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2月, 2022の投稿を表示しています

カナディアン・アイドル ー ポール・アンカ

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おはこんばんにちは、ポール安価です。 大安売りだよ、そこのおばちゃん、おばちゃんどっから来たの?え?彼方の小田原から?違うの、カナダのオタワからあ?そいつはてえへんだ、地球のうらっかわじゃござんせんか。 ポール・アンカってカナダの人だったんですね。知りませんでした。 日劇ウエスタンカーニバルな、「ダイアナ」、「君は我が運命」など、日本でも1950年代から人気があって、日本の歌手にたくさんカヴァーされましたし、1958年(昭和33年)には、来日もしています。 さらに、ソングライターとしても有名。 トム・ジョーンズの最大のヒット曲の1つ、「シーズ・ア・レイド」。 エルビス・プレスリーを含む多くの人が録音したフランク・シナトラの代表曲「マイ・ウェイ」。(シャンソンのクロード・フランソワとジャック・レヴォーの曲。アンカは英語版の歌詞の作者。) アンカとセダカは、日本では並べられて2大アイドルっぽい扱いだったと思いますが、セダカはニューヨークの、しかもブリルビルディングのエリート作曲家ですから、まったく異なる背景の人たちです。 しかしながら、アンカは、女の子たちが絶叫卒倒するイケメンのスーパーアイドルというだけに終わらず、全く素晴らしい大歌手であっただけでなく、超一流のソングライターでありました。 アンカはカナダのオンタリオ州オタワの生まれ。両親はレストランのオーナーなので、中流家庭の出身です。 彼の父はシリアのダマスカスのバブトゥマからアメリカに来て、彼の母はレバノンからの移民でした。 白人系のアイドル歌手が目立つアメリカ60年代のティーンアイドルの中では、ちょっとエキゾチックな感じの風貌ですが、中東の血筋だからでしょうか。 ちなみに、イギリスでアイドルだった、エンゲルベルト・フンパーディンクもインドの血筋の人ですね。 アンカは、レバノンのキリスト教関係者で、聖エリアス・アンティオキア正教会の聖歌隊と一緒に歌いました。 そして、フィッシャーパーク高校に通い、ボビー・ソクサーズと呼ばれるボーカルトリオの一員となりました。 まあ、こういう話、実は歌の奥には宗教的な深い意味があった、とか、そういう話になりがちですが、まったくそんな評論家が喜びそうな話はいっさいありません。アンカの場合、当初はまったくのティーンアイドル、おバカなアメリカンラブソング(ほんとはカナディアン)ばかりで、

レスリー・ゴーア ー ユー・ドント・オウン・ミー

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レスリー・ゴーアは、60年代のヒット歌手ですが、最もよく知られているヒット曲は、「イッツ・マイ・パーティ」(涙のバースデイパーティ」のタイトルで日本でもヒット)、自身が書いた「メイビー・アイ・ノウ」、そして、最初のフェミニズムソングと言われた「ユー・ドント・オウン・ミー」でしょう。 ユー・ドント・オウン・ミー レスリー・ゴーアは、1946年、ブルックリンの生まれ。運命的な出会いがあったのは、16歳のとき。人気作曲家のクインシー・ジョーンズと出会った。 パーティでばったり!とか、ゴーアが歌うステージをたまたまクインシーが見た、とか、いや、見たのは家政婦だ、とかいろいろ言われているようですが、実際は、ボーカルレッスンを受けていたとき、ピアノ奏者とスタジオにいってデモ曲を作って、クインシー・ジョーンズに送ったところ、即採用となって呼ばれた、ということらしい。なんだ、偶然とかじゃなくて、実力じゃん、ってことですよね。 しかしながら、レコーディングデビューは、ブリルビルディングのエリー・グリニッチが書いた「イッツ・マイ・パーティ」で、プロデューサーがクインシー。これが大ヒット。当初、レコードが発売になったことも知らずにラジオで流れてびっくりした、とか、なんだか、当時らしい、というか、歌手も作曲家も派遣切り的なブリル・ビルディングらしい話。 ラジオのDJが住所まで言っちゃったらしく、ある朝起きたら、庭で群衆がキャンプ状態だったとか、もう寝耳に水、ねずみにミミズ、みたいな話もあり。そんなパパラッチーパパあっちっちな毎日でも、ちゃんと学校に通い、勉強優秀だったらしい。しっかりした人だったんでしょうねえ。この勉強好きがのちのち彼女のイメージというか、活動姿勢を変えていきます。 まあ、とにかく、歌手としてもナンバー1とったら、もうこっちのもんだぜ、ってことで、ゴーアの快進撃が始まりました。 TUBE:イッツ・マイ・パーティ~ジュディ・ターンズ・トゥ・クラ イ 続いて出たのが、「イッツ・マイ・パーティ」の続編、「ジュディ・ターンズ・トゥ・クライ」でこちらも、ナンバー5という大ヒット。その後も、学校で勉強しながら歌手活動、でも大ヒット、でもアイドルというすごい活躍ぶり。「シーズ・ア・フール」、「ザッツ・ザ・ウエイ・ボーイズ・アー」、「ルック・オブ・ラブ」、「サンシャイン、ロリポップス・アン

