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7月, 2021の投稿を表示しています

音楽界のアインシュタイン ー レス・ポール

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タイトルがタイトルだけに、相対性理論だのキンピラゴボウだのが出てきそうですが、ちと違う。 でも、少し難しげな、科学っぽい話から始まります。 アカペラのように、人間の声だけで、っていうのもありますが、たいていの音楽には、楽器がつきもの。20世紀初頭ポピュラー音楽の世界で、大きな影響力を持った楽器は、10年代にブームになった、室内楽で使用される、バイオリンやマンドリンでありました。 1920年代には、ハワイアン音楽の大ブームがあり、ここでは、ウクレレが世界的大ヒット。30年代~40年代のジャズブームでは、ピアノと各種管楽器が大活躍で、弦楽器は音のでかいバンジョーが主流、といった具合。今日、最もポピュラーな楽器であるギターの出番、というのは、極めて限られていました。 20世紀前半のギター音楽というのは、ガット弦が主流で、音量がなく、ヨーロッパ音楽の世界(フラメンコ、ジプシー音楽などの民俗音楽)とラテン音楽の世界(中南米民俗音楽)での使用が主流でした。その後、スティール弦仕様のギターがマーティンによって広まり、北米で、レコード産業を中心に発展したポピュラー音楽において使用されるようになっていきます。しかし、音量がないため、ソロをとるということはあまりありませんでした。 「あー、つまんねえ・・・オレも、かっけえソロ弾きてえなあー・・」、「弾いても弾いても自分の音すら聞こえないじゃん・・」なんて、ギタリストのボヤきが天の神様だの会社の社長だのに届いたのか、変化の兆しが現れたのは、1930年代のことです。 もともとラップ・スティール(ハワイアンでお馴染みの、横置きのスライドギター)用に開発した、磁気コイル式ピックアップを、普通のギター(抱えて弾くギター。スパニッシュ・スタイルという)に搭載し、音量を電気増幅することによって、他の楽器と比較すると、極めて音量に乏しいギターの問題点を克服してからはじめて、ギターの出番が増えてきたのです。 しかし、ピックアップの搭載は、1920年代にギブソンが開発したアーチド・トップ・ギターへの搭載であったため、中が中空になっているギターの音響学的特性から、フィードバック(ハウリング)を起こしやすく、あまり音量をあげられません。また、トップ板の振動でピックアップ自体が上下運動を起こすため、ラップ・スティールのようにサステインのある、クリーンな音を出すこ

天国からの大きな贈り物 ー ジョゼフ・スペンスの音楽

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その人にしかできない音楽ってあると思うんですよ。 なにをいきなり、難しそうなことを言うのかって? ちょっと、最初から話がそれるんですが、ロックの大半って、誰も出来ないんじゃないかな、たぶん。というより、誰がやってもサマになる音楽じゃないと思うんです。 んなアホな!!ざけんじゃねえ!とおっしゃるあなた、気持はわかりますが、ちょっと落ち着いて考えてみて。著作権の話じゃありません。 20世紀初めの楽譜出版時代って、誰でも出来るように、その楽曲そのものが楽譜として売られていました。 そのうち、20年代から映画の時代に入り、「美男美女」が一般大衆のあこがれの的になり、彼らの唄う楽曲は、そのアーティストと直接結びつけられてとらえられるようになりました。でも、まだ、普通の家庭で唄われるような歌(例えばビング・クロスビー=ホワイト・クリスマスとか)が多かった。 さらに、誰が演奏してもよかったのが、「民俗音楽」(カントリーとかジャズとかブルースとか)ではなかったかと思います。 だから、一番、最初のころのロックも、それと同じで、ロックが定着した後とは違うんです。アーティストと楽曲がワンパッケージでとらえられていないんですよね。特にビジュアルがなかった。ロックはジュークボックスとかラジオで普及していった音楽ですから、曲が良ければ、誰が歌っていても関係ない。ヘンな髪型のおっさん、ビル・ヘイリーだって、小さな太ったおっさんのファッツ・ドミノでも構わない。唄っていた内容も、「今夜もロックで騒ごうぜ!」とか「月曜日は憂鬱だ」とか、そんなんだから別に問題はない。 でも、その後、テレビや映画に映し出されるようになってからは事情が変わってきた。ロックンローラーがアイドルになった。すなわち、ビジュアルと楽曲がワンパッケージなった商品になった。 日本でも、昔だったら、にしきのあきら、とか、野口五郎、とか、最近でいえば、嵐とかエグザイルとか、アイドルっているじゃないですか。 あの連中が唄えば、どんなにコテコテのラブソングでも、10代の女の子たちがキャーキャー言いますね?女の子のかわいいアイドルが歌えば、秋葉系のおっさんが黄色い声で応援したりもする。 全く目立たないリーマンのおじさんが、いきなり親しい若い女の子に、真剣に花束かなんか持って、野太い声で「I want you, I need you, I lov

