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8月, 2021の投稿を表示しています

急がば廻れ-ギタリストの中のギタリスト ジョニー・スミス

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突然ですが、まずは、「こちら」をどうぞ。 みなさん、よくご存じのヴェンチャアアアアズの「急がば廻れ」でございますね。 さて、これはカバーでして、では、彼らがもとにしたバージョンは実はかなり感じの違うものです。 それは、ナッシュビル・カントリーの大御所で、カントリーギターの神様、RCAレコードの重役でもあった、チェット・アトキンス。 チェットは、ロカビリーギターの直接の元祖、マール・トラビスの直属の弟子に近い人でもありました。 ヴェンチャーズは、チェットのかなり複雑なギターを単純化することによって世界ヒットにまでもっていったのです。 難しそうなものは一般受けしない、ジャズは40年代以降ほとんどヒットチャートと無関係というのがわかると思います。 チェット・アトキンス版 さて、そのチャットがオリジナルなのかというと違いまして、作曲して初めて自身で吹き込んだ人がジョニー・スミス。 ジョニー・スミス(オリジナル版) そんなジョニー自身のヒットはなにかというと、「こちら」をどうぞ。 1952年に吹き込まれたスミスの伝説的ヒット、「ムーンライト・イン・ヴァーモント」。 サックスのスタン・ゲッツと組んだこの曲のギターは、彼独特のクローズド・コードによるコードメロディを中心に展開します。一聴とギタリストにとっては簡単な曲に思えるかもしれませんが、嘘です。こんなに流麗な演奏にはなりません。以下、専門的なので割愛しますが、要するに、彼独特のコードフォームとピッキングの仕方があってはじめてこのような綺麗な仕上がりになるのですね。 まあ、これはダウンビート(当時の有名なジャズ専門誌)が選んだレコード・オブ・ザ・イヤーの第二位。 1922年生まれのスミスは2013年に90歳で亡くなりましたが、ギタリストとしての名声は伝説といえるほどで、ジャズ界のほとんどのギタリストに大きな影響力があった人です。 アラバマの生まれですが、質屋に勤めながら独学でギターをマスターし、カントリーバンドを経て、ジャズギターの世界に。そして、まったく独創的かつ革新的なギター奏法でニューヨークのクラブやスタジオで活躍し頭角を現します。 50年代全般を通して、ジャズだけでなく、クラシックギタリストとしても有名になり、どんな音楽でもこなせる人気ギタリストになるのですが、そんな人気絶頂期に突然、コロラドの実家に帰って第一線から退

ファイアー・クラッカーはその後どう軌跡を描いたか ー イエロー・マジック・オーケストラ

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わたくし、最近、DTMということをやっています。 DTMはデスクトップミュージックの略だそうで、ほぼ、パソコンだけでひとりで音楽が作れる、というもの。 これ、MIDIデータ(コンピューターで作った合成音。実際の楽器の音をもじって作られることが多いです。)がたくさん入った録音ソフト(CUBASEなど)をパソコンにインストールして楽譜のように書き込むか、外部キーボードを弾くと連動してそのまま録音できる。ひとりでバンドもできてしまいます。 パソコンとマイクやエレキをつないでアナログ信号をデジタル信号に変換するオーディオ・インターフェイスを使えば、ボーカルや実際の演奏を重ねていくこともできます。 一番安いオーディオ・インターフェイスとソフトのセットは、とうとう1万円を切っています。お手軽に、だれでもDTMで、ひとりで音楽が作れる時代になった、ということです。 さて、わたしがもともとこうした「多重録音」をして遊びだしたのは、10代のころで、当時はパソコンなんてありませんから、親父のオープンリールテープレコーダーのヘッド部分に音を重ねられるように細工をしてました。 80年代には、4万円ほどでカセット式マルチトラックレコーダーが一般に販売される時代になり、アマチュアが割合簡単にできるようになった。そのうち、20万円以上しましたが、コルグのシンセサイザーを手に入れて、相当凝ったことも始めました。 このときは、パソコンで編集をするより、コルグ本体でやってました。なんとあの、5センチ四方しかない小さい表示部で編集作業までやったのですが、今考えると頭から煙が出そう。そもそも今では老眼で、無理ですね。 そうした過去の経験から考えると、いまのDTMはとても便利で安価。すごい時代になったものです。それくらい進化したコンピューター音楽。そもそものきっかけはいつごろだったのでしょう。 中川克志著「コンピュータ音楽」(現代美術用語辞典)によると、最初のコンピュータ音楽はDTMで、クラシック音楽の世界。 1954年のことだったようです。 また初めてMIDIが可能になったのは1957年で、ベル研究所のマックス・マシューズとジョン・ピアースがプログラミング言語「Music I」を用いてコンピュータによる音響合成に成功したとあります。 さて、個人的な思い出は、1984年に飛びます。大学を卒業して最初に就職し

