ダウン・ヤンダー ~ スマイリー・ルイス



スマイリー・ルイス(オヴァートン・エイモス・レモンズ)は、40年代から50年代にかけて活躍した野太い声のブルーズ・シャウターで、そのバイタリティと暖かみのある、おおらかな歌声は、スマイリーというステージネームそのままの明るさに満ちたものでした。


「ルイスは、ニュー・オルリンズで最も不運な男だった。彼は1952年に出たスローなブルース曲、「ベルズ・アー・リンギング」で、小さなコンボをバックに歌って名声を得たが、同じようなスタイルだった後続のファッツ・ドミノの大成功の影に隠れてしまい、大きな成功とは生涯無縁になってしまった。」と、後年、ジャーナリストのトニー・ラッセルが記しています。


ルイスは、ルイジアナ州のレイクチャールズ近くにあるデクインシーという小さな町で、3人兄弟の2番目として生まれました。母のリリー・メイは、彼がまだ小さいときに亡くっていますが、後年、ルイスは母のことを歌った「リリー・メイ」という歌を残しています。10代のとき、友達と機関車に乗っては加速する前に飛び降りる遊びをしていたルイスは、降り損ねて、そのままニュー・オーリンズまで行ってしまったのだそうです。そのとき、たまたま乗り合わせたアイリッシュ系の家族に気に入られたルイスは、その家族の姓をそのままステージネームにし、前歯がないことから付けられたニックネーム「スマイリング」と組み合わせて、スマイリング・ルイスと名乗るようになります。その後、家族とともにニュー・オーリンズに引っ越した彼は、ギターの腕前を活かして、フレンチ・クオーターにある様々なバーを回り、チップを稼ぐ生活を始めました。


"LILLIE MAE" (SMILEY LEWIS)




1938年、結婚したルイスは、奥さんの実家で暮らし、子供が生まれてからは、飲み屋街に引っ越して、日雇い仕事をしながら、夜はバーでギターを弾き、歌うようになります。第二次世界大戦が始まると、ルイスは兵役に就き、従軍慰安のためのバンドに参加する傍ら、ブーギウーギ・クラブのハウスバンドのメンバーとして活動。終戦後は、そのまま、フレンチ・クオーターのバーボン・ストリートで演奏する生活を続けました。

1947年、デラックス・レコードに招かれたルイスは、ローカル・ヒットを出しますが、デイブ・バーソロミューの誘いでインペリアル・レコードと契約。ここから、1952年に出た「ザ・ベルズ・アー・リンギング」がとうとうR&Bチャートでヒット。1954年には、後にファッツ・ドミノのヴァージョンで有名になる「ブルー・マンデイ」(作者はバーソロミュー)のオリジナルを吹き込み、翌1955年には、ヒューイ・ピアノ・スミスのピアノをフィーチャーした「アイ・ヒア・ユー・ノッキング」をリリース、R&Bチャートでヒットを記録しました。


"I HEAR YOU KNOCKIN'" (SMILEY LEWIS)




その後、インペリアルの社長、ルー・チャッドの提案で、ロックンロール・ブームに便乗したポップソング路線で行こうということになりましたが、結局、うまくいかず、60年代に入ってからは、リー・ドーシー、アーマ・トーマスといった新しい時代のアーティストたちの前座を務める程度の存在になっていきました。古くから活躍した先駆者だったけれども、スターという立場に立つことは一度もなく、ステージに行くにも路線バスを使っていたそうです。

その後、ルイスは、オーケー、ドットといった古参レーベルを転々としますが、65年に胃癌で亡くなりました。


ルイスのインペリアル時代のシングルは、それぞれ10万枚以上売れたことはありませんでしたが、ファッツ・ドミノ(「ブルー・マンデイ」)、ゲイル・ストーム、デイブ・エドモンズ(「アイ・ヒア・ユー・ノッキング」)、エルヴィス・プレスリー(「ワン・ナイト」)、さらには、エアロスミス(「シェイム・シェイム・シェイム」)など、他のアーティストがカヴァーしつづけ、今日では多くがスタンダードとなっています。


"SHAME SHAME SHAME" (AERO SMITH)


(2010年の記事です)

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