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ムードテナーの帝王 ー サム”ザ・マン”テイラーの軌跡

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  ハーレム・ノクターン いいでしょう!このエロい感じ、路地裏の淫靡なストリップ劇場みたいなエロいサックス! チョットだけよーん、じゃないすよ。あれは、「タブー」という曲。こちらのハーレムノクターンは、サム”ザ・マン”テイラーを一気に有名にした代表曲です。 サム”ザ・マン”テイラーのこってりしたサックスブローは、ロックンロールから日本の演歌まで大きな影響力があり、「ムードテナーの帝王」と言われました。 かつて、こんな下品な音を出してはいけない、音楽的でない、芸術的に格下。。。いつも出てくるこうした「見解」を見るにつけ、ジャズ愛好家だかヒョウロンカだか知らないけど、マジでつまんねえやつらだな、それならジャズなんかどうでもいい、と思ったものですが、実際には、お芸術なジャズ屋なんかより、この人のほうがよほど売れたんですね。なんか痛快な話です。 さて、そんなサム・テイラーさん、どんな人だったのでしょう。 テイラーは、1916年、テネシー州レキシントン生まれ。アラバマ州立大学でジャズを始めた、とあるので、かなりのインテリ。当時の黒人ジャズマンでは、ジャズサックスの元祖、コールマンホーキンスも大卒でしたが、学校なんてロクに出ていない、ワイルドな周囲の音楽仲間に溶け込むのが難しかったそうで、テイラーも珍しいタイプのジャズマンだったのではないかと思います。 その後、スキャットマン・クローザーズ、クーティ・ウィリアムズ、ラッキー・ミリンダー、キャブ キャロウェイ、レイ・チャールズ、バディ・ジョンソン、ルイ・ジョーダン、ビッグ・ジョー・ターナーと仕事をしたテイラーは、1950年代にニューヨークのレコーディング スタジオで最も依頼の多かったセッション サックス奏者の 1 人になりました。 彼はまた、CBS のアラン・フリードのラジオ・シリーズ、キャメル・ロックン・ロール・ダンス・パーティーのハウス・バンドリーダーとして、カウント・ベイシーに取って代わり就任しています。 まあ、経歴を見ればわかるとおり、クーティ・ウイリアムス、ラッキー・ミリンダーなどのジャンプジャズオーケストラにいたいわゆる「ホンカー」で、同じ系統の出身でも、チャーリー・パーカーのようにモダンジャズにいかず、ロックに流れていったサックスマンのひとりですね。 初期ロックソングで有名な、ビッグ・ジョー・ターナーの「シェ...

グッド・ロッキン・トゥナイト ~ ロイ・ブラウン

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ロイ・ブラウン。 80年代にリリースされたスウェーデンのLPではじめて耳にし、こりゃあすげえわとたまげてから、もう40年もたってしまいました。 エルビスで有名な「グッド・ロッキン・トゥナイト」は、オリジナルが黒人R&B歌手のロイ・ブラウンで、1947年にブラウン本人によって書かれました。歌い方もそっくりで(というより、エルビスはブラウンの、非常にゴスペルっぽい歌い方に大きな影響を受けている)、どんな人でも、必ず、誰かの影響から何かを生み出すものだとわかります。 そのブラウンは、ほとんど、顧みられることがないまま、1981年にわずか55歳で亡くなっています。 ロイ・ブラウンは、リズム&ブルース、特に、40年代のビッグバンド全盛期に、ビッグバンド・サウンドに負けずに歌える大声のブルース・シャウターとして活躍した人物です。ブラウンは、同業で、大人気歌手だったワイノニー・ハリスにこの曲を歌ってもらいたくて書いたそうですが、本人に断られたため、セシル・ギャントに持ち込み、ブラウンが歌うのを聴いたギャントがブラウン本人のレコーディングで発売することにして、これはデラックスレコードからリリースされました。 皮肉なことに、このレコードを聴いたハリスは、いたく気に入り、最初断ったくせに、自分でカヴァーすることにしました。わー、ご都合主義だー、ハリスの野郎。。。ってすごい人なんですけどね。 ワイノニー・ハリス版は、ブラウン版より更にいかがわしさ満載の出来映え。これが大ヒットを記録します。(ブラウン版がR&Bチャートの13位、ハリス版は1位)。1948年のことでありました。 ワイノニーはよく歌詞を忘れることで有名で、ラスト近く、忘れたところをhoy,hoy,hoyって歌ってます。エルビスはどうだったかな?あとで聴いてみてください。 この曲は、さすがナンバー1になっただけあって、当時のワイルドな黒人音楽の代表曲のひとつとなり、たくさんのアーティストにカヴァーされました。 この曲の「ロッキン」は、スラングで、セックスの比喩であることがよくわかる完全な例として有名でもあります。これを露骨にやった最初の白人、エルビスは、たいへんな勇気がいったことでしょう。なにしろ、お堅いことで有名なアイゼンハワー時代のアメリカですからね。 エルビスがカヴァーしたのは、1954年のことで、まだサンレコードに在籍し...

