アワ・トゥルー・ストーリー ー ユージーン・ピット&ザ・ジャイブ・ファイブ

 



当年とって73歳のユージーン・ピットは、大声で楽しそうに笑いながら、言っています。


 「俺は、ビーチ・ミュージックが大好きなんだよ。カリフォルニアでは誰もが楽しいことを求めていて、音楽はアップテンポで、踊るわけさ。昔は、ビバップとか、スイングだったけどな。」


 ユージーンの最新作は大好きなビーチ・ミュージックをとりあげた、「ステッピン・アウト」で、昔からのドゥーワップ仲間であるリチャード・ホーリハンがプロデュース。もうひとりのプロデューサーは、ボビー・ジェイで、彼も1957年から活躍するドゥーワッパー。最近では、伝説的なドゥーワップグループであるティーン・ネイジャーズ(フランキー・ライモンのティーンネイジャーズ)と行動をともにしているベテラン。

 そんな現役バリバリのシンガーである、ユージーン・ピットは、かつての名ドゥーワップグループ「ジャイヴ・ファイヴ」のリーダーであり、1961年の大ヒット、「マイ・トゥルー・ストーリー」で知られています。


 「俺は、1937年11月にブルックリンで生まれたんだ。俺の親父はクリスチャンで、ゴールデン・ゲイト・カルテットでゴスペルを唄っていたのさ。」


 しかし、ユージーンの最初のアイドルは、当時のティーンネイジャーらしく、フランク・シナトラとナット・キング・コールでした。


 「だけどな、俺が歌いだしたときは、俺はオヤジに4人の姉貴のところに連れて行かれてね、どうやってハーモニーを唄うのか、仕込まれたわけだよ。そして、俺たちは、家族でゴスペル・グループを作ったわけさ。それから数年、教会に行って唄うのが日課になった。だけど、おふくろが亡くなってね、それでグループは解散したんだよ。」


 「17歳のときに、俺は、初めてストリートコーナーで歌うようになった。近所の連中を集めてね。自分たちのことを、アクロンズって名づけたんだ。そのグループには、レイ・マーフィ(俳優エディ・マーフィの伯父)と、マーフィの兄貴でエディの親父の、チャールズ・マーフィ、そして、俺と、サンティ・ショウ、モンロウ・ショウ、俺の兄貴たち。だけど、レコーディングするところまではいかなかったな。」


 アクロンズでの活動の後、ユージーンは、ジイニーズというグループに加わりますが、メンバーの一部が引越した際、引越し先に、もうひとつのジイニーズができ、そちらのほうが、「フーズ・ザット・ノッキン」(1959)で小ヒットとなりますが、ユージーンがいた、もともとのジーニーズはさっぱり運が向いてこない。しかし、ヒットを出したほうのジーニーズのメンバーに欠員が出来て、ユージーンに声がかかります。

 このときのジーニーズのメンバーのひとりが、クロード・ジョンソンで、後に、「ホワッツ・ユア・ネーム」の大ヒットを飛ばす、「ドン・アンド・ファン」のドンのほう、になります。


  「そして、とうとう、俺は、自分のグループを結成したんだ。ジャイブ・ファイブだね。俺たちをファイブ・ジャイブ・ガイズ、って呼ぶ女性がいたもんだからね。」


 当初のメンバーは、ユージーン・ピット(リード)、ジェローム・ハナ(ファースト・テナー)、ソーントン・プロフェット(セカンド・テナー)、リチャード・ハリス(バリトン)、そして、ノーマン・ジョンソン(ベース)。




 「俺たちは、みんな近所でね、俺は当時、スーパーで在庫管理の仕事をしてたんだ。唄いながら仕事をしていたら、たまたま通りかかったお客のレディが、まあ、本当にうまいのね、家のダンナがソングライターの仕事をしてるから遊びにいらっしゃいよ、って言ってくれてね、俺は、まあ、冗談かなんかだろうと思っていたんだ。でも、本当だったんだよ。ダンナってのは、オスカー・ワルツァーって男でね。業界人だよ。彼の前で歌ったら、気にいってくれたんだ。」


 オスカー・ワルツァーは友人の経営するベルトーンレコードにジャイブ・ファイブを連れて行き、自作曲の「マイ・トゥルー・ストーリー」を、唄ってみせて、これはモノになる!と判断した社長のレス・ケイハンの手によって、とうとうレコーディングデビューとなるのです。

 レコード、「マイ・トゥルー・ストーリー」は、60年代当初の、最初の「ドゥーワップリバイバル期」に乗って、R&Bチャートで1位、ポップ・チャートで3位という、大ヒットになります。