ラ・メール~ビヨンド・ザ・シー シャルル・トレネとボビー・ダーリン

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1959年の大ヒット「ビヨンド・ザ・シー」。 ビルボードで6位、R&Bチャートでも15位、イギリスでも8位。 歌ったのは、ボビー・ダーリンで、のちに彼の波乱万丈の人生を描いた伝記映画のタイトルにもなりました。 その前にも、2つのインストゥルメンタルによるレコーディングがトップ40に入っています。 ベニー・グッドマンのバージョン(1948年)とロジャー・ウィリアムズ(1955年)です。 さて、この曲、はじめて英語の歌詞がついた歌ものとして出たのはダーリン版で、その前はインストでしたが、そもそもは歌ものでした。 ただし、フランス語で、歌詞の内容も全く異なる、海を題材にした風景画のようなものでした。ダーリン版はそれに「ビヨンド(超えて)」をつけて、海を越えていく恋心といった内容のラブソングにしてヒットしたわけです。なお、アメリカ人による歌ものの元祖はビング・クロスビーで、1953年のアルバム「ル・ビング」に収録されました。こちらは、フランス語のオリジナル歌詞版ですね。 Bing Crosy (1953) La Mer  もともとのタイトルは、ラ・メール。 フランスのシャルル・トレネが作詞作曲、1945年にローラン・ジェルボーが初めて歌い、翌年の1946年にトレネが歌って非常に有名になったとされます。 トレネは16歳のときにこの曲の元となる詩を書いたそうです。1943年、トレネがモンペリエとペルピニャンの間を鉄道に乗って旅をしていとき、南仏のトー湖の眺めが目に入り、かつて書いた詩のメロディを思い出したトレネは急いで曲をまとめたという逸話があるらしい。 フランスでは非常に有名な古典曲となり、以後、世界中の非常に多くのミュージシャンによってカバーされ続けており、エディット・ピアフの「ラ・ヴィ・アン・ローズ」と並んでフランスで最も売れた曲となっています。 Charles Trenet - La mer [Live Version]  そのほか、ジョージ・ベンソンがダーリン版をカバーしてヒット。(1985年) その後も「ビヨンド・ザ・シー」のカバーは、ロビー・ウィリアムズ(2001年)(アニメ映画『ファインディング・ニモ』のエンドクレジットで使用)、バリー・マニロウ(2006年)、ロッド・スチュワート(2010年)などなど、以後も現在までたくさんのカバーが存在します。 ちょっと変わ

恋のダウンタウン ー ペトゥラ・クラーク

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ペトゥラというステージネームは、おとうさんが名付けたんだそうです。 なんでも、自分の昔のガールフレンド2人の名前をミックスしたんだそうな。 しかし、なにこれ?的などうでもいいトリビア、英語版ウイキ多くね?なぜ? 「おひょひょひょ、おらっつがよお、むかーす好きだったおなごにンーちゃんとペちゃんがいたのよお。だっかあよう、おめえはンーペだっペ!」 とかいうのと一緒じゃねえかよ。 今回は、イギリスの、というよりヨーロッパの、60年代を代表する歌姫のひとり、ペトゥラ・クラーク。 まあ、有名ですわな、「恋のダウンタウン」。別に松本なんとかがでてきませんよ! 名作、傑作多数あれど、これまた珍しいくらい「一発で覚えちゃえる強烈曲」だと思います。よく出来てる。 ンーペ、じゃなくて、ペトゥラは9歳のとき、偶然、ラジオ、映画、テレビに出演した、という、え?なんでなんで?ウッソー!みたいな話からスタートします。 1942年といいますから、戦時中。イギリスといえば、空爆でロンドン壊滅という、すさまじい状態にあったわけですね。 おとうさんと一緒にBBCラジオ番組に参加しているときに、海外駐在の叔父にメッセージを送ろうとしたところ、空襲で放送が遅れた。ナチスによる爆撃の間、プロデューサーが、 「あーっ!やべえ!みんなをリラックスさせなくちゃ!おらじゃあだめだすい、だ、だれかたしけてけれえ!」 って叫んだところ、ガキのくせして、ペトゥラちゃん、「マイティ・ラック・ア・ローズ」を歌い、これが大うけ。よーしっってんで、軍隊を励ますパフォーマンスをするため、その後、なんと約500回も出演することに。やー、世の中、特に、戦時中ですからね、なにが起こるかわからない。 で、この人、映画やラジオの子役となるのですが、同業仲間にいたのがジュリー・アンドリュース。 「サウンド・オブ・ミュージック」や「メリー・ポピンズ」の人ね。  やがて、彼女は「イギリスのシャーリーテンプル」としても知られるようになります。 アメリカと同じように、イギリス陸軍でマスコットになった。ある意味、戦時を支えた女性だった。 1946年、終戦を迎えると、ペトゥラはBBCのバラエティ番組に出演してテレビでも活躍。自分の番組をもって(まだ14歳)、1950年までホストを務めています。 1947年にペトゥラはポリゴンレコードへ吹き込みを開始。19

