて思わず笑ってしまいました。子供が失笑するようなことをイギリス人は映画で作るんだなあ、とか思ったり。 まあ、それはとにかく、主題歌がなんといってもかっこよかった。これはもう、強烈に覚えております。エロい!としかいいようがなくて、子供のころは親に知られないようにしなくちゃ、とか変に気を回したりする歌だった気がします。 別にあえぎ声とかはいってないですよ!雰囲気がエロかったのかなあ、特に声が。 この主題歌、やはり、大ヒットしまして、世界ヒットになりました。歌ったのが、シャーリー・バッシー。 まずは、2011年に収録されたこの動画から。驚くことに、74歳のときの映像です。 世界ヒットは、これだけなので、理屈でいえば、この人もやまほどいる「ワン・ヒット・ワンダー」(一発屋)。日本でも70年代に流行ったきりなので、そう思っている方が多いかもしれませんが、実は、「欧州で最も売れた史上最高の女性歌手」です。 1937年生まれなので、今年で84歳になりますが、まだ健在。つい昨年、ラストアルバムといわれる「I Owe It All To You」をリリースして、世界中のファンを感動させました。 よく言われるとおり、「20世紀後半最大の女性歌手」、それがシャーリー・バッシーです。 50年代は、バーやクラブから、テレビ、そしてレコードデビューという、下積みから徐々にあがっていく苦労を重ねて実力をつけていったようです。でも、かなり早いデビューですね。まだ19歳でレコードデビューですから。 子供のころから、持ち前の強力なビッグ・ヴォイスでクラスメートを圧倒していたそうで...

シンガーソングライターとフォークロックの元祖 ー ジャッキー・デシャノン

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デシャノンといえば、カリフォルニアのエリー・グリニッチと呼ばれた人です。 ちなみにグリニッチはニューヨークのブリル・ビルディングのソングライターで、最も有名な曲は、ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」でしょう。 さて、デシャノンはなんといっても、素晴らしい歌手で、それにふさわしいデビューを飾りましたが、今日では、その名声をしのぐのが、ソングライターとしてのキャリアです。 それが、カリフォルニアのエリー・グリニッチといわれる所以。 さらに、彼女は、ロック時代最初の女性シンガーソングライターであると同時に、フォークロックの元祖でもあるのです。 歌手として最も知られているのは、「ホワット・ザ・ワールド・ニーズ・ナウ・イズ・ラブ」と「プット・ア・リトル・ラブ・イン・ユア・ハート」、ソングライターとしてのたくさんの名作のなかでは、「ホエン・ユー・ウォーク・イン・ザ・ルーム」と「ニードルズ・アンド・ピンズ」、そして、キム・カーンズのカバーが世界ヒットになった「ベティ・デイヴィス・アイズ」でしょう。 カリフォルニアの、と言われましたが、生まれはケンタッキー。カントリー音楽のふるさとみたいなところです。 11歳でイリノイに引っ越して、13歳のときには、すでに歌手として地元で有名になり、自分のラジオ番組まで持っていた。 神童というのでしょうね。 その年、1956年には、ウエスタンスイングの元祖のひとり、ピィー・ウィー・キングのテレビ番組に出演、評判になります。当時の芸名は、シェリー・リーだった。 1957年に、ロカビリーシンガーとしてジョージ・ゴールドナーのゴーンレコードと契約したときは、ジャッキー・ディーだったんですが、カントリーソングのほうで注目をあびた。ジャッキーに注目したのはエディ・コクランで、この人のガールフレンド、シャロン・シーリーにジャッキーを紹介。そしてふたりはソングライターコンビとしてブレンダ・リーの「ダムダム」をヒットさせます。 なお、シャロン・シーリーは、コクランの「サムシンエルス」を書いた人。その後もグレン・キャンベルに曲を書いたりしたソングライターです。 しかし、ヒットに恵まれたもののシェリー・リーだかジャッキー・ディーだかよくわかんなくなっちゃったジャッキーさん、 「ぶれんだりーみたいなしぇりーふぶれいみたいな、なーんだかまぎらわすいーしぱっとしないげーめー...