楽器ギャグの王様 ー ビクター・ボルゲ

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ボブ・ホープをはじめとした30年代から続くアメリカンコメディ(ボードビル)の世界の大人物。 日本ではたぶんあまり知られていませんが、百聞は一見に如かず。 とりあえず、tubeでもどうぞ。 いかがでしたか?ちなみに日本語の字幕がついた動画がひとつもないので、たぶん日本ではあまり知られていないのでしょう。 現在の目で見ると、相当ヤバいギャグもあるので、そういうのが嫌な方は文句を言うかもしれません。 英語の堪能な方は余計なお世話かもしれませんが、先ほどの動画のギャグをいくつか説明しますね。 あと、英語としてはかなり訛ってます。デンマークで生まれ育ったからです。 1 「(煙を吐いて)つかれたので、一息いれてます。なにせ長い一日で、ずっと呼吸してたもんだから。」 2 「ピアノ音楽は好きですか?」(客 イエー)「そらひでえな。」 3 「なにをやろうかな。モーツアルトはどうかな。デンマークの作曲家でハンス・クリスチャン・モーツアルト。」 (注:有名なモーツアルトはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。) 4 「モーツアルトはご存知のとおりここまでしかなかったんです。(胸から上)」 (注:モーツアルトの外見はたった1枚の肖像画、しかも死後に想像で描かれたものしか残っていない。) 「そんな肉体のハンディキャップがあるのに幸せな結婚をしました。でも婦人は幸せではなかったようです。いつも婦人は床にはいつくばっていました。」 (注:アブナイギャグですね。今ならたぶん身障者差別だとクレームがつくでしょう。) 5 (ピアノの前で)「なにこれ。でかい黒盤がひとつあるだけなの?あ、ごめん、これ蓋か。」 6 譜面たてをたてて、鏡替わりに蝶ネクタイをいじる 7 「一番リクエストが多かった曲をやります。最後のリクエストは1936年でした。だからなんだったか覚えていません。」 8 「3つ絶対に憶えていられないことがあります。(沈黙)・・・・・4つです。」 9 (ピアノを弾きだす)これは、ベニスのワルツです。(やめる)今のところはイントロ。(弾いてやめる)今のはメインのところ。 (流麗に弾く)今のはなんか変なところ。なんでかっていうと、ショパンだから。」 以下、本格的な楽器をつかった漫談が続く。といった感じです。この辺はご覧になれば可笑しさがわかります。 動画でもわかるとおり、大変な人気です。とにかく、

古き良きアメリカの高田純次  ー ディーン・マーティン

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前回に引き続き、「底抜けコンビ」のツッコミ役、ディーン・マーティンのお話。 この人、なによりも音楽で有名でして、大歌手であります。もともとが歌手として活動していた人なんですが、底抜けシリーズではじめて注目されてヒット歌手になったので、先に俳優として有名になったわけですね。 マーティンは、アメリカ人が親しみを込めて、「ディノ」と呼ぶスターでありますから、ここでも、ディノと書かせていただきます。 前回書いたように、ディノは底抜けシリーズで人気を得たものの、ボケ役のジェリー・ルイスのアクの強さに圧倒されておりました。 いわば、添え物的な、昔の日本の漫才ブームのときに流行った「うなづき役」みたいな扱いで、「フツーの人」っぽい人気だったのだろうと思います。 彼の初期の映画を見ても、二枚目なんだけれども超イケメンというわけでもなく、どっか抜けたぼやっとしたお兄ちゃんみたいな空気をまとった人で、歌はうまいけど、そんなに圧倒するような歌い方でもない。 だから地味な感じであまり人気がなかったのかもしれません。 そんなディノが大ブレークしたのは、彼の「呑兵衛ぶり」が話題になったときで、いつも酒とたばこを手放さず、ほろ酔い気分のサラリーマンみたいな風情で、ヘラヘラしたくだらないジョークを飛ばしながら、真面目なんだか不真面目なんだかよくわからない、どっか「ズレた人」としてエンターテイナーぶりを発揮しだしたときでした。 それが今日でも残る「ディノ」のイメージではないかと思います。いつもおかしなことを言って一人でげらげら笑ったりする二枚目半くらいのキャラ。 どっかで思い当たるタレントいませんか?我が国にもいますよね。高田純次さん。歌がうまいかどうかは知りませんが、斜めから入ってくるようなズレたジョークとか、親しみやすさとかを持っていながら、どこかオシャレで、かっこいい。顔だってよく見るとイケメンだし、ファッションセンスもいい。 あの人はもともとデザイナーですからね。御茶ノ水の東京デザイナー学院を出ている。ちなみにわたしの娘の先輩にあたる人です。 そういう人が東京乾電池を経て、俳優になり、悪役をこなしながら、だんだん「変なおじさん」的なキャラを作っていって、タレントとして大ブレークするわけです。 経緯もディノと似てますよ。 ディノは1917年6月7日、アメリカ・オハイオ生まれ。イタリア系のアメリ