ダウン・ヤンダー ~ スマイリー・ルイス

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スマイリー・ルイス(オヴァートン・エイモス・レモンズ)は、40年代から50年代にかけて活躍した野太い声のブルーズ・シャウターで、そのバイタリティと暖かみのある、おおらかな歌声は、スマイリーというステージネームそのままの明るさに満ちたものでした。 「ルイスは、ニュー・オルリンズで最も不運な男だった。彼は1952年に出たスローなブルース曲、「ベルズ・アー・リンギング」で、小さなコンボをバックに歌って名声を得たが、同じようなスタイルだった後続のファッツ・ドミノの大成功の影に隠れてしまい、大きな成功とは生涯無縁になってしまった。」と、後年、ジャーナリストのトニー・ラッセルが記しています。 ルイスは、ルイジアナ州のレイクチャールズ近くにあるデクインシーという小さな町で、3人兄弟の2番目として生まれました。母のリリー・メイは、彼がまだ小さいときに亡くっていますが、後年、ルイスは母のことを歌った「リリー・メイ」という歌を残しています。10代のとき、友達と機関車に乗っては加速する前に飛び降りる遊びをしていたルイスは、降り損ねて、そのままニュー・オーリンズまで行ってしまったのだそうです。そのとき、たまたま乗り合わせたアイリッシュ系の家族に気に入られたルイスは、その家族の姓をそのままステージネームにし、前歯がないことから付けられたニックネーム「スマイリング」と組み合わせて、スマイリング・ルイスと名乗るようになります。その後、家族とともにニュー・オーリンズに引っ越した彼は、ギターの腕前を活かして、フレンチ・クオーターにある様々なバーを回り、チップを稼ぐ生活を始めました。 "LILLIE MAE" (SMILEY LEWIS) 1938年、結婚したルイスは、奥さんの実家で暮らし、子供が生まれてからは、飲み屋街に引っ越して、日雇い仕事をしながら、夜はバーでギターを弾き、歌うようになります。第二次世界大戦が始まると、ルイスは兵役に就き、従軍慰安のためのバンドに参加する傍ら、ブーギウーギ・クラブのハウスバンドのメンバーとして活動。終戦後は、そのまま、フレンチ・クオーターのバーボン・ストリートで演奏する生活を続けました。 1947年、デラックス・レコードに招かれたルイスは、ローカル・ヒットを出しますが、デイブ・バーソロミューの誘いでインペリアル・レコードと契約。ここから、195...

キング・オブ・ニュー・オーリンズ・ピアノ ~ ヒューイ”ピアノ”スミス

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1950年代のニュー・オーリンズ音楽の一番おいしいところを一手に魅せてくれるのが、ヒューイ”ピアノ”スミス&ザ・クラウンズ。 彼らの2大レコードは、お笑いビョーキネタソングの「ロッキン・ニューモニア・アンド・ザ・ブギウギ・フルー(ロッキン肺炎とブギウギ風邪)」(1957年)、同じくビョーキネタの「ハイ・ブラッド・プレッシャー」(高血圧)と両面ヒットになった「ドント・ユー・ジャスト・ノウ・イット」(1958年)。どちらも、立派なミリオンセラーで、ゴールド・ディスクになっています。 ピアノ・スミスの演奏スタイルは、当時大変な影響力を持ち、ロックの形成にも大きな役割を果たしたと言われています。それは、ピート・ジョンスン、ミードラクス・ルイスといった古いブギウギとジェリー・ロール・モートンのジャズなどを基にし、そこにニュー・オーリンズR&B特有のセカンドライン・ビートを効かせたスタイルの先駆者であるプロフェサー・ロングヘアのスタイルを踏襲したものでした。 1934年、ニュー・オーリンズ生まれのヒューイ”ピアノ”スミスが最初に歌を書いたのは、8歳のときで、15歳のときには、ギターのエディ・ジョーンズ(後のギター・スリム)と組んで、ライブ活動をして有名になりました。1952年、18歳でサヴォイ・レコードと契約。53年には、後のニュー・オーリンズ・ファンクの始祖のひとり、アール・キングとも吹き込みをしています。 1955年、スミスは21歳で、スペシャルティ・レコードの新進スター、リトル・リチャードの最初のピアニストになりました。また、同年、ロイド・プライスをはじめ、ニューオーリンズきってのR&Bチャートで大ヒットしたアーティストたちのレコーディング・セッションに参加、特に「ゾーズ・ロンリー・ロンリー・ナイツ」(アール・キング)、「アイ・ヒア・ユー・ノッキング」(スマイリー・ルイス)は、ヒットになりました。 そして、1957年、ついに、女声ボーカルそっくりに歌う風変わりな男性ボーカリスト、ボビー・マーチャンと組んで、自身のグループ、「ヒューイ・ピアノ・スミス&ザ・クラウンズ」を結成。スペシャルティ・レコードのプロデューサー、ジョニー・ヴィンセントのエイス・レコードと契約し、「ロッキン・ニューモニア~」をはじめ、馬鹿馬鹿しくも楽しげな、50年代ニュー・オーリンズを代表する傑作を次々に...

ザ・ファット・マン – ファッツ・ドミノ

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「ワーワーワー♪ みんなが呼ぶのさあ~、オレのこと~を~♪、デブ、デブ、デブ~、おデーブく~ん♪」 1951年の名作「ザ・ファット・マン」を聴き、「くっそー!あんなに格好いいミュージシャンになれるならデブになりたい!」などとわけのわからないことを思ったこともあるオイラです。 さて、T木ブーさんの昔から、今やテレビタレント好感度ナンバー1のI塚さんまで、デブキャラ、日本にもいろいろな方がいらっしゃるようですが、50年代アメリカを石鹸、もとへ、席捲したデブキャラといえば、この人、ファッツ・ドミノ。 まあ、キンキラ衣装にアクセごてごてのアメリカン・デブオヤジですが、その実力たるや世界5本の指に入るほどのすごさ。いや、体重の話じゃありません。 ギネスブックのゴールドレコード獲得数で常時3位を誇るアーティストこそ、ファッツ・ドミノ。これより上は、エルヴィス・プレスリーとビートルズだけ。 (注:2010年の記事です。) エルヴィスのようにセクシーでもなく、ジェリー・リー・ルイスほどワイルドでもなく、初期のビートルズのようにアイドル的だったわけでもなく、リトル・リチャードのようにアグレッシブだったわけでもなければ、チャック・ベリーのように、10代向けのソングライターでもなかった。そんな「木訥とした、昔ながらのニューオルリンズソングとサウンドの後継者」とでも言うべきふとっちょのおっさんがなぜ、こんなにも売れ、しかも、伝説となっているのでしょう。 ひとつだけはっきりしているのは、「当時のニューオルリンズサウンドは、最高だった」ということです。ドミノに限らず最高のサウンドだった。そこには、アフリカやカリブやフランスなど、様々な異文化の交わる融合地点であるニューオルリンズではぐくまれた、伝統ある独特の混血文化が背景にありました。 そして、素晴らしい腕前のミュージシャン(ピアニスト兼歌手)として、めきめき頭角を現し、20世紀後半のニューオルリンズを代表する、たくさんの曲を書いたのが、ファッツ・ドミノと、アレンジャーだったデイブ・バーソロミューのコンビだったのだ、ということではないかと思います。 さてさて、1928年、ニューオルリンズ生まれの「オデブ」こと、アントワーヌ・ドミニーク・ドミノ、育ったのがなにしろ街中に年がら年中生演奏が流れているようなジャズの街、ニューオルリンズです。従兄弟にプ...