ポップ音楽の大作曲家 ー チャールズ・チャップリン

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子供のころ、よく日比谷の映画館に映画を観にいってました。小学生のころは母か父と一緒です。 当時、チャーリー・チャップリンの回顧上映シリーズがあって、全部観ました。残らず全部です。 で、あまりに好きだったので、ビデオを買いました!わけないですね、当時はそんなものありません。パンフレット、全部集めました。 ロードショーとかスクリーン(当時の映画専門誌。スクリーンはちょっぴりエッチで大好きだった)の切り抜き集でも飽き足らない。 で、買ってもらったのが、チャーリー・チャップリン映画音楽集2枚組。フランスのミシェル・ヴィラール・オーケストラによるチャップリン作品の映画音楽演奏大全集。 タイトルを、VIVA CHAPLINといいます。まだ持ってます、というより、これはわたしの子供時代からの音楽のバイブル。ついでに久々にLPを開いてみたらスクリーン誌の楽譜の切り抜き(ライムライトのテーマ)が出てきた。なんかもう、自分で勝手に感無量です。 こんなに素晴らしいレコードはありません。毎日、そらでオケの全部のパートをハミングできるくらい、聴きまくっていました。 このときから、今日まで、チャップリンは史上最大のポップス作曲家のひとりだと信じています。実際、たくさんの有名歌手がチャップリンが自ら作曲したテーマ曲をヒットチャートに送り込んでいます。 改めて簡単にご紹介しますと、喜劇王チャーリー・チャップリンは、本名、チャールズ・スペンサー・チャップリン。イギリス人です。生まれたのは、1889年ですから、のちに「独裁者」でチャップリンがコケにしてみせたアドルフ・ヒトラーとは同い年。 ちなみに、わが国の知名度高い有名人は、石橋征二郎。(ブリジストンタイヤの創業者)、作家の夢野久作などがいます。 ちょっと意外だったのは、ハッブル望遠鏡で有名な天文学者エドウィン・ハッブル。まあ、ずいぶん古い人ですね。 チャップリンがなくなったのは、1977年なんで、88歳と長命でした。 サイレント映画時代に名声を博しましたが、あの有名な浮浪者キャラ、山高帽に大きなドタ靴、ちょび髭にステッキという、今ではアイコンになっているキャラクターの元祖です。 映画史の中で最も重要な人物のひとりであって、サイレントからトーキーに至る時代に今でも受け継がれる物語映画の基盤を作ったといわれています。とくに、自伝的要素や社会的及び政治的

グッド・ロッキン・トゥナイト ~ ロイ・ブラウン

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ロイ・ブラウン。 80年代にリリースされたスウェーデンのLPではじめて耳にし、こりゃあすげえわとたまげてから、もう40年もたってしまいました。 エルビスで有名な「グッド・ロッキン・トゥナイト」は、オリジナルが黒人R&B歌手のロイ・ブラウンで、1947年にブラウン本人によって書かれました。歌い方もそっくりで(というより、エルビスはブラウンの、非常にゴスペルっぽい歌い方に大きな影響を受けている)、どんな人でも、必ず、誰かの影響から何かを生み出すものだとわかります。 そのブラウンは、ほとんど、顧みられることがないまま、1981年にわずか55歳で亡くなっています。 ロイ・ブラウンは、リズム&ブルース、特に、40年代のビッグバンド全盛期に、ビッグバンド・サウンドに負けずに歌える大声のブルース・シャウターとして活躍した人物です。ブラウンは、同業で、大人気歌手だったワイノニー・ハリスにこの曲を歌ってもらいたくて書いたそうですが、本人に断られたため、セシル・ギャントに持ち込み、ブラウンが歌うのを聴いたギャントがブラウン本人のレコーディングで発売することにして、これはデラックスレコードからリリースされました。 皮肉なことに、このレコードを聴いたハリスは、いたく気に入り、最初断ったくせに、自分でカヴァーすることにしました。わー、ご都合主義だー、ハリスの野郎。。。ってすごい人なんですけどね。 ワイノニー・ハリス版は、ブラウン版より更にいかがわしさ満載の出来映え。これが大ヒットを記録します。(ブラウン版がR&Bチャートの13位、ハリス版は1位)。1948年のことでありました。 ワイノニーはよく歌詞を忘れることで有名で、ラスト近く、忘れたところをhoy,hoy,hoyって歌ってます。エルビスはどうだったかな?あとで聴いてみてください。 この曲は、さすがナンバー1になっただけあって、当時のワイルドな黒人音楽の代表曲のひとつとなり、たくさんのアーティストにカヴァーされました。 この曲の「ロッキン」は、スラングで、セックスの比喩であることがよくわかる完全な例として有名でもあります。これを露骨にやった最初の白人、エルビスは、たいへんな勇気がいったことでしょう。なにしろ、お堅いことで有名なアイゼンハワー時代のアメリカですからね。 エルビスがカヴァーしたのは、1954年のことで、まだサンレコードに在籍し

