ザ・ファット・マン – ファッツ・ドミノ



「ワーワーワー♪ みんなが呼ぶのさあ~、オレのこと~を~♪、デブ、デブ、デブ~、おデーブく~ん♪」


1951年の名作「ザ・ファット・マン」を聴き、「くっそー!あんなに格好いいミュージシャンになれるならデブになりたい!」などとわけのわからないことを思ったこともあるオイラです。


さて、T木ブーさんの昔から、今やテレビタレント好感度ナンバー1のI塚さんまで、デブキャラ、日本にもいろいろな方がいらっしゃるようですが、50年代アメリカを石鹸、もとへ、席捲したデブキャラといえば、この人、ファッツ・ドミノ。

まあ、キンキラ衣装にアクセごてごてのアメリカン・デブオヤジですが、その実力たるや世界5本の指に入るほどのすごさ。いや、体重の話じゃありません。

ギネスブックのゴールドレコード獲得数で常時3位を誇るアーティストこそ、ファッツ・ドミノ。これより上は、エルヴィス・プレスリーとビートルズだけ。

(注:2010年の記事です。)


エルヴィスのようにセクシーでもなく、ジェリー・リー・ルイスほどワイルドでもなく、初期のビートルズのようにアイドル的だったわけでもなく、リトル・リチャードのようにアグレッシブだったわけでもなければ、チャック・ベリーのように、10代向けのソングライターでもなかった。そんな「木訥とした、昔ながらのニューオルリンズソングとサウンドの後継者」とでも言うべきふとっちょのおっさんがなぜ、こんなにも売れ、しかも、伝説となっているのでしょう。


ひとつだけはっきりしているのは、「当時のニューオルリンズサウンドは、最高だった」ということです。ドミノに限らず最高のサウンドだった。そこには、アフリカやカリブやフランスなど、様々な異文化の交わる融合地点であるニューオルリンズではぐくまれた、伝統ある独特の混血文化が背景にありました。

そして、素晴らしい腕前のミュージシャン(ピアニスト兼歌手)として、めきめき頭角を現し、20世紀後半のニューオルリンズを代表する、たくさんの曲を書いたのが、ファッツ・ドミノと、アレンジャーだったデイブ・バーソロミューのコンビだったのだ、ということではないかと思います。


さてさて、1928年、ニューオルリンズ生まれの「オデブ」こと、アントワーヌ・ドミニーク・ドミノ、育ったのがなにしろ街中に年がら年中生演奏が流れているようなジャズの街、ニューオルリンズです。従兄弟にプロのピアノ奏者がいて、彼からひととおりピアノのレッスンを受けていました。

「ニューオルリンズはうまい食い物の宝庫!食べるのも大好きだけど、ピアノも大好きなのさあ~♪」と陽気なオデブのファッツくん、子供の頃から街中に出ては演奏し、音楽で日銭を稼ぐなんてのが当たり前の土地柄ですから、ふらふらあちこちで活動をしているうち、地元の有名クラブ「ハイダウェイクラブ」に出演するようになります。

「おれえわああ~、オデブだけどもお~、ピアノがうまいオデブなのさあ~♪」なんて陽気に歌いながらガンボだのフライドチキンだの食ってばかりいたんでしょう・・・まあ、適当な想像ですが、とにかく、めきめきとお腹も人気も出てきたわけです。

そんなとき、同じクラブに出ていた名バンドリーダーのデイブ・バーソロミューが知り合いのルー・チャッドを連れてきたのです。チャッドは、西海岸の独立会社、インペリアルレコードを始めたところで、どーんと稼げるニュー・アーティストを物色中。そこで、このイカすオデブくんにすかさず目をつけた。


「こ、この・・デブは・・すげえ、かっくいいじゃん・・・ナイスじゃん・・」と言ったに違いないチャッドさん、早速ファッツと契約するのです。

なんか、デブ、デブ、ばかり言っていてすいませんが、決して悪いことじゃないと思うんですよ。スタイルよくてもヤなやつ一杯いますし、オデブでもかっこいいやつはかっこいいんですから!

んなこたあどうでもいい、とにかく、ファッツ・ドミノ、自分を紹介してくれたバーソロミューと組んで、とうとう、1951年、インペリアル・レコードから自作の持ち歌、「ザ・ファットマン」(そのまんま・・)をリリース、大ヒットになり、一躍有名になるのでした。




「ファットマン」は、ニューオルリンズ特有のバンド・サウンドを、40年代流行だったジャンプ・ブルーズスタイルと結びつけたものでしたが、この大ヒットによって、50年代半ばのロック創生期に大きな影響を与えたニューオルリンズR&Bは全国的に注目を集めるきっかけとなります。さらに、これは、後年、ヘヴィなバックビートにロールするピアノと叫ぶようなヴォーカルをフィーチャーしており、「最も初期のロック・レコード」とも言われるようになるのです。


ドミノは、1950年代前半、ニューオルリンズ独特の文化、宗教的背景をもとに、後に続くヒット曲群(「ヘイ・ラ・バ・ブーギ」、「マルディグラ・イン・ニューオルリンズ」など)を、曲の共作者、プロデューサー、アレンジャーである、トランペット奏者のデイブ・バーソロミューと組んで、作り上げていきました。

これが、大変な勢いでウケて、全国に人気が広がっていったのです。さらに、テナー・サックスのハーブ・ハーデスティとアルヴィン”レッド”タイラー、リー・アレン、ドラムズのアール・パーマー、ベースのフランク・フィールズ、ギターのアーネスト・マクリーンといった一流のミュージシャンがほとんどのレコーディングに付き合っており、これだけでもヒット間違いなしのスーパーなサウンドでもありました。