ディス・イズ・ニューオーリンズ・サウンド - コジモ・マタッサとデイブ・バーソロミュー

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実は、つい先ごろ、コジモ・マタッサの訃報が入ってきました。88歳だったそうな。 これはていへんだ、ってんで、今回は、全盛期のニューオーリンズサウンドを支えた屋台骨の方々のお話を。 (注:2011年の記事です。) さて、今回のお話の舞台は、ルイジアナ州、ニュー・オーリンズ。わかるかい、そこのおとうさん!げえこくのアメイリカアのでっかい街だ。ね?そこに、むかしむかしの1945年、シチリア系イタリア人のコジモ・マタッサという、歳のころは、18歳のおにいちゃんがいたんだと。え?小島又三郎?え?ばあさんの従兄弟? 違う違う!又三郎じゃねえよマタッサ!ま、た、っ、さ、だよ、またっさ!まさった、じゃねえってば!ババアは耳が遠くていけねえや!ね、なにがおかしいそこのあんちゃん! この又三郎ならぬまたっさが、フレンチ・クオーターなる小粋な街角にあったおとっつぁんが経営するお店の裏で「レコージング・スタジオ」なんてもっと小粋なもんを作っちまったからさあ、ていへんだ!!おまけに、このあんちゃん、日本のクレイジーケン似のいい男ときたもんだ。 とまあ、寅さん節はつかれるのでこの辺で元に戻してと。え?なにがてえへんかって? スターは舞台の最前線で活躍しますが、それを支える裏方さんの功績なくしてヒット曲などあり得ない、っていう話。 ちょうど、同じ時期、同じ場所で、デイブ・バーソロミューという、マタッサより少し年上の黒人青年が、ディキシージャズバンドでチューバを吹いていましたが、トランペットをメイン楽器に変更し、アルヴィン"レッド"タイラー(サックス)、アール・パーマー(ドラムズ)、リー・アレン(サックス)らと新しいバンドを結成しました。 そして、バーソロミューのバンドがマタッサのスタジオでレコーディングを始めたとき、ニューオーリンズの「新しい伝説」がスタートします。 FATS DOMINO & DAVE BARTHOLOMEW IN 2014 バーソロミューは、1947年、デラックス・レコードでレコーディングを経験しましたが、運悪く、会社は倒産してしまい殆ど話題にはならずに終わってしまいます。そして、1949年に彼はルー・チャッドのインペリアル・レコードの下で、編曲家、バンドリーダー、およびタレント・スカウトとして活動するようになり、やがてインペリアルのレコーディング...

街角音楽の今

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さて、初心に帰る。大事ですな。なにごとも新鮮な気持ちで接すると心もさわやかであります、きっと。 そんなとき、やはり違うバージョンであるとか、違うアーティストで聴くというのも一興でございます。 できれば、オリジナルとかけ離れた、ぜんぜんイメージの異なるアレンジがされたものとか、へたっくそなアマものとかでなくて、プロっぽいグレードでオリジナルの通りなんだけど、新鮮だ!というのが理想。 それが割合と自宅でも簡単に見つけられるのが、ストリートミュージシャンの動画です。 まあ片っ端から観るのも大変なので、かなりレベルが高いことがわかっているニューヨークなどの大都市にいるストリートコーナーグループを観てみましょう。 グループ名はわかりません。たいてい書いてないのでわからない。観光客がとってアップしたのかもしれない。 曲はハートビーツの歴史的名作、ユア・ウェイ。 すごいでしょう? こちらはグループ名がありました。the Velvet Candles。かなりの人気バンド。 曲はデューク・オブ・アール。(オリジナルはジーン・チャンドラー) ステージがはねた後の路上ジャムでしょうか。それにしても凄いレベルの高さです。アメリカ恐るべし。 こうした音楽はもともとは黒人音楽でゴスペル起源のものですが、黒人ストリートグループになるとやはり凄みが違う。 荒っぽさが素晴らしい。迫力が違います。曲はジャッキー・ウイルソンのハイヤーアンドハイヤー。 オリジナルの味を再現している人が有名な人でもあまりいないので、こうしたグループの実力の高さには本当に驚いてしまいます。日本人には決して真似できないんじゃないかな。 地下鉄駅というのも大昔からの伝統。ニューヨークの風物詩です。 曲は、タイムスのクラシック、ソー・マッチ・イン・ラブ。 反響のいい建物内を見つけてはアカペラで歌う、というのも定番。こういうのを日常的にやっているなんて素晴らしい。 曲は、リトルアンソニー&インペリアルズのジャスト・ツゥー・カインズ・オブ・ピープル。 つい聴き入ってしまう。つい話も真面目になってしまう。それくらいのパワーを感じます。 器楽演奏の天才も世界のストリートで見つけることができる、と動画配信サイトは教えてくれますが、こうした声の世界はまた格別。 古い伝統スタイルがまったく収入などと関係なさそうなところで、本来の形で生きているの...