ダウン・ヤンダー ~ スマイリー・ルイス

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スマイリー・ルイス(オヴァートン・エイモス・レモンズ)は、40年代から50年代にかけて活躍した野太い声のブルーズ・シャウターで、そのバイタリティと暖かみのある、おおらかな歌声は、スマイリーというステージネームそのままの明るさに満ちたものでした。 「ルイスは、ニュー・オルリンズで最も不運な男だった。彼は1952年に出たスローなブルース曲、「ベルズ・アー・リンギング」で、小さなコンボをバックに歌って名声を得たが、同じようなスタイルだった後続のファッツ・ドミノの大成功の影に隠れてしまい、大きな成功とは生涯無縁になってしまった。」と、後年、ジャーナリストのトニー・ラッセルが記しています。 ルイスは、ルイジアナ州のレイクチャールズ近くにあるデクインシーという小さな町で、3人兄弟の2番目として生まれました。母のリリー・メイは、彼がまだ小さいときに亡くっていますが、後年、ルイスは母のことを歌った「リリー・メイ」という歌を残しています。10代のとき、友達と機関車に乗っては加速する前に飛び降りる遊びをしていたルイスは、降り損ねて、そのままニュー・オーリンズまで行ってしまったのだそうです。そのとき、たまたま乗り合わせたアイリッシュ系の家族に気に入られたルイスは、その家族の姓をそのままステージネームにし、前歯がないことから付けられたニックネーム「スマイリング」と組み合わせて、スマイリング・ルイスと名乗るようになります。その後、家族とともにニュー・オーリンズに引っ越した彼は、ギターの腕前を活かして、フレンチ・クオーターにある様々なバーを回り、チップを稼ぐ生活を始めました。 "LILLIE MAE" (SMILEY LEWIS) 1938年、結婚したルイスは、奥さんの実家で暮らし、子供が生まれてからは、飲み屋街に引っ越して、日雇い仕事をしながら、夜はバーでギターを弾き、歌うようになります。第二次世界大戦が始まると、ルイスは兵役に就き、従軍慰安のためのバンドに参加する傍ら、ブーギウーギ・クラブのハウスバンドのメンバーとして活動。終戦後は、そのまま、フレンチ・クオーターのバーボン・ストリートで演奏する生活を続けました。 1947年、デラックス・レコードに招かれたルイスは、ローカル・ヒットを出しますが、デイブ・バーソロミューの誘いでインペリアル・レコードと契約。ここから、195

キング・オブ・ニュー・オーリンズ・ピアノ ~ ヒューイ”ピアノ”スミス

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1950年代のニュー・オーリンズ音楽の一番おいしいところを一手に魅せてくれるのが、ヒューイ”ピアノ”スミス&ザ・クラウンズ。 彼らの2大レコードは、お笑いビョーキネタソングの「ロッキン・ニューモニア・アンド・ザ・ブギウギ・フルー(ロッキン肺炎とブギウギ風邪)」(1957年)、同じくビョーキネタの「ハイ・ブラッド・プレッシャー」(高血圧)と両面ヒットになった「ドント・ユー・ジャスト・ノウ・イット」(1958年)。どちらも、立派なミリオンセラーで、ゴールド・ディスクになっています。 ピアノ・スミスの演奏スタイルは、当時大変な影響力を持ち、ロックの形成にも大きな役割を果たしたと言われています。それは、ピート・ジョンスン、ミードラクス・ルイスといった古いブギウギとジェリー・ロール・モートンのジャズなどを基にし、そこにニュー・オーリンズR&B特有のセカンドライン・ビートを効かせたスタイルの先駆者であるプロフェサー・ロングヘアのスタイルを踏襲したものでした。 1934年、ニュー・オーリンズ生まれのヒューイ”ピアノ”スミスが最初に歌を書いたのは、8歳のときで、15歳のときには、ギターのエディ・ジョーンズ(後のギター・スリム)と組んで、ライブ活動をして有名になりました。1952年、18歳でサヴォイ・レコードと契約。53年には、後のニュー・オーリンズ・ファンクの始祖のひとり、アール・キングとも吹き込みをしています。 1955年、スミスは21歳で、スペシャルティ・レコードの新進スター、リトル・リチャードの最初のピアニストになりました。また、同年、ロイド・プライスをはじめ、ニューオーリンズきってのR&Bチャートで大ヒットしたアーティストたちのレコーディング・セッションに参加、特に「ゾーズ・ロンリー・ロンリー・ナイツ」(アール・キング)、「アイ・ヒア・ユー・ノッキング」(スマイリー・ルイス)は、ヒットになりました。 そして、1957年、ついに、女声ボーカルそっくりに歌う風変わりな男性ボーカリスト、ボビー・マーチャンと組んで、自身のグループ、「ヒューイ・ピアノ・スミス&ザ・クラウンズ」を結成。スペシャルティ・レコードのプロデューサー、ジョニー・ヴィンセントのエイス・レコードと契約し、「ロッキン・ニューモニア~」をはじめ、馬鹿馬鹿しくも楽しげな、50年代ニュー・オーリンズを代表する傑作を次々に