 「これほど、デカいヒットになったのは、親父のおかげだったと思ってる。なぜかっていうと、他のストリート出身のグループは、初期の50年代のドゥーワップばかり唄っていたのさ。俺たちは違った。ゴスペルグループで鍛え上げた連中だからね。レコーディングでも俺たちは、完全にゴスペルのノリでやった。そのフィーリングは、他のグループとは完全に違っていたね。」


 しかしながら、続いて出したソウルフルなバラード、「ネヴァー・ネヴァー」も、「マイ・トゥルー・ストーリー」に劣らず、いい出来だったにもかかわらず、十分なセールス準備が間に合わず、61年の終わりにポップチャート74位の小ヒットどまりになります。

 さらに、毛色を変えて出した、ダンサブルなナンバー、「ハリー・ガリー・コーリン」が、「バラードが素晴らしいジャイヴ・ファイヴ」という売りのポイントの逆をいくものだったためか、さっぱり振るわず、62年に105位、ホット100からも落ちてしまいました。


 起死回生に、再度、バラードを狙い、リリースした「ホワット・タイム・イズ・イット?」は、ありきたりのヒットソングの中では異彩を放つ風変わりな、しかし、素晴らしい曲調と着想の曲で、67位まで持ち直します。しかし、当初のメンバー、ビリー・プロフェットがソロ活動を目指して脱退、ケイシー・スペンサーに交代。さらに、ジェローム・ハナが肺炎で急死という悲劇に見舞われます。

 しかし、そんな62年には、ハッピーで、しかもソウルフルなバラード、「ズィーズ・ゴールデン・リングス」がR&Bチャートで27位にあがる健闘ぶりを見せますが、続いて出した風変わりで素晴らしいバラード、「レイン」はなぜか振るわず・・と、浮き沈みが激しくなります。

 メンバーもキャディラックスから呼び込んだり、補強を図りつつ、ベルトーンにとどまって頑張ります。

 ストレートで素直なドゥーワップナンバー、「ハリー・バック」、「ザ・ガール・ウイズ・ウインド・イン・ハー・ヘア」、そして、今、振り返ってみると、ソウルコーラスサウンドの先駆ともいえる斬新な「アイ・ドント・ワナ・ビー・ウイズアウト・ユー・ベイビー」など、手を換え品を換え、様々なレコードを出し続け、しかも、どれもが当時としては、相当に斬新で、素晴らしい出来栄えであったにもかかわらず、猛烈な勢いで続くブリティッシュ・ロックの大流行の中で、ジャイヴ・ファイヴは、徐々に忘れられていくのでした。

 そして、1963年、遂に、ベルトーンレコードを去ることになります。アルバム(LP)を作るのに十分なほどのオリジナル曲を持っていたにもかかわらず、ベルトーンはついにアルバムを出すことはありませんでした。


 ユージーン、ハリス、スペンサー、ベストの4人になったジャイヴ・ファイヴは、1965年、ついに、60年代ソウルサウンドの色気に満ち溢れた真の傑作、「アイム・ア・ハッピーマン」で、再度念願のスマッシュ・ヒットを記録します。(R&B26位、ポップ36位)。

65年には、さらに5枚のシングルを吹き込みますが、これまた同等に素晴らしい出来映えの「ア・ベンチ・イン・ザ・パーク」がなぜか小ヒットどまり。




 まあしかし、ユナイテッド・アーティスツ時代のシングルはひとつのアルバムにまとめられており、どの曲も見事な出来映え。50年代のドゥーワップから60年代ソウルサウンドへの架け橋となった名盤のひとつといっていいでしょう。

当CDはジャイヴ・ファイヴの代表的なシングル集(50年代のベルトーン録音)で、どれも傑作ばかりですから、最も有名なものであり、このベルトーン盤ばかりが注目され再発売を繰り返していますが、ジャイヴ・ファイヴは、別レーベルからも、ユナイテッド・アーティスツの「アイム・ア・ハッピー・マン」と、82年にアンビエント・サウンドから出した「ヒア・ウイ・アー!」、「ウェイ・バック」という名盤もあるのです。


 「60年代は、とにかく、ツアーの繰り返しだったよ。トム・ジョーンズ、シュレルズ、クラレンス“フロッグマン”ヘンリー、チャビー・チェッカー・・・たくさんの仲間と一緒だったけども、ク・クラックス・クランの集会と同じ日にすぐ近くで演奏しなくてはならなかったり、おっかないこともずいぶんあったなあ。でも、ハッピーだったぜ。唄っていられたら幸せだったのさ。ツアーくらい楽しいことはない。」


 65年の「アイム・ア・ハッピーマン」のヒットで、ブリティッシュ・ロックの襲来にもなんとか耐えたジャイヴ・ファイヴ。1970年代には、他のアーティストのバックコーラスなどを務めながらも、活動を続けました。