2021年版 死者のカタログ 

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2021年も、天に召された伝説的音楽家がけっこういます。 なんといっても、創世期のロックの大人物は、ドン・エヴァリー。エヴァリー・ブラザースの兄のほう。 8月21日に84歳で死去。なお、弟のフィル・エヴァリーは2014年に74歳で亡くなっています。 いうまでもなく、エルビスの少しあとに出てきましたが、おとうさんはカントリーギターの創始者のひとり。名家の出で、その素晴らしいギタープレイとハーモニーで歴史に残る活躍をしました。 その影響が、もっとも色濃いのはビートルズでしょう。さらに、その後のカントリー音楽のあり方を変えるほど大きな影響を与えました。 さらに、いろいろとスキャンダラスではありましたが、とうとう60年代の大プロデューサー、フィル・スペクターが、1月16日に81歳で死去。なにせ、殺人犯として獄中死。しかしながら、彼の作り出した音楽は今でも偉大です。 60年代アメリカンポップでは、もうひとり、ザ・モンキーズのマイク・ネスミスが12月10日に78歳で死去。 「デイ・ドリーム・ビリーバー」とか好きだったなあ。 イギリス方面では、マージービートのアイコンであるジェリー&ザ・ペースメイカーズのフロントマン、ジェリー・マースデンが2021年1月3日に78歳で死去。 「ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン」は、永遠の名曲。 さらに、ローリング・ストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツが8月24日に80歳で死去。 リズム&ブルース界では、スプリームスのメアリー・ウィルソンが2月8日に76歳で死去。 モータウン初期の人。リードシンガーだったダイアナ・ロスは77歳でまだ現役です。 我が国の重要ミュージシャンも相次いで亡くなりました。 寺内タケシが6月18日、82歳で、また、原信夫(シャープス&フラッツのリーダー)が6月21日に94歳で死去。 8月14日には、タレントとしても活躍した歌手のジェリー藤尾が81歳で死去。 ジェリー・マーズデンの若いころの動画を見てすぐにおもいだしたのが、グループサウンズと寺内タケシなんですが、こちらも亡くなってしまったのですね。 2021年はビル・ヘイリー関係者、50年代から活躍したオリジナルメンバーが相次いで亡くなりました。 これで、50年代コメッツの重要人物は全員鬼籍に入ったことになります。 ジョゼフ・フランク・ダンブロージオ(ジョーイ・...

ユー・ドント・ハフ・トゥ・セイ・ユー・ラブ・ミー ー イタリアからイギリス、そして世界へ

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リアルタイム、といっても、かなり古いので、小学生とかそのあたりですが、なんとはなく聞き覚えがある洋楽というのが多数ありまして。そんな中で、とりわけ印象深い、いつの間にかメロディを覚えてしまった曲の中に、「この胸のときめきを」があります。 もともと、誰のヴァージョンを聴いたのか覚えていません。ラジオから流れるダスティ・スプリングフィールドだったのかも、エルビスだったのかもしれず、もしくは、日本のだれかが歌謡番組で歌ったものだったのかもしれません。 いずれにせよ、一度聴いたら聴き手に強い印象を残す曲だと思います。 さて、この「この胸のときめきを」は、有名なポップスのスタンダードとしてのタイトルは英語版で「ユー・ドント・ハフ・トゥ・セイ・ユー・ラブ・ミー」。 実はこの曲、イギリスの歌手、ダスティ・スプリングフィールドが有名にしましたが、オリジナルはイタリアのソングライター、ピノ・ドナッジョとヴィト・パラヴィチーニの「lo che non vivo(senza te)」。 サンレモ音楽祭で紹介され、決勝に到達し、1965年3月にイタリアで1位になりました。  イタリアでは、ポップスの新曲はまず、音楽祭で公表され、コンテストで勝ち残ったのがレコードになるというパターンがあるよう です。改めて聴いてみても、この曲、とてもイタリア的ですよね。オペラ的で高らかに歌い上げるのがぴったりな感じです。 lo che non vivo(senza te): さて、これが世界ヒットになったのは、イギリスの歌姫、ダスティ・スプリングフィールドがカヴァーヴァージョンを発売したときです。 ダスティ・スプリングフィールドは、1965年のサンレモ音楽祭に参加していたので、ドナッジョが「この胸のときめき」を歌うのを聴衆として聴いていたんですね。 で、歌詞の意味はわからなかったけれど、大変に感動した。で、レコードも買ったのだけど、1年後にその英語版を自分で作り出したということのようです。 1966年3月9日、スプリングフィールドはドナジオ版のインストルメンタルトラックを持っていて、友人であるヴィッキー・ウィッカム、サイモン・ネイピア・ベルと一緒に英語の歌詞を書いた。ウィッカムもネイピアベルも、ソングライターではなく、業界人ではあるもののマネージャー職で、音楽作りはまったくの素人。元のイタリア語の歌...