ザ・ファット・マン – ファッツ・ドミノ

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「ワーワーワー♪ みんなが呼ぶのさあ~、オレのこと~を~♪、デブ、デブ、デブ~、おデーブく~ん♪」 1951年の名作「ザ・ファット・マン」を聴き、「くっそー!あんなに格好いいミュージシャンになれるならデブになりたい!」などとわけのわからないことを思ったこともあるオイラです。 さて、T木ブーさんの昔から、今やテレビタレント好感度ナンバー1のI塚さんまで、デブキャラ、日本にもいろいろな方がいらっしゃるようですが、50年代アメリカを石鹸、もとへ、席捲したデブキャラといえば、この人、ファッツ・ドミノ。 まあ、キンキラ衣装にアクセごてごてのアメリカン・デブオヤジですが、その実力たるや世界5本の指に入るほどのすごさ。いや、体重の話じゃありません。 ギネスブックのゴールドレコード獲得数で常時3位を誇るアーティストこそ、ファッツ・ドミノ。これより上は、エルヴィス・プレスリーとビートルズだけ。 (注:2010年の記事です。) エルヴィスのようにセクシーでもなく、ジェリー・リー・ルイスほどワイルドでもなく、初期のビートルズのようにアイドル的だったわけでもなく、リトル・リチャードのようにアグレッシブだったわけでもなければ、チャック・ベリーのように、10代向けのソングライターでもなかった。そんな「木訥とした、昔ながらのニューオルリンズソングとサウンドの後継者」とでも言うべきふとっちょのおっさんがなぜ、こんなにも売れ、しかも、伝説となっているのでしょう。 ひとつだけはっきりしているのは、「当時のニューオルリンズサウンドは、最高だった」ということです。ドミノに限らず最高のサウンドだった。そこには、アフリカやカリブやフランスなど、様々な異文化の交わる融合地点であるニューオルリンズではぐくまれた、伝統ある独特の混血文化が背景にありました。 そして、素晴らしい腕前のミュージシャン(ピアニスト兼歌手)として、めきめき頭角を現し、20世紀後半のニューオルリンズを代表する、たくさんの曲を書いたのが、ファッツ・ドミノと、アレンジャーだったデイブ・バーソロミューのコンビだったのだ、ということではないかと思います。 さてさて、1928年、ニューオルリンズ生まれの「オデブ」こと、アントワーヌ・ドミニーク・ドミノ、育ったのがなにしろ街中に年がら年中生演奏が流れているようなジャズの街、ニューオルリンズです。従兄弟にプ

ディス・イズ・ニューオーリンズ・サウンド - コジモ・マタッサとデイブ・バーソロミュー

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実は、つい先ごろ、コジモ・マタッサの訃報が入ってきました。88歳だったそうな。 これはていへんだ、ってんで、今回は、全盛期のニューオーリンズサウンドを支えた屋台骨の方々のお話を。 (注:2011年の記事です。) さて、今回のお話の舞台は、ルイジアナ州、ニュー・オーリンズ。わかるかい、そこのおとうさん!げえこくのアメイリカアのでっかい街だ。ね?そこに、むかしむかしの1945年、シチリア系イタリア人のコジモ・マタッサという、歳のころは、18歳のおにいちゃんがいたんだと。え?小島又三郎?え?ばあさんの従兄弟? 違う違う!又三郎じゃねえよマタッサ!ま、た、っ、さ、だよ、またっさ!まさった、じゃねえってば!ババアは耳が遠くていけねえや!ね、なにがおかしいそこのあんちゃん! この又三郎ならぬまたっさが、フレンチ・クオーターなる小粋な街角にあったおとっつぁんが経営するお店の裏で「レコージング・スタジオ」なんてもっと小粋なもんを作っちまったからさあ、ていへんだ!!おまけに、このあんちゃん、日本のクレイジーケン似のいい男ときたもんだ。 とまあ、寅さん節はつかれるのでこの辺で元に戻してと。え?なにがてえへんかって? スターは舞台の最前線で活躍しますが、それを支える裏方さんの功績なくしてヒット曲などあり得ない、っていう話。 ちょうど、同じ時期、同じ場所で、デイブ・バーソロミューという、マタッサより少し年上の黒人青年が、ディキシージャズバンドでチューバを吹いていましたが、トランペットをメイン楽器に変更し、アルヴィン"レッド"タイラー(サックス)、アール・パーマー(ドラムズ)、リー・アレン(サックス)らと新しいバンドを結成しました。 そして、バーソロミューのバンドがマタッサのスタジオでレコーディングを始めたとき、ニューオーリンズの「新しい伝説」がスタートします。 FATS DOMINO & DAVE BARTHOLOMEW IN 2014 バーソロミューは、1947年、デラックス・レコードでレコーディングを経験しましたが、運悪く、会社は倒産してしまい殆ど話題にはならずに終わってしまいます。そして、1949年に彼はルー・チャッドのインペリアル・レコードの下で、編曲家、バンドリーダー、およびタレント・スカウトとして活動するようになり、やがてインペリアルのレコーディング

アワッババルーバッバロッバンブーン! ~ リトル・リチャード

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「あわっばばるーわっばわっパット・ブーン!」 違う!!間違った! 「あわっばばるーばっばろっばんぶーんっ!」 1955年、ジョージア州メイコンで、父を殺され、家族を養うためにひたすら皿洗いしていた貧しいクリスチャンの黒人青年が、ニューオルリンズのバーにあるピアノの前で即興で歌った、「ワッババルーバッバロッバンブーン!」。 この意味不明のシャウトで始まる「トゥティ・フルティ」が、以後の世界の音楽史を塗り替えました。 75歳の現在も現役でシャウトする「キング・オブ・ロックンロール」、リチャード・ペニマン牧師。 ステージネームは「リトル・リチャード」です。 (注:2011年の記事です。その後、2020年5月87歳で没。) 1955年、リトル・リチャードがスペシャルティ・レコードの45回転盤「トゥティ・フルティ」の冒頭でこれを叫び、がんがんはずむピアノと狂ったような金切り声のヴォーカルになだれ込んでいったとき、リズム&ブルーズとポップ音楽の間の壁に修復不可能な大穴があき、それがロックンロールという一大潮流となって後続の音楽シーンを塗り替えていきました。 1932年、ジョージア州メイコン生まれのリチャード・ウエイン・ペニマンは、12人兄弟のひとりで、父は煉瓦職人であり、ブートレガー(密造酒業者)、おまけにジューク・ジョイントを経営する商売人でもありました。しかし、それにも関わらず、一家は大変熱心なクリスチャンで、祖父と叔父は説教師という家庭。ペニマン兄弟は、ゴスペル・グループを結成しており、以後、彼の人生は常に教会と切り離せないものになるのです。 リチャードは、メイコン市の公会堂でアルバイトを見つけ、そこに公演にやってくる、リズム&ブルーズとゴスペルの有名アーティストをたくさん観るチャンスを得ました。 そこで観た、シスター・ロゼッタ・サープ、ルース・ブラウン、マヘリア・ジャクスンといった女性シンガーに多大な影響を受けます。また、ピアニストのエスケリータから、ホーンセクションを向こうに廻してもガンガン鳴り響くピアノスタイルを教えてもらいます。 しかし、彼は自由奔放な子供で、いつも同じ日常生活に嫌気がさしていたうえ、同性愛者だったので、父とうまくいかず、14歳で、メディシンショウの一座に養子に出されます。そして、15歳でミンストレルショウの初舞台を踏んだとき以来、リチャード・ペニ