底抜け西部を行く ー ジェリー・ルイスとディーン・マーティン

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猫にご飯!もとへ、猫に小判!失礼じゃないかと思いますね、猫に。 あんなものを喜ぶのは人間だけで、そもそも食べることもできない役立たずな金属片ですから。 それはさておき、50-60年代にアメリカで大ヒットしたコメディ映画シリーズに「底抜けシリーズ」というのがありました。 わが国でもごく一部(主にテレ東、かつての東京12チャンネルが観られた地域)で映画オタク少年(わたしです)の間で人気があったんでよく覚えてます。 (代表作) 底抜けやぶれかぶれ THE CADDY 1953 底抜け西部を行く Pardners 1956 底抜け船を見棄てるナ DON'T GIVE UP THE SHIP 1959 底抜けもててもてて THE LADIES' MAN 1961 底抜け大学教授 THE NUTTY PROFESSOR 1962 底抜けオットあぶない WHO'S MINDING THE STORE? 1963 このうち最も有名な作品は「底抜け大学教授」で、1996年にエディ・マーフィ主演で「ナッティ・プロフェッサー クランプ教授の場合」としてリメイクされたのでご記憶の方も多いかもしれません。 (原題はともに『The Nutty Professor』)。 もちろん、どの作品も原題に「底抜け」なんてついてませんが、先にあったビング・クロスビーとボブ・ホープのコンビによる人気コメディ映画シリーズを「腰抜けシリーズ」として日本公開していた関係で、面白くするために「底抜け」と名付けたのだと思います。 主に、コメディロール(ボケ)を演じるのは、ルイスのほうで、マーティンはつっこみのほう。そのせいかとぼけた二枚目のマーティンは素晴らしい才能豊かな俳優、歌手であったのにもかかわらず、映画の成功はすべてジェリー・ルイスのおかげ、などと言われてつらい時期もあったそうな。 まあ、このシリーズそのものだけを見るとルイスが圧倒的に目立つのも確か。この人「変な寄り目顔」(写真1)ギャグが有名ですが、今の目で見るとホントにすごい人。体を張ったギャグでは右に出るものがなかった。その才能たるや凄まじいものがあります。 まずは、こちらをご覧ください。ロックンローラーに扮したジェリー。 この動きは異常!ありえない動きをしてますが、当然、CGではありません!凄まじい運動神経を持っている人だった

"You Tube"でしか観られない「ベスト・オブ・アマチュア・ミュージシャン」セレクション(2014年版)

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今回は、「ようつべでしかみらんねえ面白音楽家大集合の巻」。 オモシロ、、、ったって、実は、実力が半端じゃない人ばかりを集めてみました。もちろん、私の好みなんで、偏ってはいますが、その実力たるや唖然とするほどのものばかりであります。 まずは、このへんてこりんな楽器を弾く、おむすび顔のおじさんからどうぞ!! 第1位 Don John (ドン・ホァンさん)(アメリカ) ハーモニカ・キング。(特に、ホーナー・ハルモネッタ) ずらずらーっとたくさんアップされているハーモニカを吹く動画を見れば一目瞭然ですが、他のどんな連中もかなわないだろう恐るべき才能の持ち主。ハーモニカの天才、と呼ばせていただきます。 プロなのかもしれませんが、詳細は全く不明です。 面白いのは、この動画にある「ホーナー・ハルモネッタ」を吹いている動画。 これって、1950年代に、ハーモニカとアコーディオンの有名メーカー、ドイツ・ホーナー社で製作されたのですが、「演奏があまりに難しすぎる」ってんで、人気がなく、すぐに絶版になってしまった「幻の珍品」。れっきとしたハーモニカなのですが、ご覧のとおり、たくさんボタンがついていて、上の列はいわば、「口で吹くアコーディオン」になっている。ハーモニカとアコーディオンの中間。Youtubeにもいくつか演奏動画があがってますが、誰一人としてまともに扱えていないのに、この方は、驚愕のテクニック!思わず、拍手したくなるど迫力で吹きまくります。すっげー!! 現在でも、オークションで出たりすると、量産品の珍品ハーモニカのくせに、25万円ほど出品され、秒殺で売れてしまうハルモネッタ。その「世界一の演奏者」は、この方で間違いないと思います。 第2位  Dr.Jorge David Hinojosa Hernández (ドクター・ホルヘ・ダビ・イノホサ・エルナンデス)(メキシコ) 偉大な、アコーディオンのマエストロ。 ドクター、ってのは伊達じゃないんですよ、この方。メキシコ、ヌエボレオン州立大学病院の外科の先生です。(注:2021年現在定年で引退)。実は、オンラインで友達なんです。 ノルテーニョ・バンドを持って活躍しておりまして、現地ではかなり有名なミュージシャンでもあります。バンド動画もありますが、独奏でやっている動画がどれもすごい。あらゆるジャンルの曲を自分独自のアレンジでやってのけ

街角音楽の今

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さて、初心に帰る。大事ですな。なにごとも新鮮な気持ちで接すると心もさわやかであります、きっと。 そんなとき、やはり違うバージョンであるとか、違うアーティストで聴くというのも一興でございます。 できれば、オリジナルとかけ離れた、ぜんぜんイメージの異なるアレンジがされたものとか、へたっくそなアマものとかでなくて、プロっぽいグレードでオリジナルの通りなんだけど、新鮮だ!というのが理想。 それが割合と自宅でも簡単に見つけられるのが、ストリートミュージシャンの動画です。 まあ片っ端から観るのも大変なので、かなりレベルが高いことがわかっているニューヨークなどの大都市にいるストリートコーナーグループを観てみましょう。 グループ名はわかりません。たいてい書いてないのでわからない。観光客がとってアップしたのかもしれない。 曲はハートビーツの歴史的名作、ユア・ウェイ。 すごいでしょう? こちらはグループ名がありました。the Velvet Candles。かなりの人気バンド。 曲はデューク・オブ・アール。(オリジナルはジーン・チャンドラー) ステージがはねた後の路上ジャムでしょうか。それにしても凄いレベルの高さです。アメリカ恐るべし。 こうした音楽はもともとは黒人音楽でゴスペル起源のものですが、黒人ストリートグループになるとやはり凄みが違う。 荒っぽさが素晴らしい。迫力が違います。曲はジャッキー・ウイルソンのハイヤーアンドハイヤー。 オリジナルの味を再現している人が有名な人でもあまりいないので、こうしたグループの実力の高さには本当に驚いてしまいます。日本人には決して真似できないんじゃないかな。 地下鉄駅というのも大昔からの伝統。ニューヨークの風物詩です。 曲は、タイムスのクラシック、ソー・マッチ・イン・ラブ。 反響のいい建物内を見つけてはアカペラで歌う、というのも定番。こういうのを日常的にやっているなんて素晴らしい。 曲は、リトルアンソニー&インペリアルズのジャスト・ツゥー・カインズ・オブ・ピープル。 つい聴き入ってしまう。つい話も真面目になってしまう。それくらいのパワーを感じます。 器楽演奏の天才も世界のストリートで見つけることができる、と動画配信サイトは教えてくれますが、こうした声の世界はまた格別。 古い伝統スタイルがまったく収入などと関係なさそうなところで、本来の形で生きているの