ザ・クローサー・ユー・アー - アール・ルイス&ザ・チャネルズ

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「アール・ルイス&ザ・チャネルズは、『ニューヨークのベスト』といわれているけど、違います。彼らは、すべてのグループのベストです。……(中略) 『クローサー・ユー・アー』や『フレイムズ・イン・マイ・ハート』といった、彼らオリジナルのラブソングはまっすぐに心に届くようなもので、私の実際の人生の中で、『本物の親愛』とは何か教えてくれました。……(中略) ドゥーワップ・サウンドは、私たちを、男の子と女の子がもっと、お互いを気遣いあっていた時代へ引き戻してくれます。 50年代は、人生や生活そのものがもっとのんびりしていて、ゆるやかで、恋愛もとてもシンプルで純粋で、現在のように複雑なものではありませんでした。 このCDは、車輪を回し続けるねずみみたいな現代生活から抜け出し、恋や情熱が、もっとずっと人生の重要な事柄だった時代へと引き戻してくれます。 当時は、こんなにせわしない世の中ではなく、今みたいにやたらと不安がる人々はずっと少なくて、子供たちは本当に面白いことが何かよく知っていました。 アール・ルイス&チャネルズのラブソングの数々は、ハッピーで、明るくて、純真で、希望に満ちています。 彼らは今でも、現役で活躍しています。みなさんも、彼らを見て、聴いて、また、『スローダンスの生活』に戻りませんか?」 アマゾンコム(アメリカ)のCDレビューは誰でも投稿できるのですが、これはスーザン・サミーという方が書いたものをわたしが簡潔に訳したものです。彼女はたぶん60代か70代でしょう。わたしは、とても彼女に共感します。 チャネルズは、50年代のドゥーワップグループで、地元では大変よく知られているし、ドゥーワップ名曲選集などのアンソロジーを組めば、必ずといっていいほどとりあげられるグループですが、全国ヒットとは関係ないグループです。 でも、ニューヨーカーなら誰でも知っている「ニューヨーカーズ・スタンダード」とでも言うべき作品をたくさん残しました。最も有名な唄が、「ザ・クローサー・ユー・アー」(1957年)です。 アール・ルイスは、70代ですが、現在も現役バリバリで、活躍中。ちなみに、この人、15年ほど前の定年まで郵便局に勤めていました。現在は、ライブ活動をしながら、自宅で奥さんと作った手作りのCDを、欲しい人に売っているようです。この人の場合、「老後」という感じはしませんが。...

アース・エンジェル - ザ・ペンギンズ

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今日では、20世紀を代表する名作のひとつと言われる、「アース・エンジェル(ウイル・ユー・ビー・マイン)」。1954年だけで、200万枚売ったとされるこの曲を唄ったのは、ザ・ペンギンズ。ロス・アンジェルス拠点の、初期のドゥーワップ・グループのひとつです。 ザ・ペンギンズは「アース・エンジェル」で知られている、というより、「アース・エンジェル」だけで知られている、といったほうがいい。 もっとも、当時のたいていのドゥーワップグループは、「イッパツ屋」でしたが、ペンギンズは、比較にならないくらい「ケタはずれのイッパツ屋」だったと言っていいと思います。 それくらい、「アース・エンジェル」は時代を超越した名曲として評価されているからです。 リリースしたのは、ドゥートーン・レコードで、作者は、カーティス・ウイリアムズ、ジェシー・ベルヴィン、ゲイネル・ホッジ。 この作者3人のうち、カーティスがバリトンヴォーカルを歌い、リーダーをつとめていたヴォーカル・グループが「ザ・ペンギンズ」でした。 「ヒットレコードというのはね、ほとんどは、プロモーションの力で決まるんだよ。ヒットしたということは、プロモーションがうまくいった、ということを意味している。ごく稀に、プロモーションをかけないのに、自然にヒットしていくレコードというのがあるんだ。オレも一度だけ体験したことがある。それが、ザ・ペンギンズの「アース・エンジェル」だよ。」(ドゥートーン・レコードのプロデューサー、ドゥーツィー・ウイリアムズ) ウイリアムズは、プロデューサーとして活躍する前は、プロのトランペッターで、カリフォルニア・ジャンプ・ブルーズの名グループ、ロイ・ミルトン&ソリッドセンダーズにいたこともあるベテランでした。 そのウイリアムズが、「稀だ」、といったとおり、結局、「アース・エンジェル」は、大手レコード会社がとりしきる宣伝活動らしきものいっさいなし、ラジオ番組のディスクジョッキーによせられるリクエストだけで評判が広がり、ビルボードのR&Bチャート第1位を3週間に渡って独占する大ヒット。結果的に500万枚を超える桁ハズレのミリオンセラーを記録しました。 3人の共作と言いましたが、実際の作者はジェシー・ベルヴィン、というのが定説のようです。ベルヴィンはとても目録化不可能といわれるほど、西海岸のリズム&ブルーズ界で活躍した重要人物...