シンス・アイ・ドント・ハブ・ユー ー ジャネット・ボーゲル(ザ・スカイライナーズ)

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不滅の名作というのは確実にあります。 本来、音楽というのは、曲ごとに判断すべきもので、アーティストでもレコードスタジオでもレーベルでもなければ、ジャンルでもありません。それはあくまで付加価値に過ぎないからです。 1958年のジミー・ボウモント&ザ・スカイライナーズ「シンス・アイ・ドント・ハヴ・ユー」の凄みというのは、それを最もよくわからせてくれるいい例のひとつです。 ミリオンセラーだから、というだけでなく、歴史の試練に打ち勝ってきたすごみみたいなものが、曲そのものに宿っています。 それは、スカイライナーズの実演と切っても切れないものでもある。 まず、名作に共通していえることは、多くの人々をとらえて離さない、音楽的に極めて優れたエレメントが必ずある点。 歌手の力がすごい、演奏のグルーブがすごい、間奏のギターリックがすごい、出だしのドラムスがすごい、なんでもありですが、「シンス・アイ・ドント・ハブ・ユー」の場合は、全体の素晴らしい出来栄えだけでなく、ラストノートの舞い上がる、ハイCが最大の聴き所なのは、誰が聴いても同感だろうと思います。 リード歌手のジミー・ボウモントの背後のソプラノが前面に躍り出て、スカイライナー(大型旅客ジェット機)のように、天高くかけあがっていく素晴らしいエンディング。 これをうたったのは、スカイライナーズの紅一点、ジャネット・ボーゲル。 ジャネット・ボーゲルのファルセットは、シンス・アイ・ドント・ハブ・ユーととともに、有名になり、リードをとったスカイライナーズ曲「アイ・キャン・ドリーム、キャント・アイ」や、作詞を手掛けた「ディス・アイ・スウェア」などのヒットソング、また、ジャネット・ディーンという変名で出したソロアーテイストとしてのレコードなどで、今日では伝説化していると言っていいでしょう。 ジャネット・ボーゲルは、1942年6月10日ピッツバーグ生まれ。ジミー・ボウモントと会ったのは、高校生のときで、このときからすでにともに音楽活動を始めています。 1958年に女性ボーカリストがいたドゥーワップグループというのは極めて珍しく、それを活かしたサウンドを目指しました。 キャリコレコードのオーディションで「シンス・アイ・ドント・ハブ・ユー」を歌って認められ、さっそくレコーディング。 シングルのリリース前に、グループ名を「スカイライナーズ」としました。...

ジミー・ボウモント&ザ・スカイライナーズ

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ジミー・ボウモント&スカイライナーズは、たくさんあるドゥーワップグループのひとつ、というよりも、アメリカのポップ音楽史においても重要な意義を持つグループのひとといっていいでしょう。 リードシンガーでリーダーのジミー・ボウモントが目指したのは、フォア・フレシュメンのように洗練された白人グループでありながら、泥臭い初期の黒人ドゥーワップの支持層にも受けるような、ゴージャスで、しかもソウルフルな音楽でした。 そして、スカイライナーズは、実際にそれをやってのけた世界最初のグループになったのです。 1958年、ピッツバーグで結成されたスカイライナーズは、1945年のチャーリー・バーネットのジャズ曲、「スカイライナー」にちなんで、名づけられました。 大ヒットになった「シンス・アイ・ドント・ハヴ・ユー」は、メンバーの実際の失恋体験をもとにした歌詞にボーモントがメロディをつけた、という、いかにも若々しい(当時全員10代だった)作品だったにもかかわらず、今日に至るまで多くのアーティストにカバーされ続け、スタンダードナンバーとして定着している名曲です。 この曲の歴史的真価は、なんといっても、多くの簡素なドゥーワップグループのサウンドを含む、いわゆる50年代当時の「ロックレコード」のサウンドとはほと遠い、ストリングス入りのスイートなサウンドにありました。 しかし、ボーカルは、本物の黒人グループと比較して、まったく遜色のない、ソウルフルなもので、ボーモントは黒人音楽チャートでもトップを獲得。 最初に有名になった「ブルーアイド・ソウル」(白人ソウル)歌手だと言ってもいいでしょう。 また、この曲は、ポップチャートだけでなく、R&Bチャートでも大ヒットした、初めてのストリングス入りソウルサウンドで、少し後に大ヒットしたドリフターズの「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」、60年代の黒人音楽(フィル・スペクターサウンド)や、ロイ・オービソンの作り出したサウンドの先駆けになりました。 ロマンティックでゴージャスな、オーケストラ付きのロック、とでも言うべきサウンドの原点は、1958年のスカイライナーズ・サウンドにあるのです。 その「シンス・アイ・ドント・ハヴ・ユー」のもっとも感動的な部分は、紅一点メンバー、ジャネット・ヴォーゲルによる、ラストノートの高く舞い上がるファルセット(ハイ・C)で、このラストの大受...