ザ・クローサー・ユー・アー - アール・ルイス&ザ・チャネルズ

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「アール・ルイス&ザ・チャネルズは、『ニューヨークのベスト』といわれているけど、違います。彼らは、すべてのグループのベストです。……(中略) 『クローサー・ユー・アー』や『フレイムズ・イン・マイ・ハート』といった、彼らオリジナルのラブソングはまっすぐに心に届くようなもので、私の実際の人生の中で、『本物の親愛』とは何か教えてくれました。……(中略) ドゥーワップ・サウンドは、私たちを、男の子と女の子がもっと、お互いを気遣いあっていた時代へ引き戻してくれます。 50年代は、人生や生活そのものがもっとのんびりしていて、ゆるやかで、恋愛もとてもシンプルで純粋で、現在のように複雑なものではありませんでした。 このCDは、車輪を回し続けるねずみみたいな現代生活から抜け出し、恋や情熱が、もっとずっと人生の重要な事柄だった時代へと引き戻してくれます。 当時は、こんなにせわしない世の中ではなく、今みたいにやたらと不安がる人々はずっと少なくて、子供たちは本当に面白いことが何かよく知っていました。 アール・ルイス&チャネルズのラブソングの数々は、ハッピーで、明るくて、純真で、希望に満ちています。 彼らは今でも、現役で活躍しています。みなさんも、彼らを見て、聴いて、また、『スローダンスの生活』に戻りませんか?」 アマゾンコム(アメリカ)のCDレビューは誰でも投稿できるのですが、これはスーザン・サミーという方が書いたものをわたしが簡潔に訳したものです。彼女はたぶん60代か70代でしょう。わたしは、とても彼女に共感します。 チャネルズは、50年代のドゥーワップグループで、地元では大変よく知られているし、ドゥーワップ名曲選集などのアンソロジーを組めば、必ずといっていいほどとりあげられるグループですが、全国ヒットとは関係ないグループです。 でも、ニューヨーカーなら誰でも知っている「ニューヨーカーズ・スタンダード」とでも言うべき作品をたくさん残しました。最も有名な唄が、「ザ・クローサー・ユー・アー」(1957年)です。 アール・ルイスは、70代ですが、現在も現役バリバリで、活躍中。ちなみに、この人、15年ほど前の定年まで郵便局に勤めていました。現在は、ライブ活動をしながら、自宅で奥さんと作った手作りのCDを、欲しい人に売っているようです。この人の場合、「老後」という感じはしませんが。

アース・エンジェル - ザ・ペンギンズ

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今日では、20世紀を代表する名作のひとつと言われる、「アース・エンジェル(ウイル・ユー・ビー・マイン)」。1954年だけで、200万枚売ったとされるこの曲を唄ったのは、ザ・ペンギンズ。ロス・アンジェルス拠点の、初期のドゥーワップ・グループのひとつです。 ザ・ペンギンズは「アース・エンジェル」で知られている、というより、「アース・エンジェル」だけで知られている、といったほうがいい。 もっとも、当時のたいていのドゥーワップグループは、「イッパツ屋」でしたが、ペンギンズは、比較にならないくらい「ケタはずれのイッパツ屋」だったと言っていいと思います。 それくらい、「アース・エンジェル」は時代を超越した名曲として評価されているからです。 リリースしたのは、ドゥートーン・レコードで、作者は、カーティス・ウイリアムズ、ジェシー・ベルヴィン、ゲイネル・ホッジ。 この作者3人のうち、カーティスがバリトンヴォーカルを歌い、リーダーをつとめていたヴォーカル・グループが「ザ・ペンギンズ」でした。 「ヒットレコードというのはね、ほとんどは、プロモーションの力で決まるんだよ。ヒットしたということは、プロモーションがうまくいった、ということを意味している。ごく稀に、プロモーションをかけないのに、自然にヒットしていくレコードというのがあるんだ。オレも一度だけ体験したことがある。それが、ザ・ペンギンズの「アース・エンジェル」だよ。」(ドゥートーン・レコードのプロデューサー、ドゥーツィー・ウイリアムズ) ウイリアムズは、プロデューサーとして活躍する前は、プロのトランペッターで、カリフォルニア・ジャンプ・ブルーズの名グループ、ロイ・ミルトン&ソリッドセンダーズにいたこともあるベテランでした。 そのウイリアムズが、「稀だ」、といったとおり、結局、「アース・エンジェル」は、大手レコード会社がとりしきる宣伝活動らしきものいっさいなし、ラジオ番組のディスクジョッキーによせられるリクエストだけで評判が広がり、ビルボードのR&Bチャート第1位を3週間に渡って独占する大ヒット。結果的に500万枚を超える桁ハズレのミリオンセラーを記録しました。 3人の共作と言いましたが、実際の作者はジェシー・ベルヴィン、というのが定説のようです。ベルヴィンはとても目録化不可能といわれるほど、西海岸のリズム&ブルーズ界で活躍した重要人物