ビッグ・バンド・ドゥーワップ  ー ザ・デュプリーズ

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ウイリアム・L・ディキンスン高校の生徒だった、マイケル・アーノンを中心に、ジョー・サントロ、ジョン・サルヴァート、トム・ビアログロウ、ジョーイ・ヴァン(カンザーノ)が集まって結成されたデュプリーズ。彼らの特色は、大ヒットになった「ユー・ビロング・トゥ・ミー」に代表される、フランク・シナトラ、ジョー・スタフォード、ナット・キング・コールなどの唄ったラブソングの名曲、50年代以前のポップ曲を題材にし、しばしば、グレン・ミラー風ビッグバンド・アレンジメントにコーラスワークを乗せた独特のサウンドを作り上げた、という点にあります。彼らは、まだティーンネイジャーのアマチュア・グループだった当初から、古いバラード曲をドゥーワップに焼き直すというコンセプトで自分たちでスタイルを築き上げ、売り込みをし、有名になっていった、独立独歩のグループでもありました。   さて、デュプリーズ物語の発端は、1958年。よくある、高校生の話。 ジョーイ・ヴァン(カンザーノ)とトム・ビアログロウは、ブライアン・モラン、ジャッキー・スミスと「ユートピアンズ」というヴォーカル・グループを立ち上げました。 ジャージー・シティで少し名が出たのと同じころ、エルジンズというグループが同じエリアでのしてきていて、そちらはジョー・サントロ、マイク・アーノン、ガス・サレルノ、ジョー・カタルド、マイク・アマトがメンバー。2つのグループは、ジャージー・シティのディキンソン高校の友達仲間でしたが、1960年、どちらも高校卒業時に解散。エルジンズのジョー・サントロとマイク・アーノンは、友達のジョン・サルヴァートと別のグループを作ることにし、ユートピアンズのジョーイ・ヴァンとトム・ビアグロウに声をかけ、出来たグループをパリジャンズと名付けました。   その後、2年間、彼らは、それぞれの実家を練習場にしながら、練習に励み、ジャージー・シティのローカルな店でギグをして力をつけていきました。 レコード会社売り込み用のデモ録音もたくさん作った。その中には、後にヒットすることとなる「マイ・オウン・トゥルー・ラブ」や「セプテンバー・レイン」、「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」も入っていました。選曲をみれば、すでに当初から、1940~1950年代前半のポップソングを題材にした、「60年代時点でのオールディーズ・リバイバル・グルー...

シックスティーン・キャンドルズ ジョニー・マエストロ&ザ・クレスツ

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今年(2010年)の3月26日、ニューヨーク出身の偉大な歌手、ジョニー・マエストロが、70歳で亡くなりました。 今をさかのぼること、51年前の1959年、全米第2位でゴールドディスクになった不朽の名作、「シックスティーン・キャンドルズ」を唄ったドゥーワップ・グループ、ザ・クレスツのリード・ヴォーカリストです。その後、ソロとして、また、1968年からは、自身が結成した11人編成のドゥーワップグループ+ブラスバンドである「ブルックリン・ブリッジ」でも、ゴールド・ディスクを獲得するなど、ドゥーワップの枠を超えて、ポップ音楽を代表する偉大な歌手のひとりでありました。 さて、そのザ・クレスツは、1956年、ニューヨークで結成されたグループで、50年代後半の、最も優れたヒットメーカーのひとつとして知られています。 オリジナルのクレスツは、同時期に活躍したデル・ヴァイキングスと同じく、当時は珍しかった人種混合グループで、黒人3人、プエルトリコ人1人、そしてイタリア系白人1人から成っていました。 最初に彼らが会したのは、マンハッタンのジュニア・ハイスクールで、1955年のこと。当時の多くのアマチュア・ドゥーワッパーの例にもれず、彼らもまた、天然エコーを求めて、ブルックリンブリッジ駅の構内で練習しているところを、バンド・リーダーだったアル・ブラウンの奥さんに認められ、ブラウンがジョイス・レコードと彼らを契約させるところから、ザ・クレスツのストーリーは始まります。 結成したのは、黒人メンバーのJ・T・カーターで、メンバーは、タルモッジ・ガフ、ハロルド・トレス、パトリシアン・ヴァン・ドロス(R&Bのルーサー・ヴァン・ドロスの姉)。 カーターは、もうひとり、イタリア系のジョニー・マストランジェロ(後にステージネームをマエストロと改名)を加入させ、リードを唄わせることにしました。 ザ・クレスツは、1957年、ジョイス・レコードから小ヒット「スイーテスト・ワン」を出した後、ニューヨークのソングライター、ビリー・ダウン・スミスに紹介されたコード・レコード(ジョージ・パクストンが経営するレコード会社で、他のヒットボーカルグループにデュプリーズがいた。)に移籍、ここでルーサー・ディクスン作の「シックスティーン・キャンドルズ」を吹き込むことになります。 16歳の恋心をロマンティックに唄った、簡素で素晴...

アワ・トゥルー・ストーリー ー ユージーン・ピット&ザ・ジャイブ・ファイブ

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  当年とって73歳のユージーン・ピットは、大声で楽しそうに笑いながら、言っています。  「俺は、ビーチ・ミュージックが大好きなんだよ。カリフォルニアでは誰もが楽しいことを求めていて、音楽はアップテンポで、踊るわけさ。昔は、ビバップとか、スイングだったけどな。」  ユージーンの最新作は大好きなビーチ・ミュージックをとりあげた、「ステッピン・アウト」で、昔からのドゥーワップ仲間であるリチャード・ホーリハンがプロデュース。もうひとりのプロデューサーは、ボビー・ジェイで、彼も1957年から活躍するドゥーワッパー。最近では、伝説的なドゥーワップグループであるティーン・ネイジャーズ(フランキー・ライモンのティーンネイジャーズ)と行動をともにしているベテラン。  そんな現役バリバリのシンガーである、ユージーン・ピットは、かつての名ドゥーワップグループ「ジャイヴ・ファイヴ」のリーダーであり、1961年の大ヒット、「マイ・トゥルー・ストーリー」で知られています。  「俺は、1937年11月にブルックリンで生まれたんだ。俺の親父はクリスチャンで、ゴールデン・ゲイト・カルテットでゴスペルを唄っていたのさ。」  しかし、ユージーンの最初のアイドルは、当時のティーンネイジャーらしく、フランク・シナトラとナット・キング・コールでした。  「だけどな、俺が歌いだしたときは、俺はオヤジに4人の姉貴のところに連れて行かれてね、どうやってハーモニーを唄うのか、仕込まれたわけだよ。そして、俺たちは、家族でゴスペル・グループを作ったわけさ。それから数年、教会に行って唄うのが日課になった。だけど、おふくろが亡くなってね、それでグループは解散したんだよ。」  「17歳のときに、俺は、初めてストリートコーナーで歌うようになった。近所の連中を集めてね。自分たちのことを、アクロンズって名づけたんだ。そのグループには、レイ・マーフィ(俳優エディ・マーフィの伯父)と、マーフィの兄貴でエディの親父の、チャールズ・マーフィ、そして、俺と、サンティ・ショウ、モンロウ・ショウ、俺の兄貴たち。だけど、レコーディングするところまではいかなかったな。」  アクロンズでの活動の後、ユージーンは、ジイニーズというグループに加わりますが、メンバーの一部が引越した際、引越し先に、もうひとつのジイニーズができ、そちらのほうが、「フー...