20世紀最大の女性歌手 ~ デイム・シャーリー・バッシー

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みなさん、こんばんは。オールドフィンガーです。年を取ると指さばきも鈍くなって、もうわしゃダメじゃ、じゃなくて、今日は、ジェームズ凡人さんが見えましてね。近所の焼き鳥屋でいっぱいやってきたとこですわ、なわけないすね。 ところで、1964年のジェームズ・ボンド映画「ゴールド・フィンガー」。覚えてますか?つか、知ってますか? 映画そのものは、かなりばかばかしい劇画風になってきたころのだぶるおーせぶんもの。いわゆるひとつの、ボンドくんじゃござんせーんか映画の1つ。わたくし、ガキのくせして映画館で観ております。もちろん、小学生で、再上映のときですね。悪役のひとりの殺人執事が山高帽を投げるとなぜか木が切れたり人の首がとんだりするのが面白くて思わず笑ってしまいました。子供が失笑するようなことをイギリス人は映画で作るんだなあ、とか思ったり。 まあ、それはとにかく、主題歌がなんといってもかっこよかった。これはもう、強烈に覚えております。エロい!としかいいようがなくて、子供のころは親に知られないようにしなくちゃ、とか変に気を回したりする歌だった気がします。 別にあえぎ声とかはいってないですよ!雰囲気がエロかったのかなあ、特に声が。 この主題歌、やはり、大ヒットしまして、世界ヒットになりました。歌ったのが、シャーリー・バッシー。 まずは、2011年に収録されたこの動画から。驚くことに、74歳のときの映像です。 世界ヒットは、これだけなので、理屈でいえば、この人もやまほどいる「ワン・ヒット・ワンダー」(一発屋)。日本でも70年代に流行ったきりなので、そう思っている方が多いかもしれませんが、実は、「欧州で最も売れた史上最高の女性歌手」です。 1937年生まれなので、今年で84歳になりますが、まだ健在。つい昨年、ラストアルバムといわれる「I Owe It All To You」をリリースして、世界中のファンを感動させました。 よく言われるとおり、「20世紀後半最大の女性歌手」、それがシャーリー・バッシーです。 50年代は、バーやクラブから、テレビ、そしてレコードデビューという、下積みから徐々にあがっていく苦労を重ねて実力をつけていったようです。でも、かなり早いデビューですね。まだ19歳でレコードデビューですから。 子供のころから、持ち前の強力なビッグ・ヴォイスでクラスメートを圧倒していたそうで

レース・ウイズ・ザ・デヴィル ー ジーン・ヴィンセント

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ウエーーーーーーーーーーーール・・・ビーバッパルーラ♪シーズマイベイベェ~♪ 目玉ひんむいて真似してみても、具合が悪いサラリーマンにしか見えないオヤジ、サンチャゴです。 みなさんも一度くらいはくちずさんだことがあるに違いないこの唄、我が国でも、有名な50年代ロックソングの古典、「ビー・バップ・ア・ルーラ」。 ブラック・レザー・レベル(黒の革ジャンのツナギ、ワークブーツの不良スタイル)をロックンロールのイメージとして定着させた張本人、ジーン・ヴィンセントが、57年に唄ったこの曲は、ロカビリー音楽を代表する楽曲のひとつとして、すっかり世界中に定着しています。 1935年、ヴァージニア州ノーフォーク生まれの、ヴィンセント・ユージーン・クラドックこと、ジーン・ヴィンセントは、ラジオから流れるカントリー&ウエスタン、リズム&ブルーズなどを聴いて育ちました。 父は、片田舎で小さな雑貨店を経営していましたが、うまくいかず、生活するのが精一杯という家庭だったようです。楽器買ってもらうなんてとんでもない、っていう極貧家庭。 そんなある日、12歳だったヴィンセントは、友人からギターを譲り受けます。 この友人が、「ねえちゃんがギター鳴らしてうるさいから、このギター預かってくれよう。」と言ったとか言わないとか。 この姉思いじゃない身勝手な友達の思いつきのおかげで、ギターを覚えたヴィンセントは、好きなブルーズやカントリーを弾き語りするのが大のお気に入りになったのです。 しかし、ヴィンセントの本当の夢は、第二次世界大戦中、ボランティアで湾岸警備隊員をしていた父の栄光を継いで、海兵になることでした。きっと、誇り高い、素晴らしいお父さんだったのでしょう。 「おいどんは、海の男として、死ぬまで、がんばっていくですたい!!」 となぜか鹿児島弁で言ったわけないヴィンセントですが、1952年、17歳のとき、とうとう、高校を中退し、海軍に志願します。そして、ボイラー係として全商船に乗り込み、ポパイのように、一生海兵隊の一員として生きていく覚悟だったのです。 1955年には当時の朝鮮戦争に参加、朝鮮(今の韓国)に滞在しますが、戦線にたつことはなく、無事に故郷のノーフォークに戻ってきたのですが、その直後、思わぬ不運が襲いました。 戦線近くでは、軍人として、運良く無事に過ごせていたのに、故郷に帰ったとたん、大事故