ビッグ・バンド・ドゥーワップ  ー ザ・デュプリーズ

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ウイリアム・L・ディキンスン高校の生徒だった、マイケル・アーノンを中心に、ジョー・サントロ、ジョン・サルヴァート、トム・ビアログロウ、ジョーイ・ヴァン(カンザーノ)が集まって結成されたデュプリーズ。彼らの特色は、大ヒットになった「ユー・ビロング・トゥ・ミー」に代表される、フランク・シナトラ、ジョー・スタフォード、ナット・キング・コールなどの唄ったラブソングの名曲、50年代以前のポップ曲を題材にし、しばしば、グレン・ミラー風ビッグバンド・アレンジメントにコーラスワークを乗せた独特のサウンドを作り上げた、という点にあります。彼らは、まだティーンネイジャーのアマチュア・グループだった当初から、古いバラード曲をドゥーワップに焼き直すというコンセプトで自分たちでスタイルを築き上げ、売り込みをし、有名になっていった、独立独歩のグループでもありました。   さて、デュプリーズ物語の発端は、1958年。よくある、高校生の話。 ジョーイ・ヴァン(カンザーノ)とトム・ビアログロウは、ブライアン・モラン、ジャッキー・スミスと「ユートピアンズ」というヴォーカル・グループを立ち上げました。 ジャージー・シティで少し名が出たのと同じころ、エルジンズというグループが同じエリアでのしてきていて、そちらはジョー・サントロ、マイク・アーノン、ガス・サレルノ、ジョー・カタルド、マイク・アマトがメンバー。2つのグループは、ジャージー・シティのディキンソン高校の友達仲間でしたが、1960年、どちらも高校卒業時に解散。エルジンズのジョー・サントロとマイク・アーノンは、友達のジョン・サルヴァートと別のグループを作ることにし、ユートピアンズのジョーイ・ヴァンとトム・ビアグロウに声をかけ、出来たグループをパリジャンズと名付けました。   その後、2年間、彼らは、それぞれの実家を練習場にしながら、練習に励み、ジャージー・シティのローカルな店でギグをして力をつけていきました。 レコード会社売り込み用のデモ録音もたくさん作った。その中には、後にヒットすることとなる「マイ・オウン・トゥルー・ラブ」や「セプテンバー・レイン」、「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」も入っていました。選曲をみれば、すでに当初から、1940~1950年代前半のポップソングを題材にした、「60年代時点でのオールディーズ・リバイバル・グループ」だったことがわ

シックスティーン・キャンドルズ ジョニー・マエストロ&ザ・クレスツ

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今年(2010年)の3月26日、ニューヨーク出身の偉大な歌手、ジョニー・マエストロが、70歳で亡くなりました。 今をさかのぼること、51年前の1959年、全米第2位でゴールドディスクになった不朽の名作、「シックスティーン・キャンドルズ」を唄ったドゥーワップ・グループ、ザ・クレスツのリード・ヴォーカリストです。その後、ソロとして、また、1968年からは、自身が結成した11人編成のドゥーワップグループ+ブラスバンドである「ブルックリン・ブリッジ」でも、ゴールド・ディスクを獲得するなど、ドゥーワップの枠を超えて、ポップ音楽を代表する偉大な歌手のひとりでありました。 さて、そのザ・クレスツは、1956年、ニューヨークで結成されたグループで、50年代後半の、最も優れたヒットメーカーのひとつとして知られています。 オリジナルのクレスツは、同時期に活躍したデル・ヴァイキングスと同じく、当時は珍しかった人種混合グループで、黒人3人、プエルトリコ人1人、そしてイタリア系白人1人から成っていました。 最初に彼らが会したのは、マンハッタンのジュニア・ハイスクールで、1955年のこと。当時の多くのアマチュア・ドゥーワッパーの例にもれず、彼らもまた、天然エコーを求めて、ブルックリンブリッジ駅の構内で練習しているところを、バンド・リーダーだったアル・ブラウンの奥さんに認められ、ブラウンがジョイス・レコードと彼らを契約させるところから、ザ・クレスツのストーリーは始まります。 結成したのは、黒人メンバーのJ・T・カーターで、メンバーは、タルモッジ・ガフ、ハロルド・トレス、パトリシアン・ヴァン・ドロス(R&Bのルーサー・ヴァン・ドロスの姉)。 カーターは、もうひとり、イタリア系のジョニー・マストランジェロ(後にステージネームをマエストロと改名)を加入させ、リードを唄わせることにしました。 ザ・クレスツは、1957年、ジョイス・レコードから小ヒット「スイーテスト・ワン」を出した後、ニューヨークのソングライター、ビリー・ダウン・スミスに紹介されたコード・レコード(ジョージ・パクストンが経営するレコード会社で、他のヒットボーカルグループにデュプリーズがいた。)に移籍、ここでルーサー・ディクスン作の「シックスティーン・キャンドルズ」を吹き込むことになります。 16歳の恋心をロマンティックに唄った、簡素で素晴