1942年の「ソウル・ミュージック」 ー ザ・5ロイヤルズ

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 「俺たちは、彼らの音楽で育ったのさ。「シンク」は、いくつものファンキーなフレーズで出来ている。俺は、同じフレーズをマーキーズで使わせてもらったし、とにかく、ザ・5ロイヤルズのギタリスト、ロウマン・ポーリングのサウンドはファンキーでガッツがあった。ヤツは、リードとリズムをうまく使い分けるんだ。俺がいつもやっているようにさ。」(スティーヴ・クロッパー)  もともと、ザ・5ロイヤルズは、単にドゥーワップグループである以前に、地元ノース・キャロライナ州、ウインストン・サレムで長い歴史のあるゴスペルグループで、そこにジャンプ・ブルーズ、ドゥーワップを混ぜ合わせて、最も初期のソウル音楽につながる独自性の強いサウンドを作り出しました。  グループの歴史をさかのぼると、ドゥーワップグループとしてヒットを出す前まで、ゴスペルグループとしての歴史は、10年以上に及んでおり、結成は、1942年。  50年代初頭には、アポロレコードからロイヤル・サンズ・クインテットの名でレコーディングを開始しており、メンバーは、ポーリングの他に、ヴォーカリストとして、ジミー・ムーア、オバディア・カーター、オットー・ジェフリーズ、そしてジョニー・タナーから成っていました。 (後年、タナーの弟、ユージーン・タナーがジェフリーズと交代しています。)   アポロ当時のサウンドにもっとも近いのが、このCD(KINGレコード音源)中では「ONE MISTAKE」。  「ONE MISTAKE」を聴くとわかりますが、いかにもドゥーワップ的なクァルテット・スタイル(リードをコーラスが支える構造のアレンジ)、と、ゴスペル特有の「ジュービリー・スタイル」をうまく1曲の中で使い分けており、ジュビリースタイルのうまさは、他のグループを大きく引き離しているほどうまい。  彼らのアポロ時代のヒットは、ほとんどが1952年と1953年で、すべてがギタリストだったロウマン・ポーリングの手によって書かれました。  普通、ドゥーワップというと、アカペラもたくさんあり、「シンガー中心の世界」といえますが、このグループをひっぱっていたのが、ギタリストで、しかも、それが、冒頭のスティーブ・クロッパーの発言のとおり、歴史に名が残るような先駆的名手だったところが、5ロイヤルズの、あまり知られていないオイシイところだともいえます。  1953年には、...

必殺!ザ・コースターズのお笑いDOO WOP天国

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愉快な唄は数々あれど、痛快なロックソングとお笑いって、相性がいいようで、意外と例を思いつかないのであります。 一時期、マイケル・ジャクスンのパロディで有名な、アル・ヤンコビックなんて人も有名になりましたが、ベタ甘のピーナッツペーストにジャムを重ねたサンドイッチくらいコテコテ過ぎて、ちょっと笑えない、というあなた! お笑いといったら、50年代!!コースターズがいるではありませんか! 歴史を辿ってみると、お笑いは音楽芸能においても、非常に重要な役割を果たしてきており、日本の演芸から、アメリカのミンストレルショウまで、かならずお笑いがついてまわります。 ジョージ・フォーンズビイ(イギリスのヴォードビリアン、歌手、ウクレレ奏者)、牧伸二、玉川カルテット、横山ホットブラザースなどの楽器漫談、エディ・フォイ(歌手、ミンストレルショウのリーダー)のような音楽まじりのコミックショウ、スパイク・ジョーンズ(ジャズバンドリーダー)や我が国のフランキー堺&シティスリッカーズのような冗談音楽など、枚挙にいとまがありません。 しかし、こうした古いスタイルの「演芸系」と比べると、歌詞そのものがオバカな、笑えるロックソングというのは、考えてみてもあまりないような気がします。 そんななかで、必殺爆笑ロックは、ザ・コースターズをおいて他にない! ザ・コースターズは、50年代に活躍したドゥーワップ・グループで、もともとはロビンズという、ジャンプ・ジャイブ系の曲を売り物にしたグループが母体になっています。 ロビンズの最も古い愉快な唄は、1953年の「ライオット・イン・セル・ブロック・ナンバーナイン」(第9号監房の騒乱)という刑務所の脱獄をテーマにしたノベルティソングで、リチャード・ベリーの野太い声のおしゃべりをフューチャアしていました。 鼻にかかったハードボイルドな語りが、当時のギャング映画音楽のパロディめいたリフに乗って、凶悪、かつオバカなノリでだらだら続きます。 後にこの路線を引き継いでいるのは、ブルース・ブラザースでしょう。 続いて出たのが、最近、同タイトルでミュージカル化され、今、ブロードウェイでロングランになっている「スモーキー・ジョウズ・カフェイ」。 どやどやした、狭い真夏のバーの様子といった感じをよく捉えていて、コメディソングではないものの、カール・パーキンズの名作、「ディキシー・フライド...