最も有名な「ロックンロール写真」 ー アーセル・ヒッキー

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さてさて、アーセル・ヒッキー。 誰だ、そら? 焦る引き籠もりくん? わたくしも、今まで知らなかったのですよ。 だけど、歌を聴いたことなくても、どこの誰なのか知らなくても、きっと、この1枚の写真は見たことがある。私もそのひとり。35年も前からよーく知っている写真なのに、果たして誰なのか、今まで知らなかったのです。 「ロカビリーの殿堂」によれば、この人、「ワン・ヒット・ワンダー」(いわゆる一発屋)ならぬ、「ワン・ポーズ・ワンダー」(一写屋?)として有名な方でした。もちろん、ちゃんとした音楽家で、殿堂入りもしている偉人です。 この写真は、1976年に出版されたローリング・ストーンの「イラストレイテッド・ヒストリー・オブ・ロックンロール」の扉に使用されたものです。私も出版された当時、おこずかいを貯めて、洋書を買いましたし、今でも持っています。この有名な、70年代までのロック全体の歴史を綴った歴史書の始まりを飾ったのは、エルビスではなくて、ヒッキーの写真だったわけです。 今眺めても、実にインパクトがある写真で、「50年代のロック・ファッション」の代表的なイメージ写真のひとつと言っていいのではないでしょうか。 さて、「ロカビリーの殿堂」から公認されるほど、たった1枚の写真だけで知られるアーセル・ヒッキーとは、どんな方なのでしょうか?殿堂のHPなどで調べてみました。 アーセル・ヒッキーは、1934年、ニューヨークの医師の息子として生まれたのだそうです。恵まれた家庭、というわけでしたが、アーセルがわずか4歳の時に父が亡くなり、母は神経を病んで、入院したままとなり、ホームに預けられたアーセルは、そこで育ちました。15歳のときから、ダンサーだった姉と一緒に、カーニバルなどで、旅回りをする芸人生活をしますが、その姉も交通事故で失ってしまい、叔母の家で暮らすことになります。 なんとまあ、ずいぶん苦労した人だったのですね。 1954年のあるとき、エルビスの「アイ・ドント・ケア・イフ・ザ・サン・ドント・シャイン」を聴いてロックンロールの大ファンになったヒッキーは、芸人生活で磨いた歌とギターで、地元のファイン・レコードに吹き込みをするところまで行きますが、まったく何も起こりませんでした。よくあることですよね。そんなに誰も彼も有名になれるはずもない。でも、音楽は大好きだ。若いし、リーゼントも決まっ