そんなR&Bヒット群の中、1955年、遂に、「エイント・ザット・ア・シェイム」によって、R&Bチャートの枠を突破し、ポップチャートに食い込みます。また、1956年の、ジーン・オートリイやルイ・アームストロングの旧い曲の焼き直しである「ブルーベリー・ヒル」は、ポップチャートの第2位を記録。R&Bチャートでは第1位で、500万枚以上を売り上げる世界ヒットになりました。


その後も、大ヒットは続きます。





「アイム・レディ」、「アイム・ウォーキン」、「ホェン・マイ・ドリームボート・カム・ホーム」、「ブルー・マンデイ」、「マイ・ガール・ジョセフィーヌ」などなど。

また、「ブルーベリー・ヒル」のみならず、「マイ・ブルー・ヘブン」など、旧い楽曲をロック風にアレンジするのもファッツのお手の物でしたし、ファッツの人気はとどまるところを知らない勢い。





1950年代末、さまざまなスキャンダルや悲劇がロックスターを襲った時期にも、ファッツだけは、無傷でした。それも、いかにも親しみやすく、スキャンダルとも無縁ないい人っぽいオデブキャラも大きく影響していた、という人もいます。

いずれにせよ、50年代前半から、地元を離れることのない、伝統的なニューオルリンズ・サウンドを支えた土着の大スターであったファッツ・ドミノは、後からやってきたロックブームの中で、なぜかロックスターに祭り上げられてしまったひとりだと言えます。


結局、ドミノは、インペリアルが売却される1962年までとどまり、60年の「ウォーキン・トゥ・ニューオルリンズ」(作者はボビー・チャールズ)までに、60曲のシングルをリリース。そのうち、40曲がR&Bトップ10入り、、11曲がポップチャートのトップ10に入り、37曲がトップ40に入るという、まさに、「50年代最大のヒットソングメーカーのひとり」となり、「シェイク・ラトル・アンド・ロック」や「女はそれを我慢できない」といった、ロックンロール映画にも出て、世界規模の名声を手に入れるのですが、60年代に入って流行のサウンドが変質してきてから、さすがのドミノにもヒットにかげりが見えだしました。


そこで、ドミノは、1963年、パラマウントレコードに移籍しますが、ここは、ナッシュヴィルが本拠地なので、プロデューサーとアレンジャーが、フェントン・ジャーヴィスとビル・ジャスティスに交代します。

このふたりは、カントリー&ウエスタンの専門家であり、その畑ではたいしたプロデューサーなのですが、R&Bは専門外で、馬鹿受けの大きな要因であった、ドミノらしいニューオルリンズ特有のR&Bサウンドを、コーラス隊付きの、カントリーフレイヴァーをとりいれたものにしてしまい、これが大失敗のもと。まったく当たらず、1964年の「イギリス襲来」でドミノのヒットは止まってしまいました。

パラマウントを辞めて、様々なレーベルを渡り歩きつつ、かつての盟友デイブ・バーソロミューと組み直したドミノは、1970年までレコーディングを続け、地元ニューオルリンズを中心にライブ活動を続けました。この時期ファッツを大好きだったビートルズの連中がドミノへのオマージュソング「レディ・マドンナ」をヒットさせたりして、ドミノは後続のロックミュージシャンに多大な影響を与えたアーティストとして再評価されていきます。1968年には、レディ・マドンナをファッツ自身がカヴァーして久々のヒットを放ったりしました。

その後のファッツは、ニューオルリンズから離れた活動は停止。というのも、豊富な印税収入で、大金持ちなうえ、元来、ツアーが大嫌い。特に食べ物にうるさく、地元のお気に入りの店でしか食べたくない!という、いかにも「ファットマン」らしい言い分があったようですが、実質的に裕福な隠退生活に入り、地元のオムニ・アトラクションズと契約し、遠くてもテキサス止まり、というコンサート活動のみを続けます。

ドミノは、私生活では、昔からニューオルリンズの低所得者層が多く住む、庶民的なロウワーニンスワード地区に居を構えており、50年代の全盛期以降は、ずっと地元を中心にした活動に終始してきていますが、1987年には、その歴史的な功績の大きさから、グラミーのライフタイムアウォードを受賞、2004年には、ローリングストーンの最も偉大なアーティスト100の25位に選ばれてもいます。




近年では、2005年、ハリケーンカトリーナがニューオルリンズを襲い、大きな災害に見舞われた際、ドミノの家は水で陥没、行方不明となり、一時は亡くなったかと報道されましたが、ヘリコプターで救出されていました。しかし、いかに裕福とはいえ、家も何もかもなくしてしまったドミノは、かつての住宅の跡地に小さなオフィスを建て、そこを活動の拠点にしています。2007年現在も現役で、かつての旧友や地域からの復興支援を受けながら活動を続けているようです。

21世紀の現在、どんなにコンテンポラリーな音楽が売れようがお構いなしに、常に伝統芸術的なニューオルリンズサウンドは健在。そんな中、もう80歳近いとはいえ、ますます元気でまだまだ活躍して欲しい偉大なアーティスト、それがファッツ・ドミノです。

「ワーワーワー♪みんな呼ぶのさ~、オレのことを~♪ ジジイだって~♪」

そんな唄だって、大きな腹をゆらしながら、笑って唄ってのけるドミノをいつまでも見たい!と切望する俺なのでした。

(注:2017年、89歳で死去。)

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