ドゥーワップ株式会社物語 ー ザ・ドリフターズ

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ザ・ドリフターズ、なわけですよ。 オーッス!ババンババンバンバン♪・・・歯みがけよー・・・じゃあないんですけども。 やあ、困ったなあ、これは。聴けば極楽、観れば天国、語るは地獄・・なんですよ、ドリフターズはね。これは無理だぜ、ベイベエー、ってことで避けてきたんです。 理由は簡単で、ニューヨークで1953年に結成されて以来、最もよく知られているドゥーワップ~R&B~ソウルヴォーカル・グループなんですが、あまりに歴史が長く、解散、分離、統合などを繰り返しながら、まるで会社のように「屋号」が生き延びているので、全然異なる音楽性の、様々な「ドリフターズ」が存在するからです。 代表的なリード歌手は、ベン・E・キング、クライド・マクファターですが、この2人だけで本2冊は書けちゃうくらいの人ですし、歴代のメンバーを書いただけで、このコラムの字数が埋まってしまうほどの歌手数(65名)だったりします。ヒット曲の売り上げ総数にいたっては、シングルが2億1400万枚、アルバムですら、1億1400万枚という・・・なんか、もう、書くのもアホらしくなるくらいのスーパー、いや、もはや「妖怪グループ」なわけ。 主立ったドリフターズは、1953年結成の、リード歌手、クライド・マクファターと彼のバッキング・グループから成る「オリジナル・ドリフターズ」。もうひとつは、ベン・E・キングがいた「ドリフターズ」の二つ。3つ目は、「8時だよ!全員集合!」の・・・いや、三つ目はウソ。ま、とにかく、このふたつにでも絞らないととても説明し切れないだろうと思います。途中途中で違うのも混じっては来ますが、あー、めんどくせー、この原稿投げてしまいたーい。 1 オリジナル・ドリフターズ ビリー・ワード アンド ザ・ドミノウズのリード歌手だったクライド・マクファターは、ドミノウズ加入前の1950年にアポロシアターでデビューした当時から、ずば抜けて人気のあるテナー歌手で、オンナのコたちの黄色い声援に守られて、独立を目指していました。 えー、さて、話の発端は1953年春のある晩のこと。マクファターが抜けた後のドミノウズがバードランド(ジャズで有名なライブハウス)に出演したときに、たまたま来ていたアトランティック・レコードの社長、アーメット・アーティガンが、マクファターがいないことに気づきました。 「あららららーっ?オタクの大スター...

フィリー・ソウルの神髄 ー スリー・ディグリーズ

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70年代、アメリカですごく流行ったサウンドに「フィラデルフィア(フィリー)・ソウル」というのがあるのをご存じでしょうか。 流麗なストリングスが情熱をかきたてるような甘くてソフトなソウルサウンド。60年代ソウルのイメージがどちらかというと、管楽器が中心になり、粗削りで、ガッタガッタと突き進んだり、もしくはコーニイにまとまった渋いサウンドなのに対し、フィリーはとても都会的でゴージャスでロマンティックな感じです。 これは、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードのハウス・バンドによるものでした。 背景としては、フィラデルフィアでは、黒人人口が多い割にはソウルは栄えず、アイドル歌手等による白人のポップ・ミュージックのほうが受けていたらしい。70年代以前にフィラデルフィアで勢力があったレーベルはキャメオ・パークウェイ。チャビー・チェッカーで当てたところで、流行のダンス・ミュージック中心で白人受けを狙ったものでしたが、このレーベルも1968年には倒産。 そこで、70年代の公民権運動の盛り上がりもあってか、より黒人向けのフィアラデルフィア。サウンドを目指したのが、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードだったということのようです。 アーティストは、オージェイズ、ビリー・ポール、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツや、後にソロとなったテディ・ペンダーグラスなど。 さて、そんななかで、ひときわ忘れがたい、フィリー・ソウルを代表する、そして、日本でも極めて有名なのはスリー・ディグリーズ。 1963年頃にペンシルベニア州フィラデルフィアで結成されたグループです。 延べ15人のメンバーが入れ替わり立ち代わりしていますが、編成はトリオです。現在でも現役(ヴァレリー・ホリデー、ヘレン・スコット、フレディ・プール)。ホリデーは1967年、スコットは本当のオリジナルメンバー(1963年ー1966年)で1976年以降不動。特に英国で成功し、1974年から1985年の間に13のトップ50ヒットシングルを達成しています。 最初のメンバーは、ファイエット・ピンクニー(故人)が中心で、1967年から1976年までのグループの最大のヒット曲のほとんどはピンクニー、ヴァレリー・ホリデー、シェイラ・ファーガソンです。特に、わが国でも大ヒットした1974年大シングル「天使のささやき」(アメリ...