ドリンクアップ、アンド・ゴーホーム ー カール・パーキンス

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1956年4月、当時あったチャート(ポップ、R&B、カントリー)三部門制覇、すべてで全米トップという初の偉業を成し遂げた名曲、「ブルー・スエード・シューズ」。 ロックンロール音楽の創始者のひとり、カール・パーキンスの作り出した最初のクラシックのひとつです。 パーキンスは、1932年、テネシーの極貧農家に生まれました。 いわゆる「プア・ホワイト」家庭の出身。人種差別の激しかった当時のテネシーの片田舎で、兄弟そろって、黒人たちと一緒にコットン・ピッカーをしていました。でも、この体験が、後に南部のロカビリー、もっと後のカントリーロックを生む原点となります。 いつも、わたつみをしながら、重労働の癒しとなっていたのは、同胞である黒人たちのブルース音楽です。 カーター・ファミリー、デルモア・ブラザース、モンロウ・ブラザースといったように、ド辺鄙な田舎でバンドやるには、家族か兄弟がメンバーと相場が決まってまして、例にもれず、パーキンスの最初のバンドもずばり、「パーキンス・ブラザース」。メンバーは、電気増幅したリード・ギターと唄がカール、アコースティックのリズムギターが兄貴のジェイ、スラップのストリングベイスが弟のクレイトンという編成でした。後にロック化していったころ、クレイトンの友人で仏頂面のドラマー、W. D. ホランド(なぜかボンボン)が加入します。  「俺たちは、ジョン・リー・フッカー(黒人ブルーズギタリスト)みたいなエレクトリックなブルーズをビル・モンロー(ブルーグラスの父といわれるマンドリン奏者)風にやるのがお気に入りだったんだ。」 ある日、パーキンスはラジオで「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」のプレスリー版を耳にしたことをきっかけに、自分たちもサン・レコードのオーディションを受けることにし、早速契約。 音楽友達、ジョニー・キャッシュがコンサートの楽屋でしたヨタ話、「ダンスするときカノジョに新品の青いスエードのくつを踏まれたくないのか、へっぴり腰で踊ってる奴がいてさあ……」なんてところから生まれた自作曲「ブルー・スエード・シューズ」を吹き込みます。この曲はぐんぐん上昇気流にのり、前述のように史上初の「3冠王」に輝きました。 さらに、全国ネットテレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」出演の話が舞い込みますが、収録に向かう途中で交通事故に会い、パーキンス兄弟は大怪

アイ・ドント・ケア・イフ・ザ・サン・ドント・シャイン ー サム・フィリップス

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  今回は、ロック創世記、最大にして最強の裏方さん、サム・フィリップスのお話。 サム・フィリップスは、1950年代、メンフィスのサンレコード・オーナーで、エルビス・プレスリーを世に出したことで有名なプロデューサー。ロック音楽の歴史からは切っても切り離せない偉業を成し遂げた人々は、ミュージシャンとは限りません。近所の八百屋のおばちゃんだって、3丁目のご隠居だって、みんな大事な役割があるのだっ!と、まあ、そんなことを言うとキリがないのですが、プロデューサーといったら、あーた、ミュージシャンよりエライと古今東西決まっております。まあ、一番エライのはお客様ですが。 フィリップス自身は、ミュージシャンではありませんが、その歴史的功績は、どんな偉大なミュージシャンにもひけをとらず重要なものだったわけです。 サム・フィリップスは、1923年、アラバマで生まれました。 8人兄弟の末っ子で、高校時代は自分のバンドをドタバタやったりしていたのですが、あまりいいミュージシャンではなかったそうで、「俺・・・やっぱ、音楽ダメだわ・・もっとうまいやつたくさんおるしいー・・」といまいちな気分ですごしておりました。しかし、彼自身は、むしろ、人の才能を見抜いて、優れた連中を集めたり、統率したりすることが得意だいうことを自覚していたのです。 「やっぱ、俺の夢って、法律家になることじゃん!それで世の中をよくするんだ!」と、正義感も強かったサムくん、アタマもよく、大学の法学部に行くのが将来の希望だったのです。 しかし、そんな矢先、父が急死、フィリップスは、高校中退を余儀なくされ、金を稼ぐために、食料品店やパーラーでバイトに励む毎日。大学に行ける資金はありませんでした。 「金さえあったらなあー・・」と、思っていたサムくん、そんな気持ちをぐっとこらえ、一所懸命働く毎日。 しかし、出身家庭が黒人とともに働く小作農だったフィリップスは、父の同僚だった黒人たちが唄うブルーズ音楽に魅せられてきていて、ラジオ界で活躍したいという希望を持ち始めます。「それなら、馬鹿高い学費も必要ないんじゃないか?」と思ったのかもしれません。 そして、アラバマやナッシュビルでラジオDJの仕事についた後、メンフィス中を旅して歩くうち、ビール・ストリートに居場所を見つけるのです。そこは、街角ごとに、黒人を中心にしたストリートミュージシャンがな