アワ・トゥルー・ストーリー ー ユージーン・ピット&ザ・ジャイブ・ファイブ

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  当年とって73歳のユージーン・ピットは、大声で楽しそうに笑いながら、言っています。  「俺は、ビーチ・ミュージックが大好きなんだよ。カリフォルニアでは誰もが楽しいことを求めていて、音楽はアップテンポで、踊るわけさ。昔は、ビバップとか、スイングだったけどな。」  ユージーンの最新作は大好きなビーチ・ミュージックをとりあげた、「ステッピン・アウト」で、昔からのドゥーワップ仲間であるリチャード・ホーリハンがプロデュース。もうひとりのプロデューサーは、ボビー・ジェイで、彼も1957年から活躍するドゥーワッパー。最近では、伝説的なドゥーワップグループであるティーン・ネイジャーズ(フランキー・ライモンのティーンネイジャーズ)と行動をともにしているベテラン。  そんな現役バリバリのシンガーである、ユージーン・ピットは、かつての名ドゥーワップグループ「ジャイヴ・ファイヴ」のリーダーであり、1961年の大ヒット、「マイ・トゥルー・ストーリー」で知られています。  「俺は、1937年11月にブルックリンで生まれたんだ。俺の親父はクリスチャンで、ゴールデン・ゲイト・カルテットでゴスペルを唄っていたのさ。」  しかし、ユージーンの最初のアイドルは、当時のティーンネイジャーらしく、フランク・シナトラとナット・キング・コールでした。  「だけどな、俺が歌いだしたときは、俺はオヤジに4人の姉貴のところに連れて行かれてね、どうやってハーモニーを唄うのか、仕込まれたわけだよ。そして、俺たちは、家族でゴスペル・グループを作ったわけさ。それから数年、教会に行って唄うのが日課になった。だけど、おふくろが亡くなってね、それでグループは解散したんだよ。」  「17歳のときに、俺は、初めてストリートコーナーで歌うようになった。近所の連中を集めてね。自分たちのことを、アクロンズって名づけたんだ。そのグループには、レイ・マーフィ(俳優エディ・マーフィの伯父)と、マーフィの兄貴でエディの親父の、チャールズ・マーフィ、そして、俺と、サンティ・ショウ、モンロウ・ショウ、俺の兄貴たち。だけど、レコーディングするところまではいかなかったな。」  アクロンズでの活動の後、ユージーンは、ジイニーズというグループに加わりますが、メンバーの一部が引越した際、引越し先に、もうひとつのジイニーズができ、そちらのほうが、「フーズ・ザッ

1942年の「ソウル・ミュージック」 ー ザ・5ロイヤルズ

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 「俺たちは、彼らの音楽で育ったのさ。「シンク」は、いくつものファンキーなフレーズで出来ている。俺は、同じフレーズをマーキーズで使わせてもらったし、とにかく、ザ・5ロイヤルズのギタリスト、ロウマン・ポーリングのサウンドはファンキーでガッツがあった。ヤツは、リードとリズムをうまく使い分けるんだ。俺がいつもやっているようにさ。」(スティーヴ・クロッパー)  もともと、ザ・5ロイヤルズは、単にドゥーワップグループである以前に、地元ノース・キャロライナ州、ウインストン・サレムで長い歴史のあるゴスペルグループで、そこにジャンプ・ブルーズ、ドゥーワップを混ぜ合わせて、最も初期のソウル音楽につながる独自性の強いサウンドを作り出しました。  グループの歴史をさかのぼると、ドゥーワップグループとしてヒットを出す前まで、ゴスペルグループとしての歴史は、10年以上に及んでおり、結成は、1942年。  50年代初頭には、アポロレコードからロイヤル・サンズ・クインテットの名でレコーディングを開始しており、メンバーは、ポーリングの他に、ヴォーカリストとして、ジミー・ムーア、オバディア・カーター、オットー・ジェフリーズ、そしてジョニー・タナーから成っていました。 (後年、タナーの弟、ユージーン・タナーがジェフリーズと交代しています。)   アポロ当時のサウンドにもっとも近いのが、このCD(KINGレコード音源)中では「ONE MISTAKE」。  「ONE MISTAKE」を聴くとわかりますが、いかにもドゥーワップ的なクァルテット・スタイル(リードをコーラスが支える構造のアレンジ)、と、ゴスペル特有の「ジュービリー・スタイル」をうまく1曲の中で使い分けており、ジュビリースタイルのうまさは、他のグループを大きく引き離しているほどうまい。  彼らのアポロ時代のヒットは、ほとんどが1952年と1953年で、すべてがギタリストだったロウマン・ポーリングの手によって書かれました。  普通、ドゥーワップというと、アカペラもたくさんあり、「シンガー中心の世界」といえますが、このグループをひっぱっていたのが、ギタリストで、しかも、それが、冒頭のスティーブ・クロッパーの発言のとおり、歴史に名が残るような先駆的名手だったところが、5ロイヤルズの、あまり知られていないオイシイところだともいえます。  1953年には、