ザ・デイ・ザ・ミュージック・ダイド ~ バディ・ホリー

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こんにちは。バディ・堀井です。 エルビスのように、セクシーでもなく、パーキンズのように、泥臭くもなく、フェビアンのようなカワイイアイドルでもなく、ジェリー・リー・ルイスのようにイカれてもいない、黒縁眼鏡とスーツがトレードマークの、スマートでにこやかなノッポさん、チャールズ・ハーディン・ホリーこと、バディ・ホリーは、1936年生まれ。 1959年にわずか22歳で亡くなるまでの間、表立って活躍したのはわずか1年半に過ぎないのですが、ロック史で最も影響力のあったアーティストのひとりとして記憶されています。 その影響は、特にビートルズ、ローリング・ストーンズに顕著ですが、そもそも、バディ・ホリー&クリケッツは、エレキギター2本とベース、ドラムズという編成をロック・バンドのスタンダードにした、元祖でもあるのです。 そうした、歴史的な影響力の大きさから、2004年にローリング・ストーン・マガジンが選んだ、「最も偉大な100人のアーティスト」で13位に選ばれています。 ホリーが生まれたのは、テキサス州ラボックで、地理的位置から考えると、ホリーが主に聴いていたのは、カントリー、リズム&ブルーズ(テキサス・ジャンプ)、テックス・メックスだっただろうと言われています。 民族系音楽の非常に豊かな土地柄であり、ラジオから流れ出る白人、黒人、ラテンといった多種の音楽、混血音楽は、徐々に、彼自身の中でさらにミックスされて、後に特徴的なバディ・ホリー・サウンドを生み出すもとになるのです。 そんなわけで、音楽一家だったホリー家で、バディくんは、ピアノ、ギター、フィドルを習いましたが、まだガキンチョのくせにすでに地元のラジオ局で自分の番組を持っていたという天才ぶり。そして、1949年、中学時代に、ボブ・モンゴメリという男とばったり出会います。 「おっ!いいね!おまえさん!」「なんだい!おまえさんこそ!このイカす眼鏡男!」「いや、うふん、ばかーん」なんてキモいやりとりが男同士であったかどうか知りませんが、とにかく、好きな音楽で気があったふたりは、ブルーグラスっぽいデュオ、バディ&ボブとして、地元のクラブや高校のタレントショーなどで活動を開始。 ところが、1955年初頭、地元ラボックにやってきた、当時としては風変わりな歌手、エルビス・プレスリーを見て大ショック!「うわー!かっけーー!僕らもこんなのをやろ

サマータイム・ブルース - エディー・コクラン

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こんにちは、エディー・小倉です。 さて、1938年ミネソタ生まれのレイ・エドワード・コクランことエディー・コクランは、ごく一般的な家庭の出身で、12歳のときにスクールバンド(いわゆるブラバンね)でドラムスをたたくのが夢でした。 しかし、学校バンドではよくあること、なぜかトロンボーン担当になってしまいます。 「えーっ・・ま、いっか・・仕方ない」と、ボントロを始めるのですが、今度は、ブラバンの先生が、「君はボントロに向いてないねえ・・クラリネットにしなよ。」と言ったとか言わないとか。「気まぐれでモノを言うんじゃねえ!先公!」なんて、怒るのがロックンローラーっぽいのですが、当のコクランは「クラリネットって何?」っていう始末。 「オレのおお!イカすドラマーの夢はどうなったんだああああ!」と叫んだかどうか知りませんが、うまくいかずに興味を失いつつあった青春のある日、兄貴のビルからケイ製のチープなギターを借りて興味を持ちます。そして、「ギターコードブック」を見ながら、コードを覚えて弾くのが日課、という、まるで今の日本の中学生と全然変わらない生活を送っていました。 ジュニア・ハイスクール時代の1951年、コクランは、別の中学校バンドでウッドべースを弾いていた仲間、コニー・スミスと出会います。そして意気投合した二人は、53年に、ギター2本とベースによるトリオを結成、アマチュアとして、あちこちのスーパーやパーティなどで演奏して、日銭を稼ぐようになるのです。 「なんか、オレ、才能あるかも・・かっけーかも・・モテっかも・・」と思ったかどうかわかりませんが、ハイスクール進学後も、ギターばかりいじって、様々なギグに顔を出し、「高校なんか辞めてプロのミュージシャンになりたい。」という淡い夢を抱くようになったコクランくん。 当時の彼のお気に入りは、チェット・アトキンズ、ジョー・メイフィス(ともに、カントリー&ウエスタンのギタリスト)とジョニー・スミス(ジャズ・ギタリスト)などで、常人には演奏不可能に思える有名なメイフィスの早弾きなども、完璧コピーでこなしていた。 コクランは、ロカビリー・シンガーというイメージがありますが、もともとは、今でもよくいる「ギター小僧」だったわけです。 1954年、とある、セミプロのウエスタンバンドを見にいった、コクランは、清水の舞台から飛び降りるつもりで、「メンバーに

