タラハッシー・ラッシー ー最後のロックンローラー、フレディ・キャノン



パリサデス・パークという曲知ってますか。好きな曲のくせに、一時期「デル・シャノンの曲」と勘違いしていたのですが、ホントはフレディ・キャノン。歌い方とか時代とかよく似てます。

フレディ・キャノン本名フレディ・ピカリエッロは、1936年マサチューセッツ州のリビア生まれ。父親はトラックの運転手として働いており、地元のバンドでトランペットと歌も演奏していたそうな。フレディは、ラジオでビッグ・ジョー・ターナー、バディ・ジョンソンなどのリズム&ブルース音楽を聴いて育ち、ギターを弾いて遊んでいたらしいと、このあたりまではよくある話、というか、俺とほとんど同じじゃん。ホントにアメリカ人なのかっ! 逆か、俺が変なのか。

高校卒後、1958年に歌手としてレコーディングデビュー。ちょっとしたヒットをだして、その後、州兵に加わり、トラック運転手となって、結婚し、父親になった。

自身のグループ、フレディ・カーモンとハリケーンを結成し、ボストン地域で人気を博し、このころにあのトレードマークとなった張り詰めたような歌い方(デル・シャノンに似てる)をして、それが受けた。レコードもボ・ディドリーのサウンドに近い曲が多いですわ、初期のキャノンは。よほど好きなんでしょう。とにかく熱狂的な曲ばかりで、そこが「ロックンロールしかやらない人」という定評に結びついているんでしょうね。

また、彼は地元のテレビダンスショー、ボストンボールルームでレギュラーに。そこで、彼の母親が書いた歌詞にフレディが曲をつけ、ボブ・クルーとフランク・スレイの執筆と制作チームに持って行ってデモを作り、少し手直しをした後、録音。

これが「タラハシー・ラッシー」で、フィラデルフィアでスワンレコードを所有していた有名なテレビホスト、ディック・クラークにの耳にとまります。クラークは、原版にさらに手を加え、バスドラムサウンドを強調し、ハンドクラップとフレディの「whoo!」の叫び声を追加した。そして、歌を再編集してオーバーダブして完成したシングルはついにスワン・レコードからリリース。同社社長のバーニー・ビニックによって名前もとうとう「フレディ・キャノン」になって大ヒット。

1959年、ビルボードホット100で第6位になり、R&Bシングルチャートでも第13位になった後、とうとう、100万部以上を売り上げ、ゴールドディスクになりました。

フレディはプロデューサーのフランク・スレイと共に今後5年間スワンのレーベルに留まり、ディック・クラークは、彼のテレビ番組、アメリカン・バンドスタンドにどんどん出演させました。(合計110回の出演)




彼のセカンドシングル「オケフェノキー」はチャートで43位でしたが、次のレコード「ウェイ・ダウン・ヨンダー・ニューオーリンズ」(1922年の曲のロックバージョン)はゴールドレコードとなり、アメリカとイギリスのポップチャートで第3位に達し、最大のヒットになり、ミリオンセラーになりました。

次の2年間、1962年初頭まで、「チャタヌーギーシューシャインボーイ」、これまたニューオーリンズジャズの古典、キッド・オリーの「マスクラットランブル」のロックバージョン、のちにダニー&ザ・ジュニアーズが録音した「ツイスティン・オール・ナイト・ロング」(バッキング・ボーカルにフランキー・ヴァリとフォーシーズンズが出演)などヒットが続きました。

しかし、彼の最大のヒットの1つは、のちにTV Gong Showのホストで有名になるチャック・バリス(覚えてますか、日本でもやってました。)が書いた「Palisades Park」で1962年5月に登場。スレイがプロデュースしたジェットコースターのサウンドエフェクトをオーバーダブして、Hot 100で3位、R&Bチャートで15位、英国で20位になりました。これもゴールドディスクに。



キャノンは、1962年に英国で制作された映画「Just for Fun」に、ボビー・ヴィー、ジョニー・ティロットソンなどとともに出演しました。アメリカでの人気は薄れたものの、彼は英国や世界のどこかで数年間人気のあるツアー活動を続けました。 

1963年、彼はワーナーブラザーズレコードと契約、1964年にはアメリカの最後の2つのヒットである「アビゲイルビーチャー」と「アクション」が出ました。「アクション」は現代の日本の音楽マニアでもびっくりするような、すごいメンバー(レオン・ラッセル、ジェームズ・バートン、グレン・キャンベル、デビッド・ゲイツなどを含むロサンゼルスのトップセッションミュージシャン連中)とレコーディングしたもの。これもゴールドディスク。

1967年にワーナー・ブラザーズ・レコードを去った後、キャノンはサイア、ロイヤル・アメリカン、メトロメディア、MCA、アンディー、クラリッジ、ホーン、アマーストを含むいくつかのレーベルでシングルをリリース。 1970年代以降もディック・クラークと仕事を続け、世界中をツアーしました。

そして最も重要なことは、キャノン自身がスワンレコードとワーナーブラザーズの原盤の所有権を持っていることです。音楽界で本当の意味で成功する(社会一般的にという意味)は、金持ちになることで、キャノンは抜け目なくちゃんとやってのけたわけ。

持前の才能と幸運に恵まれたキャノンは、社会的にも有能な人で、「いとも簡単に芸能人生を歩んだ」と言われています。

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