MANDOM 男の世界とジェリー・ウォレス

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愛する喜びを知るということはマンダムの世界に生きるということさ! なんだ、こりゃ? 陳腐の極みみたいな、安い歌詞。でもね、これに血沸き肉躍ったんですよ。 1970年ですから、わたくし、9歳。小学校3年生。 小学校でちょっとしたいたずらが流行りました。 「アゴのところに何か付いてるよ」と言って、相手の指がアゴに触れた瞬間に、すかさず、言うのです。 「ウ~ン、マンダム」。 覚えてますか。還暦過ぎの人はたいていご存じだろうと思います。 そもそも、まんだむ、って何だ? 当時、丹頂という、ポマードなんかで有名な化粧品メーカーがありまして、マンダムは商品名。男性化粧品のシリーズでした。 ネーミングの由来は、造語だそうです。「男の世界」という意味らしい。男を意味する「Man」と領域を意味する「Domain」を合わせた造語。 結果的に、マンダムシリーズはあまりに売れすぎて、丹頂という会社名をマンダムに変更。今に至っています。 1970年に売りに売れた、マンダムシリーズの人気を爆発させたのは、間違いなく、テレビコマーシャル。 広告の大成功例として非常に有名です。 白馬に乗ったチャールズ・ブロンソンが荒野を駆け、カウボーイハット(当時はテンガロンハットと言ってました)にすくった水を頭から浴び、顎を撫でて「う~ん、マンダム」。 このブロンソンという人、2003年に81歳で亡くなっていますが、現在は、伝説的なハリウッド俳優。 男気溢れる、という役柄ばかりだったものの、実際にやさしい家族思いのおとうさんだったらしい。 そのあたりの伝説をネタに、日本のサブカルチャーの旗手、みうらじゅんと田口トモロヲが、「ブロンソンズ」というユニットを結成。 雑誌『STUDIO VOICE』に人生相談コーナー「ブロンソンに聞け」を連載し、1995年にはこれをまとめた単行本『ブロンソンならこう言うね』を刊行。同年、マンダムのCMソングとして有名なジェリー・ウォレスの『男の世界』をカバーしたシングル『マンダム 男の世界』を発表、という、なんとも痛快かつ奇抜な発想で面白いことをしてくれてました。 そして、あのコマソン。タイトルは、そのものずばり、「男の世界」。 なんと、日本で、130万枚の売り上げを記録。ものすごいことですよ。日本でミリオンセラーってありえない。 日本独自シングルとして、オリコンの年間TOP50で最高...