ハードロックギターの発明者 ~ リンク・レイ

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さて、ロック音楽が好きなら、知らない人がいない、ジミー・ヘンドリックス、ジミー・ペイジ、ザ・フー、レッド・ツェッペリンなどなど、ハードロックの有名バンドやギタリストたち。 彼らが有名にし、今では、すっかり当たり前になってしまったディストーションの効いた爆音エレキギター。あれは、誰が始めたのでしょう? どこにでもいそうなサラリーマン風のスーツに帽子のお父さんが、音楽スタジオに行くと、「ギョワアアアアアンンンン!グイーンンン!!!」なんてエレキで爆音出しながら、芋虫みたいに身をよじらせて弾いているギター小僧がいました。にこにこと微笑みながら、お父さんは、休憩中のギター小僧に近づきます。 お父さん「ねえ、坊や、どこでそんなこと覚えたんだい?」 ギター小僧「今流行っているロックバンドでこうやってるんだ。どうやるのかギターマガジンの記事に出てたから、同じようにやってるのさ!」 お父さん「そのロックバンドって、もしかして、レッド・ツェッペリン?」 ギター小僧「ちげーよ!!そんなジジイバンドじゃねえよ!」 お父さん「ツェッペリンがジジイなら、ジミヘンはどうなっちゃうんだ?ザ・フーは?」 ギター小僧「なにそれ?化石かなんか?」 お父さん「化石か・・。ようし!じゃあ、これはどうなんだあああああああああああああああ!!」 お父さんがスーパーマンのようにスーツを脱ぐと、下から現れたのは、黒の革ジャン、帽子をとると、ヅラのようなリーゼント!大昔のロックンローラーそのものです! そして懐からドラえもんのように取り出したのは、めっさ古くて安―い50年代のダンエレクトロ・ギターリン!(当時のメンズ雑誌に出てる通販用ギター。) お父さんがそのギターをアンプにつないで狂ったように弾き出すと、「ドギャアアアアアンン!!!!!!ギュイイイインンン!!!ブワオオオオオンン!!!」 「か、かっけぇ・・・」ギター小僧は、目を丸くして卒倒していまいました。 お父さんの正体は、実は、「ハードロック・ギターの発明者」リンク・レイだったのです!! と、まあ、ずいぶんくだらない空想で始まりましたが、リンク・レイは、1958年にリンク・レイ&レイメン名義で出したシングル、「ランブル」たった1枚で、ロック・ギターの歴史を塗り替えてしまいました。 1958年といったら、あーた、まだ、バディ・ホリーが生きてた時代、レッド・ツェ

1950年代のレッド・ツェッペリン ~ ジョニー・バーネット・トリオ

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  ジョニー・バーネットといえば、なんといっても知名度を上げたのは、大ヒット曲「ドリーミン」(1960年 11位)「ユーアー・シックスティーン」(1960年 8位)で、甘いティーンポップ歌手として知られてますね。 ところが、昔、なにかの雑誌で「ジョニー・バーネット・トリオ~50年代のレッド・ツェッペリン」と紹介されていたので、お?こらなんだべ?とあわててLPを買って聴いたのですよ。30年も前ですが。 まあ、「ロッカビリー・ブギ」とか「トレイン・ケプト・ア・ローリン」とか、ざっと聴くと、エルビスっぽい、シンプルなロカビリーなんですが、なんか変。ギターが特に変なんだよなー。このギターのポール・バリソンが曲者、という話。 Johnny Burnette - RockaBilly Boogie さて、ざっと時の流れを追ってみると、まずは、ジョニーとドーシーというバーネット兄弟がおったそうな。1932年と1934年の生まれらしい。 で、彼らはボクシングとかやっているバリバリのスポーツマンだったのだけど、音楽も大好きでバンドを始めたわけですな。そこにドーシーのボクサー中間のポール・バリソンが加わって、トリオで演奏することになった。 なんだか要するに、全員ボクサーじゃん。具志堅だの亀田だのが寄ってたかってロックバンド作ったようなものか。うわ、こわそー。強そうだし、「へたくそ!」とか言ったら殺されそうな気がする。 結成当初の音を聴くと、バリバリのウエスタン(Go Mule Goなど)。ドーシーがもともとスティールギターだったこともあるのかもしれないけど、技術的には決して完成されてないけど50年代前半のカントリーの香りがする味のある演奏です。 まあ、しかし、ぜーんぜん売れなかった。別の仕事みつけてやっとこやっとこ働きながらライブハウスで演奏、なんて生活をしていたバーネットトリオですが、エルビスとひょんなことで知り合いになり、サンレコードに売り込むと撃沈。 たぶん、これがのちのちまでトリオが歴史に取り残された一番の原因でしょう。サム・フィリップスにはねられたというのは相当キツい。 で、こんな南部の田舎にいらんねえっ!おらにゅーよーぐざいぐだ!と勇んで大都会へ。ここでもまた、やっとこやっとこ仕事探し。バイトル、とかリクルートなんとかなんてないでしょうからあ、新聞広告でも探したんでしょうか