ドリンクアップ、アンド・ゴーホーム ー カール・パーキンス



1956年4月、当時あったチャート(ポップ、R&B、カントリー)三部門制覇、すべてで全米トップという初の偉業を成し遂げた名曲、「ブルー・スエード・シューズ」。

ロックンロール音楽の創始者のひとり、カール・パーキンスの作り出した最初のクラシックのひとつです。


パーキンスは、1932年、テネシーの極貧農家に生まれました。 いわゆる「プア・ホワイト」家庭の出身。人種差別の激しかった当時のテネシーの片田舎で、兄弟そろって、黒人たちと一緒にコットン・ピッカーをしていました。でも、この体験が、後に南部のロカビリー、もっと後のカントリーロックを生む原点となります。


いつも、わたつみをしながら、重労働の癒しとなっていたのは、同胞である黒人たちのブルース音楽です。

カーター・ファミリー、デルモア・ブラザース、モンロウ・ブラザースといったように、ド辺鄙な田舎でバンドやるには、家族か兄弟がメンバーと相場が決まってまして、例にもれず、パーキンスの最初のバンドもずばり、「パーキンス・ブラザース」。メンバーは、電気増幅したリード・ギターと唄がカール、アコースティックのリズムギターが兄貴のジェイ、スラップのストリングベイスが弟のクレイトンという編成でした。後にロック化していったころ、クレイトンの友人で仏頂面のドラマー、W. D. ホランド(なぜかボンボン)が加入します。

 「俺たちは、ジョン・リー・フッカー(黒人ブルーズギタリスト)みたいなエレクトリックなブルーズをビル・モンロー(ブルーグラスの父といわれるマンドリン奏者)風にやるのがお気に入りだったんだ。」


ある日、パーキンスはラジオで「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」のプレスリー版を耳にしたことをきっかけに、自分たちもサン・レコードのオーディションを受けることにし、早速契約。

音楽友達、ジョニー・キャッシュがコンサートの楽屋でしたヨタ話、「ダンスするときカノジョに新品の青いスエードのくつを踏まれたくないのか、へっぴり腰で踊ってる奴がいてさあ……」なんてところから生まれた自作曲「ブルー・スエード・シューズ」を吹き込みます。この曲はぐんぐん上昇気流にのり、前述のように史上初の「3冠王」に輝きました。




さらに、全国ネットテレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」出演の話が舞い込みますが、収録に向かう途中で交通事故に会い、パーキンス兄弟は大怪我を追ってしまいました。復帰したころには、なかなかヒットを出せる余地がなく、コロンビアに移籍しますが、あまりうまくいきませんでした。


しかし、60年代、ブリティッシュ・ロックのブームが来て、風向きが変わってきます。

ビートルズの面々はみなパーキンスのファンで、「ハニードント」「エブリバディ・トライング・トゥ・マイ・ベイビー」「マッチボクス」などをとりあげ、カヴァーとしてリリースしていました。


このおかげで、ロックの開祖のひとりとして、また、埋もれた傑作の作者として、再評価されたのですが、重いアル中患者になっていたため、結局ヒットはとうとう出ずじまいとなりました。

70年代に入り、かつての同僚で今やナッシュビル・カントリー音楽界の大物になっていたジョニー・キャッシュが、助け舟を出し、パーキンスを専属ギタリストとして雇い入れます。

アルコール中毒からも脱却した彼は、成人した息子たちと家族バンドを結成、空港ラウンジで演奏したりする地元のカントリー・ミュージシャンとして活動を続けますが、いつの間にか、次世代の音楽家たちの間では半ば伝説の男になっていました。

コレクター向けのサン録音フル・ボックス・セットがやたらに売れたり、グリル・マーカスといった研究家が「真に独創的な音楽家」として評価したり、全国一般紙のボブ・グリーンまでが「伝説の男」と銘打ってコラムでとりあげたりしだしたのです。


そうこうしているうちに、80年代、BBCテレビが、「ブルー・スエード・シューズ」という特番でパーキンスをイギリスに呼びました。ゲストは、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、エリック・クラプトンなど。

このときのスタジオ収録のラストで、「俺はながい間ブルー・スエード・シューズばかりやってきたが、こんなに楽しく出来たのははじめてだ。」と男泣きする姿が多くの人々に深い感銘を与えました。 こうして一般にはあまり知られていない「伝説のミュージシャンズ・ミュージシャン」は広く知られるようになったのです。

 

また、90年代、音楽活動以外にも、「幼児虐待」「捨て子」といった社会問題に心を痛めていたパーキンスは、私財をなげうって慈善活動を始め、誠実な彼の人柄を知る世界中のミュージシャンたちから支援が寄せられました。しかし、90年代後半、体調を崩したパーキンズは喉頭ガンであることが判り、長い闘病生活に入りますが、力尽き、1998年に亡くなりました。


パーキンズは、亡くなる直前の1997年、インタビューに応えてこんなことを言っています。


「みんな(エルビス、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソン、ジョニー・キャッシュ)、サンの連中はスーパースターになったのに、おまえはブルー・スエード・シューズのあとどっかへ消えちまって、一体何をしてたんだと言われるんだ。でも、うらやましいと思ったことはホントに一度もないよ。みんな才能があって大成功して大金持ちになったけど、家族や友人を失ったりするのも見てきたんだよ。俺はマネージャーだって一度も雇ったことがない。ファンを閉め出す丘の上の豪邸もないが、俺のファンだっていう人とは気軽に会えるし、一緒に写真を撮ったり、楽しいよ。俺は、家族が一番大切だし、子供らに“いいパパ”だと言われるように全力を尽くしてきた。昔、兄弟でバンドをはじめてとてもハッピーだったし、今では子供らとバンドが出来てやっぱりハッピーだよ。俺は、あの中では一番ラッキーだったと思ってるんだ。俺は“ブルー・スエード・シューズ”のあと、“家へ帰った”んだよ。」


posted on2011年11月17日

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