必殺!ザ・コースターズのお笑いDOO WOP天国

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愉快な唄は数々あれど、痛快なロックソングとお笑いって、相性がいいようで、意外と例を思いつかないのであります。 一時期、マイケル・ジャクスンのパロディで有名な、アル・ヤンコビックなんて人も有名になりましたが、ベタ甘のピーナッツペーストにジャムを重ねたサンドイッチくらいコテコテ過ぎて、ちょっと笑えない、というあなた! お笑いといったら、50年代!!コースターズがいるではありませんか! 歴史を辿ってみると、お笑いは音楽芸能においても、非常に重要な役割を果たしてきており、日本の演芸から、アメリカのミンストレルショウまで、かならずお笑いがついてまわります。 ジョージ・フォーンズビイ(イギリスのヴォードビリアン、歌手、ウクレレ奏者)、牧伸二、玉川カルテット、横山ホットブラザースなどの楽器漫談、エディ・フォイ(歌手、ミンストレルショウのリーダー)のような音楽まじりのコミックショウ、スパイク・ジョーンズ(ジャズバンドリーダー)や我が国のフランキー堺&シティスリッカーズのような冗談音楽など、枚挙にいとまがありません。 しかし、こうした古いスタイルの「演芸系」と比べると、歌詞そのものがオバカな、笑えるロックソングというのは、考えてみてもあまりないような気がします。 そんななかで、必殺爆笑ロックは、ザ・コースターズをおいて他にない! ザ・コースターズは、50年代に活躍したドゥーワップ・グループで、もともとはロビンズという、ジャンプ・ジャイブ系の曲を売り物にしたグループが母体になっています。 ロビンズの最も古い愉快な唄は、1953年の「ライオット・イン・セル・ブロック・ナンバーナイン」(第9号監房の騒乱)という刑務所の脱獄をテーマにしたノベルティソングで、リチャード・ベリーの野太い声のおしゃべりをフューチャアしていました。 鼻にかかったハードボイルドな語りが、当時のギャング映画音楽のパロディめいたリフに乗って、凶悪、かつオバカなノリでだらだら続きます。 後にこの路線を引き継いでいるのは、ブルース・ブラザースでしょう。 続いて出たのが、最近、同タイトルでミュージカル化され、今、ブロードウェイでロングランになっている「スモーキー・ジョウズ・カフェイ」。 どやどやした、狭い真夏のバーの様子といった感じをよく捉えていて、コメディソングではないものの、カール・パーキンズの名作、「ディキシー・フライド

ドゥーワップ株式会社物語 ー ザ・ドリフターズ

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ザ・ドリフターズ、なわけですよ。 オーッス!ババンババンバンバン♪・・・歯みがけよー・・・じゃあないんですけども。 やあ、困ったなあ、これは。聴けば極楽、観れば天国、語るは地獄・・なんですよ、ドリフターズはね。これは無理だぜ、ベイベエー、ってことで避けてきたんです。 理由は簡単で、ニューヨークで1953年に結成されて以来、最もよく知られているドゥーワップ~R&B~ソウルヴォーカル・グループなんですが、あまりに歴史が長く、解散、分離、統合などを繰り返しながら、まるで会社のように「屋号」が生き延びているので、全然異なる音楽性の、様々な「ドリフターズ」が存在するからです。 代表的なリード歌手は、ベン・E・キング、クライド・マクファターですが、この2人だけで本2冊は書けちゃうくらいの人ですし、歴代のメンバーを書いただけで、このコラムの字数が埋まってしまうほどの歌手数(65名)だったりします。ヒット曲の売り上げ総数にいたっては、シングルが2億1400万枚、アルバムですら、1億1400万枚という・・・なんか、もう、書くのもアホらしくなるくらいのスーパー、いや、もはや「妖怪グループ」なわけ。 主立ったドリフターズは、1953年結成の、リード歌手、クライド・マクファターと彼のバッキング・グループから成る「オリジナル・ドリフターズ」。もうひとつは、ベン・E・キングがいた「ドリフターズ」の二つ。3つ目は、「8時だよ!全員集合!」の・・・いや、三つ目はウソ。ま、とにかく、このふたつにでも絞らないととても説明し切れないだろうと思います。途中途中で違うのも混じっては来ますが、あー、めんどくせー、この原稿投げてしまいたーい。 1 オリジナル・ドリフターズ ビリー・ワード アンド ザ・ドミノウズのリード歌手だったクライド・マクファターは、ドミノウズ加入前の1950年にアポロシアターでデビューした当時から、ずば抜けて人気のあるテナー歌手で、オンナのコたちの黄色い声援に守られて、独立を目指していました。 えー、さて、話の発端は1953年春のある晩のこと。マクファターが抜けた後のドミノウズがバードランド(ジャズで有名なライブハウス)に出演したときに、たまたま来ていたアトランティック・レコードの社長、アーメット・アーティガンが、マクファターがいないことに気づきました。 「あららららーっ?オタクの大スター

タラハッシー・ラッシー ー最後のロックンローラー、フレディ・キャノン

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パリサデス・パークという曲知ってますか。好きな曲のくせに、一時期「デル・シャノンの曲」と勘違いしていたのですが、ホントはフレディ・キャノン。歌い方とか時代とかよく似てます。 フレディ・キャノン本名フレディ・ピカリエッロは、1936年マサチューセッツ州のリビア生まれ。父親はトラックの運転手として働いており、地元のバンドでトランペットと歌も演奏していたそうな。フレディは、ラジオでビッグ・ジョー・ターナー、バディ・ジョンソンなどのリズム&ブルース音楽を聴いて育ち、ギターを弾いて遊んでいたらしいと、このあたりまではよくある話、というか、俺とほとんど同じじゃん。ホントにアメリカ人なのかっ! 逆か、俺が変なのか。 高校卒後、1958年に歌手としてレコーディングデビュー。ちょっとしたヒットをだして、その後、州兵に加わり、トラック運転手となって、結婚し、父親になった。 自身のグループ、フレディ・カーモンとハリケーンを結成し、ボストン地域で人気を博し、このころにあのトレードマークとなった張り詰めたような歌い方(デル・シャノンに似てる)をして、それが受けた。レコードもボ・ディドリーのサウンドに近い曲が多いですわ、初期のキャノンは。よほど好きなんでしょう。とにかく熱狂的な曲ばかりで、そこが「ロックンロールしかやらない人」という定評に結びついているんでしょうね。 また、彼は地元のテレビダンスショー、ボストンボールルームでレギュラーに。そこで、彼の母親が書いた歌詞にフレディが曲をつけ、ボブ・クルーとフランク・スレイの執筆と制作チームに持って行ってデモを作り、少し手直しをした後、録音。 これが「タラハシー・ラッシー」で、フィラデルフィアでスワンレコードを所有していた有名なテレビホスト、ディック・クラークにの耳にとまります。クラークは、原版にさらに手を加え、バスドラムサウンドを強調し、ハンドクラップとフレディの「whoo!」の叫び声を追加した。そして、歌を再編集してオーバーダブして完成したシングルはついにスワン・レコードからリリース。同社社長のバーニー・ビニックによって名前もとうとう「フレディ・キャノン」になって大ヒット。 1959年、ビルボードホット100で第6位になり、R&Bシングルチャートでも第13位になった後、とうとう、100万部以上を売り上げ、ゴールドディスクになりました。 フレディは

