キング・オブ・ニュー・オーリンズ・ピアノ ~ ヒューイ”ピアノ”スミス



1950年代のニュー・オーリンズ音楽の一番おいしいところを一手に魅せてくれるのが、ヒューイ”ピアノ”スミス&ザ・クラウンズ。

彼らの2大レコードは、お笑いビョーキネタソングの「ロッキン・ニューモニア・アンド・ザ・ブギウギ・フルー(ロッキン肺炎とブギウギ風邪)」(1957年)、同じくビョーキネタの「ハイ・ブラッド・プレッシャー」(高血圧)と両面ヒットになった「ドント・ユー・ジャスト・ノウ・イット」(1958年)。どちらも、立派なミリオンセラーで、ゴールド・ディスクになっています。




ピアノ・スミスの演奏スタイルは、当時大変な影響力を持ち、ロックの形成にも大きな役割を果たしたと言われています。それは、ピート・ジョンスン、ミードラクス・ルイスといった古いブギウギとジェリー・ロール・モートンのジャズなどを基にし、そこにニュー・オーリンズR&B特有のセカンドライン・ビートを効かせたスタイルの先駆者であるプロフェサー・ロングヘアのスタイルを踏襲したものでした。


1934年、ニュー・オーリンズ生まれのヒューイ”ピアノ”スミスが最初に歌を書いたのは、8歳のときで、15歳のときには、ギターのエディ・ジョーンズ(後のギター・スリム)と組んで、ライブ活動をして有名になりました。1952年、18歳でサヴォイ・レコードと契約。53年には、後のニュー・オーリンズ・ファンクの始祖のひとり、アール・キングとも吹き込みをしています。

1955年、スミスは21歳で、スペシャルティ・レコードの新進スター、リトル・リチャードの最初のピアニストになりました。また、同年、ロイド・プライスをはじめ、ニューオーリンズきってのR&Bチャートで大ヒットしたアーティストたちのレコーディング・セッションに参加、特に「ゾーズ・ロンリー・ロンリー・ナイツ」(アール・キング)、「アイ・ヒア・ユー・ノッキング」(スマイリー・ルイス)は、ヒットになりました。

そして、1957年、ついに、女声ボーカルそっくりに歌う風変わりな男性ボーカリスト、ボビー・マーチャンと組んで、自身のグループ、「ヒューイ・ピアノ・スミス&ザ・クラウンズ」を結成。スペシャルティ・レコードのプロデューサー、ジョニー・ヴィンセントのエイス・レコードと契約し、「ロッキン・ニューモニア~」をはじめ、馬鹿馬鹿しくも楽しげな、50年代ニュー・オーリンズを代表する傑作を次々にヒットさせます。


1958年には、「リトル・チキン・ワーワー」、「ウエル、アイル・ビー・ジョン・ブラウン」、「ドント・ユー・ノウ・ヨコモウ」、「リトル・ライザ・ジェーン」などが続き、「ドント・ユー・ジャスト・ノウ・イット」、そして「ハイ・ブラッド・プレッシャー」で2枚目のゴールド・ディスクを獲得。




1959年には、フランキー・フォードがスミス作の「シー・クルーズ」(実際は、スミスのボーカル・パートをフォードのボーカルに入れ直しただけ)がポップ・チャートで大ヒットと快進撃が続きました。


60年代に入り、スミスは、デイブ・バーソロミューの誘いで、インペリアルに移籍しますが、ヒットは出ず、何度かカムバックを果たそうとしましたが、うまくいかずに「エホバの証人」に入信して、音楽業界を去りました。この手の音楽ファンとしては、大変残念なことですが、スミスはその後、まったく姿を見せることなく現在に至っています。

2022年追記:

2000年にリズム&ブルース・ファウンデイションにてパイオニア・アウォードを受賞。久々に姿を見せた。さらに、数年後、ルイジアナブルースの殿堂入り。その際、スピーチで「わたしの功績などではない。重要なのは、わたしではなくて、クラウンズのメンバー、ボビー・マーチャン、ルーズヴェルト・ライト、カーリー・ムーア、ジョン・ウイリアムスだ。」と述べた。

(2011年の記事)


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