ミスター・エキサイトメント ー ジャッキー・ウイルソン

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ソウル音楽といえば、ノリノリでエキサイト! エキサイトといえば、「ミスター・エキサイトメント」こと、ジャッキー・ウイルソンであります。 今回は、トップ100に55曲、トップ40に24曲を送り込んだ大スターにして、史上、最も偉大なソウル歌手のひとり、ジャッキー・ウイルソンのお話。 ウイルソンは、1934年、ミシガン州のデトロイトで生まれ、ハイランド・パークで育ちました。まったく同じところの出身者に4つ年上のビル・ヘイリーがいます。 子供のころから、唄うのが大好きで、10代のはじめには、ゴスペルグループを作って教会で唄ったりしていたのですが、信心なんて露ほどもなく、ただ、安物ワインを買う金が手に入ったからだったといいます。 ガキのころから大酒食らってるんだからロクなもんじゃないが、イケメンで、モテモテ、めちゃめちゃ生意気なやつだったウイルソン、世間が許しておくわけもありません。 おまけに、シェイカーズというストリート・ギャング団まで率いていたウイルソンは、とうとう、少年院送りになりましたが、そのとき、更正担当のえらい人から「人殴るんなら、合法的に殴れ!」と、青春テレビドラマのようなことを言われたのか、ボクシングをやりはじめます。 やるときゃ、とことんやる!ってのが悪ガキのウイルソン、16歳でデトロイトのチャンピオンにまでなるのですが、勢い余って、17歳でうっかりできちゃった婚。 しょうがねえな、じゃあ、子供のためにも、ボクシングなんて野蛮なことはやめて音楽だ、ベエベエ!と思ったのか、従兄弟のレヴィ・スタッブス(のちに、フォア・トップスのリード・ヴォーカルとなる)と一緒にヴォーカル・グループを組んで音楽を始めるのです。 そして、運良く、当時、「リズム&ブルーズのゴッドファーザー」と言われていた大物プロデューサー、ジョニー・オーティスにたちまち才能を認められたウイルソンは、スリラーズ(のちの、ドゥーワップグループ、ロイヤルズ)というグループの一員として契約させられるのですが、実際の参加はせずじまい。 そして、当時、大人気だったヴォーカル・グループ、ドミノウズが、人気リード歌手、クライド・マックファター脱退のため、歌手を募集していたところ、ウイルソンはオーディションに見事合格、ドミノウズの看板歌手となり、「セント・テレサ・アンド・ローズィズ」をヒットさせます。 そして、195...

ママ、アイ・ウォント・トゥ・シング -ドリス・トロイの物語

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ドリス・トロイ(1937年1月6日〜2004年2月16日)は、多くのファンに「ママソウル」として知られるアメリカのR&Bシンガー兼ソングライターでした。 目立つヒットは「ジャスト・ワン・ルック」のみで、「最も才能ある一発屋」と言われることもありますが、この人は後にそれとは関係なく、伝説となりました。それはある物語の主人公として、です。 さて、彼女の最大のヒットは、1963年のトップ10ヒットである「ジャスト・ワン・ルック」で、これはのちに最も多くカバーされたR&B曲のひとつとなっています。 Doris Troy - Just One Look ホリーズ、フェイス、ホープ&チャリティー、メジャー・ランス、リンダ・ロンシュタット、ブライアン・フェリー、アン・マレー、クラウス・ノミ、ハリー・ニルソンなどなどキリがありませんが、われわれ世代でとりわけ記憶に残っているのは、リンダ・ロンシュタット版ではないでしょうか。リンダの曲だと思われていることが多いと思います。 Just One Look (Linda Ronstadt 2015 Remaster) ドリス・トロイはブロンクスのハーレム生まれ。彼女の両親はペンテコステ派の教会の人であって、リズムやブルースのような音楽を認めなかったらしく、ティーンのころは父親の合唱団で歌いながら、リズム&ブルースで有名なアポロ劇場では案内係のアルバイトとして働いていたのだそうです。 その後、持前の歌唱力を活かしてレコーディング業界に入り、トロイはディオンヌ&ディーディー・ワーウィックとともにアトランティックレコードのバックアップボーカリストとして働くことになります。 彼女は1963年にThe Sweet Inspirationsの最初のメンバーとして、ソロモンバーク、ドリフターズ、ディオンヌ・ワーウィックなどのバックアップボーカルを歌った後、自作曲「ジャスト・ワン・ルック」を1963年のUSビルボードホット100で10位になる大ヒットにします。この、一度聴いたら頭から離れなくなってしまう魅惑的なメロディとリズムの曲は時代を超えてヒットしつづけ、今ではスタンダードになっています。 この曲は、1962年10月にプロデューサーのバディルーカスがアトランティックレコードのデモとして10分で録音したもの。 アトランティックはデモを聞いた後、再...

ザ・シャンテルズ ー 世界最初のロックガールグループ、ブロンクスへの帰還

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  2019年の4月5日、ゴールドレコードになったMAYBEの大ヒットで初期のロックンロール史に不滅の足跡を残したザ・シャンテルズは、ブロンクスのイースト166thストリートにあるパドヴァ教会で演奏しました。 ここは、彼女たちにとって始まりの地。小学生だった彼女たちが初めて人前でグループとして演奏した場所だったのです。 グループ名のシャンテルズは、ここの名前(school St. Frances de Chantal)からきています。 そして、この日、ニューヨーク市は、イースト166番通りとプロスペクトアベニューの角にある通りの名前を「シャンテルズ メイビー1958」に改名しました。 かつて、5人のオリジナルメンバー(アーリーン・スミス、ソニア・ゴーリング・ウィルソン、レニー・マイナスホワイト、ロイス・ハリス・パウエル、ジャッキー・ランドリー・ジャクソン)がパドヴァ小学校の聖アントニーに出席し、合唱団のメンバーとして出会い、シスターの指導の下で一緒に歌うことを学びだしてから、60年以上がたっていますが、この日は97年に亡くなったジャクソンを除くオリジナルメンバーがそろいました。 「今日の再会は、ロックンロールの殿堂入りしたときよりうれしかったわ。」                      ハリス・パウエル(オリジナルメンバー) THE CHANTELS "MAYBE" 2019 ザ・シャンテルズは、ヒットチャート入りした最初のアフリカ系アメリカ人の女性グループであり、また、同時にカトリック学校の合唱団から出てきた唯一のグループと言われています。 確かに、「Maybe」、「Every Night」、「The Plea」、「Prayee」など、多くのヒットは、どれも祈りに言及していて、教会グループとしてのルーツを感じさせるものが多いです。しかしながら、のちのソウルグループについて、よく言われたように、ゴスペルシンガーが転じていったものでないんです。 シャンテルズはクラシックとラテン音楽をもともと下地に持つグループでした。リードのアーリーン・スミスは音楽の神童で、12歳のときにクラシック音楽の歌い手としてカーネギーホールに出ています。それに楽器を演奏もすれば、作詞作曲の才にも恵まれていました。初期の素晴らしい音源は彼女のオリジナル曲(例:ヒーズ・ゴー...