戦時のギターを支えた女性たち ギブソン・カラマズー・ギャルズとメアリ・オズボーン

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本日は偉い女性たちのお話。 まあ、女性は女性ってだけでエライと相場が決まっておりまして、遺伝学的には、雄は出来損ない(雌になりそこねたのが雄になる)んだそうですから、価値観というより科学的事実なんでしょうな。そんなエライかみさん、いや、女性たちの中でも、「戦時中の忘れ去られた功労者」みたいなちょっと心くすぐるエライ女性たちがいました。 「男たちが戦地に送られて、シアトルのボーイング社の飛行機の組み立て生産ラインは女性たちが埋めることになった。同じことがミシガン州カラマズーにあったギブソン工場でも起こったんだ。」 戦前のアメリカンギター製作を支えた主要メーカーであるギブソン。第二次世界大戦中、楽器製造は、軍隊に必要な木材と金属の供給不足のために減速しました。戦後、ギブソンは、「この期間に多くのギターを製造することを拒否し、戦争には歳をとりぎた熟練職人によってほんの一握りしか作られていないと主張していました。 しかし、コネチカット州の法学部教授であるジョン・トーマスは、1942年から1945年の間に25,000近くのギターが同社によって生産されたことを最近発見。この数字には、これまでに製造された最高のギブソンアコースティックギターの1つと見なされている9000を超える「バナー」ギターが含まれています。 「バナーギブソン」という用語は、これらのギターのヘッドストックにある小さな金色のバナーに由来しています。  「only a gibson is good enough」 という1940年代初頭のギブソンの広告キャンペーンで最初に使用されたスローガンがヘッド部分に刻印されたギブソンのアコースティックギターの数々。 誰が作ったのでしょう? トーマスの本、「カラマズーギャルズ:ギブソンの第二次世界大戦「バナーギター」を作った並外れた女性の物語」は、経験がほとんどないかまったくないがギブソンギターを支えた女性たちの話を伝えています。 ジョンの発見は、偶然によるものでした。戦時中のギブソンギターの良さ、素晴らしさをよく知っており、素晴らしい楽器の作成に責任があったと思われる、工場で「経験を積んだ」職人に関する詳細情報を求めたのです。そして、彼は一枚の謎の写真を発見します。カラマズー工場の前に笑みを浮かべたギブソンの従業員78人が映った1枚の写真。そこに映っていたのは、ほぼ全員が女性

エレキギターの歴史とレオ・フェンダー

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音楽を永遠に変えてしまった男、という。なんか天変地異みたいでびっくりしますが、ほんとにすごいですよ、今回の話は。 優れた音楽家がポピュラー音楽に大変革をもたらす、というのはよく聞く話ですが、それだけではない。楽器によって、ありようを変えてしまうということもある。むしろ、こっちのほうが影響は大きい。大工道具が代われば掘っ立て小屋からビル建設に移行したりしますから。 ただし、歴史はさまざまな小さな試行錯誤や小さな変革の積み重ねでできていますから、一朝一夜でひとりの天才が大変革をもたらすなんてことはありません。 その足元には、たくさんの人の、膨大な数の努力と成果があったはずだからです。 それにしても、そうした変革にブレイクスルーをもたらした人、というのは特定できます。特にエンジニアリングの世界は、形のない音楽ではなくて、モノを扱っているので、かなりはっきりする。レオ・フェンダーもそのひとり。 エレキギターの代名詞ともいわれるフェンダーギターの創業者です。 当初のギターの電気化はとにかく、音量稼ぎのためでした。なにせ、アコースティックギターってのは音が小さい。当時の管楽器が中心のジャズバンドの中では、まったく聴こえない。弾いている本人すら聴こえなかったのをなんとかしたかった。 もともとはバンジョーで、ある程度音量が稼げたが、ギターが流行して置き換えてみたはいいけれど、まったく聴こえない。 じゃ、なんで置き換えたりしたのか、は謎なんですけども。でかい音を出すために設計されたアーチトップギターでも、バンドが大編成になるにつれ、存在意義がなくなっていく。なんとかバンドメンバーにリズムを提供するくらいしかできなかった。そのあたりから始まるエレキギターの歴史の面白いドキュメンタリーもあります。 それ以前に、ギターをエレクトリック化して音量を稼ごうというアイデアはあったようで、1910年代には試行錯誤した記録が残っているらしい。 最初に有名になったエレクトリック・ギターは、1932年のフライパン。 こらあ、便利な調理器具だねえ、卵焼きも作れるし、音楽もできるんかい、ではありませんね。 ジョージ・ビーチャムが作った小さなシンプルな楽器は、1931年には特許をとっているので、それが第一号機であるとされています。このフライパンは、スチールギターです。 もともと、ギターには主に2つの奏法があり