 1968年には、ムジコールレーベルから、「シュガー」がヒット(R&Bで34位、ポップで119位)。

1970年代には、、デッカレコードに移り、名前を「JIVE FIVE」から「JYVE FIVE」に変えますが、「アイ・ウォント・ユー・トゥ・ビー・マイ・ベイビー」がマイナー・ヒットとなっただけで、その後、アヴコ→チェス→コロンビアと、レコード会社を転々。

 そして、1970年代の次の5年、彼らはこれまでと異なるスタイルでレコーディングをします。

覆面グループで、チェスから出た「サッド・フェイスィズ」というシングルは、実際はジャイヴ・ファイヴのレコード。1977年には、ショウダウン、という名前で、「キープ・ドゥーイン・イット・ハニー・ビー」というディスコ曲を出したりもしています。


「70年代に、ジャイヴ・ファイヴの名前は使いたくなかったんだ。古き良きドゥーワップグループというイメージを使うのは得策じゃない時代だったんだよ。」


 1978年には、再び綴りを「JIVE FIVE」に戻し、80年代に、ついにアンビエント・レコードから、これぞ後期のジャイヴ・ファイヴ代表作!というべき、傑作を発表します。

 アンビエントは、当時、古い曲をそのまま復活させるドゥーワップリバイバルではなく、かつての名グループに、今の曲をやってもらう、という発想で企画をし、ハープトーンズ(ジャクソン・ブラウンの「ラブ・ニーズ・ア・ハート」の素晴らしいカヴァー)、カプリース(オリジナルの新作「モールス・コード・オブ・ラヴ」の発売)などを次々にレコーディングさせ、成功に導きました。

その中でも最大の目玉がジャイヴ・ファイヴ。


 まずは、1982年に、シングル盤として、「マジックメイカー、ミュージックメイカー」、「ドント・ビリーブ・ヒム・ドナ」の2枚が先行リリース。そしてついに、その2曲を含む名作アルバム、「ヒア、ウイ・アー!」が出ます。

その中でユージーン・ピットが唄った、リトル・フィートの「ヘイ、ナインティーン」のカヴァーは、音楽コラムニスト、評論家、作家の重鎮、グリール・マーカスに絶賛され、ローリングストーン誌に大きく取り上げられました。

 原曲の伝えたかったことは、好きな19歳の女の子に想いを伝えられない中年男の悲哀を歌ったペーソス溢れるラヴソングであり、まさに、ピットは実際の年齢も唄どおり、歌唱力、表現力ともに、オリジナルを超える出来栄えだった、というわけです。



 1985年には、アンビエントからさらに力のこもった素晴らしいアルバム「ウェイ・バック」(タイトル曲は、本当にストリート・コーナーで、アカペラで唄った野外録音)を残しています。

さらに同年、そのアンビエント・サウンドつながりで、テレビのこども番組「ニッケルオデオン」(アメリカで最初に有名になったケーブルテレビネットワーク番組)に、彼らのオリジナルソングを使い、ユージーン・ピットはこども番組音楽の作曲者としても17年に及ぶ活躍をすることになり、全米のこどもたちの人気者にもなっています。


 1998年に開催されたPBSの特別番組「ドゥーワップ50」にもフィーチャーされ、50年代ドゥーワップから60年代ソウルへの過渡期に活躍した彼らの独特のステージは改めて多くの人の心をとらえました。


 その後、2000年代に入ると、当時のメンバーだったモーリス・アンサンク、ユナイテッド・アーティスツ時代のメンバーだったウエブスター・ハリスなど、関係者が次々に亡くなるなか、50年代の古き良きドゥーワップから60年代ソウル、そして70年代ディスコサウンドまで生き抜いてきた、したたかで、元気なユージーン・ピットを中心に、彼らは、現在でも現役で活動を続けています。


 「俺たちの本当の物語・・それは・・・・」




 残念ながらそれはわかりません。誠実で真のプロフェッショナルで、決して他人を悪く言わない素晴らしい好人物であるユージーン・ピットの口から、業界の裏の話などは出てこないかもしれません。

 彼は、アーティストとしての自分自身のことよりも、むしろ、当時の他のアーティストについて語りだすと何時間でも語るという、有名なレコード・コレクターでもあり、本当に当時の音楽を愛しているからです。

 七転び八起きを繰り返しながら、厳しい音楽業界を、気まぐれな世間の流行、逆風にも耐えて、生き抜いてきた73歳のユージーン・ピットの胸のうちはとても一言で言い表せるものではないでしょう。


ユージーン・ピットは2018年80歳で死去。(2021年付記)


(2011年1月19日リリースのヴィヴィド・サウンドCD「マイ・トゥルー・ストーリー ザ・ジャイブ・ファイブ」のライナーとして寄稿)

posted on2011年10月16日

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