黄色いリボンの100年史 ー トニー・オーランド&ドーン

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イエローリボンは、輪状にした黄色のリボン、もしくはそれを図案化したシンボルで、アウェアネス・リボンのひとつである。 多くの国で使われているが、国によって大きく意味が異なる。このシンボルが最も広く使われている国は、アメリカ合衆国である。愛する人、特に戦争に送られ、一時的に祖国に帰ることができなくなった兵士達に対して、帰りを待ちわびているという思いを表すシンボルとして使われている。(wikipedia) 黄色いリボンにこのような意味づけをする軍歌は古くから知られていたが、今日のような使われ方のきっかけは、1979年のイランアメリカ大使館人質事件の際、ケンタッキー州リッチフィールドの婦人会で、人質の無事帰還を願って街路樹に黄色いリボンを結んだり、身につけたりしたことがABCテレビのニュース番組で取り上げられ、全国的に黄色いリボンの掲示が行われるようになったため、ということのようです。 さて、わたしくらいの年代の人には、たぶん、青春時代の思い出のひとつとして記憶していることも多い名曲、「幸せの黄色いリボン」。1973年のビルボード1位の大ヒットでした。トニー・オーランドは、大ヒットが他にもあるし、60年代の名歌手でもあるのですが、これ1曲で今でも有名です。たった今もコマソンに使われて家庭に流れている。 しかしながら、夫の帰りを待つ女性と黄色いリボンの歌の歴史はとても古く、1917年に遡ります。 最初の著作権で保護された曲は、ジョージ・A・ノートンの「ラウンド・ハー・ネック・シー・ウエア・ア・イエロー・リボン」で、最初にレコーディングされた曲でもありました。 ノートンの歌は、200万人の男性が海外派兵された第一次世界大戦にぴったりでした。 この曲に登場する女性は、夏でも冬でも首に巻いている黄色いリボンについて尋ねられると、「兵士で前線にいる彼を待っているからよ。」と答えるのです。 その後、1949年。60,70年代にテレビで観た人もたくさんいると思いますが、ジョン・フォードの西部劇「黄色いリボン」の主題歌に、1917年のこの歌が使われ、日本でも有名です。 アンドリュー・シスターズ版「黄色いリボン」 さらに後年、歌ではなくて、物語、お話として、黄色いリボンは語り継がれてきました。 軍隊でなく、刑務所から出所した囚人が家族のもとへ帰るといったバージョンもあった。 もし、帰りを妻が...

ファイアー・クラッカーはその後どう軌跡を描いたか ー イエロー・マジック・オーケストラ

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わたくし、最近、DTMということをやっています。 DTMはデスクトップミュージックの略だそうで、ほぼ、パソコンだけでひとりで音楽が作れる、というもの。 これ、MIDIデータ(コンピューターで作った合成音。実際の楽器の音をもじって作られることが多いです。)がたくさん入った録音ソフト(CUBASEなど)をパソコンにインストールして楽譜のように書き込むか、外部キーボードを弾くと連動してそのまま録音できる。ひとりでバンドもできてしまいます。 パソコンとマイクやエレキをつないでアナログ信号をデジタル信号に変換するオーディオ・インターフェイスを使えば、ボーカルや実際の演奏を重ねていくこともできます。 一番安いオーディオ・インターフェイスとソフトのセットは、とうとう1万円を切っています。お手軽に、だれでもDTMで、ひとりで音楽が作れる時代になった、ということです。 さて、わたしがもともとこうした「多重録音」をして遊びだしたのは、10代のころで、当時はパソコンなんてありませんから、親父のオープンリールテープレコーダーのヘッド部分に音を重ねられるように細工をしてました。 80年代には、4万円ほどでカセット式マルチトラックレコーダーが一般に販売される時代になり、アマチュアが割合簡単にできるようになった。そのうち、20万円以上しましたが、コルグのシンセサイザーを手に入れて、相当凝ったことも始めました。 このときは、パソコンで編集をするより、コルグ本体でやってました。なんとあの、5センチ四方しかない小さい表示部で編集作業までやったのですが、今考えると頭から煙が出そう。そもそも今では老眼で、無理ですね。 そうした過去の経験から考えると、いまのDTMはとても便利で安価。すごい時代になったものです。それくらい進化したコンピューター音楽。そもそものきっかけはいつごろだったのでしょう。 中川克志著「コンピュータ音楽」(現代美術用語辞典)によると、最初のコンピュータ音楽はDTMで、クラシック音楽の世界。 1954年のことだったようです。 また初めてMIDIが可能になったのは1957年で、ベル研究所のマックス・マシューズとジョン・ピアースがプログラミング言語「Music I」を用いてコンピュータによる音響合成に成功したとあります。 さて、個人的な思い出は、1984年に飛びます。大学を卒業して最初に就職し...

楽器ギャグの王様 ー ビクター・ボルゲ

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ボブ・ホープをはじめとした30年代から続くアメリカンコメディ(ボードビル)の世界の大人物。 日本ではたぶんあまり知られていませんが、百聞は一見に如かず。 とりあえず、tubeでもどうぞ。 いかがでしたか?ちなみに日本語の字幕がついた動画がひとつもないので、たぶん日本ではあまり知られていないのでしょう。 現在の目で見ると、相当ヤバいギャグもあるので、そういうのが嫌な方は文句を言うかもしれません。 英語の堪能な方は余計なお世話かもしれませんが、先ほどの動画のギャグをいくつか説明しますね。 あと、英語としてはかなり訛ってます。デンマークで生まれ育ったからです。 1 「(煙を吐いて)つかれたので、一息いれてます。なにせ長い一日で、ずっと呼吸してたもんだから。」 2 「ピアノ音楽は好きですか?」(客 イエー)「そらひでえな。」 3 「なにをやろうかな。モーツアルトはどうかな。デンマークの作曲家でハンス・クリスチャン・モーツアルト。」 (注:有名なモーツアルトはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。) 4 「モーツアルトはご存知のとおりここまでしかなかったんです。(胸から上)」 (注:モーツアルトの外見はたった1枚の肖像画、しかも死後に想像で描かれたものしか残っていない。) 「そんな肉体のハンディキャップがあるのに幸せな結婚をしました。でも婦人は幸せではなかったようです。いつも婦人は床にはいつくばっていました。」 (注:アブナイギャグですね。今ならたぶん身障者差別だとクレームがつくでしょう。) 5 (ピアノの前で)「なにこれ。でかい黒盤がひとつあるだけなの?あ、ごめん、これ蓋か。」 6 譜面たてをたてて、鏡替わりに蝶ネクタイをいじる 7 「一番リクエストが多かった曲をやります。最後のリクエストは1936年でした。だからなんだったか覚えていません。」 8 「3つ絶対に憶えていられないことがあります。(沈黙)・・・・・4つです。」 9 (ピアノを弾きだす)これは、ベニスのワルツです。(やめる)今のところはイントロ。(弾いてやめる)今のはメインのところ。 (流麗に弾く)今のはなんか変なところ。なんでかっていうと、ショパンだから。」 以下、本格的な楽器をつかった漫談が続く。といった感じです。この辺はご覧になれば可笑しさがわかります。 動画でもわかるとおり、大変な人気です。とにかく、...

古き良きアメリカの高田純次  ー ディーン・マーティン

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前回に引き続き、「底抜けコンビ」のツッコミ役、ディーン・マーティンのお話。 この人、なによりも音楽で有名でして、大歌手であります。もともとが歌手として活動していた人なんですが、底抜けシリーズではじめて注目されてヒット歌手になったので、先に俳優として有名になったわけですね。 マーティンは、アメリカ人が親しみを込めて、「ディノ」と呼ぶスターでありますから、ここでも、ディノと書かせていただきます。 前回書いたように、ディノは底抜けシリーズで人気を得たものの、ボケ役のジェリー・ルイスのアクの強さに圧倒されておりました。 いわば、添え物的な、昔の日本の漫才ブームのときに流行った「うなづき役」みたいな扱いで、「フツーの人」っぽい人気だったのだろうと思います。 彼の初期の映画を見ても、二枚目なんだけれども超イケメンというわけでもなく、どっか抜けたぼやっとしたお兄ちゃんみたいな空気をまとった人で、歌はうまいけど、そんなに圧倒するような歌い方でもない。 だから地味な感じであまり人気がなかったのかもしれません。 そんなディノが大ブレークしたのは、彼の「呑兵衛ぶり」が話題になったときで、いつも酒とたばこを手放さず、ほろ酔い気分のサラリーマンみたいな風情で、ヘラヘラしたくだらないジョークを飛ばしながら、真面目なんだか不真面目なんだかよくわからない、どっか「ズレた人」としてエンターテイナーぶりを発揮しだしたときでした。 それが今日でも残る「ディノ」のイメージではないかと思います。いつもおかしなことを言って一人でげらげら笑ったりする二枚目半くらいのキャラ。 どっかで思い当たるタレントいませんか?我が国にもいますよね。高田純次さん。歌がうまいかどうかは知りませんが、斜めから入ってくるようなズレたジョークとか、親しみやすさとかを持っていながら、どこかオシャレで、かっこいい。顔だってよく見るとイケメンだし、ファッションセンスもいい。 あの人はもともとデザイナーですからね。御茶ノ水の東京デザイナー学院を出ている。ちなみにわたしの娘の先輩にあたる人です。 そういう人が東京乾電池を経て、俳優になり、悪役をこなしながら、だんだん「変なおじさん」的なキャラを作っていって、タレントとして大ブレークするわけです。 経緯もディノと似てますよ。 ディノは1917年6月7日、アメリカ・オハイオ生まれ。イタリア系のアメリ...