古き良きアメリカの高田純次  ー ディーン・マーティン



前回に引き続き、「底抜けコンビ」のツッコミ役、ディーン・マーティンのお話。

この人、なによりも音楽で有名でして、大歌手であります。もともとが歌手として活動していた人なんですが、底抜けシリーズではじめて注目されてヒット歌手になったので、先に俳優として有名になったわけですね。

マーティンは、アメリカ人が親しみを込めて、「ディノ」と呼ぶスターでありますから、ここでも、ディノと書かせていただきます。

前回書いたように、ディノは底抜けシリーズで人気を得たものの、ボケ役のジェリー・ルイスのアクの強さに圧倒されておりました。

いわば、添え物的な、昔の日本の漫才ブームのときに流行った「うなづき役」みたいな扱いで、「フツーの人」っぽい人気だったのだろうと思います。

彼の初期の映画を見ても、二枚目なんだけれども超イケメンというわけでもなく、どっか抜けたぼやっとしたお兄ちゃんみたいな空気をまとった人で、歌はうまいけど、そんなに圧倒するような歌い方でもない。

だから地味な感じであまり人気がなかったのかもしれません。

そんなディノが大ブレークしたのは、彼の「呑兵衛ぶり」が話題になったときで、いつも酒とたばこを手放さず、ほろ酔い気分のサラリーマンみたいな風情で、ヘラヘラしたくだらないジョークを飛ばしながら、真面目なんだか不真面目なんだかよくわからない、どっか「ズレた人」としてエンターテイナーぶりを発揮しだしたときでした。

それが今日でも残る「ディノ」のイメージではないかと思います。いつもおかしなことを言って一人でげらげら笑ったりする二枚目半くらいのキャラ。

どっかで思い当たるタレントいませんか?我が国にもいますよね。高田純次さん。歌がうまいかどうかは知りませんが、斜めから入ってくるようなズレたジョークとか、親しみやすさとかを持っていながら、どこかオシャレで、かっこいい。顔だってよく見るとイケメンだし、ファッションセンスもいい。

あの人はもともとデザイナーですからね。御茶ノ水の東京デザイナー学院を出ている。ちなみにわたしの娘の先輩にあたる人です。

そういう人が東京乾電池を経て、俳優になり、悪役をこなしながら、だんだん「変なおじさん」的なキャラを作っていって、タレントとして大ブレークするわけです。

経緯もディノと似てますよ。




ディノは1917年6月7日、アメリカ・オハイオ生まれ。イタリア系のアメリカ人で、出生時の名前はDino Paul Crocetti。ディノってのは本名なんですよね。

時代が時代なので、高校を中退し、ヤミ酒場で密造酒などの運転士をしたり製鉄所に棍棒を携帯しガードマンとして勤務していたらしい。

1940年代初頭にはクラブまわりをしていたバンドの専属歌手となり、当時の流行歌手ビング・クロスビーやミルス・ブラザーズの歌唱スタイルを真似ていて、それがのちに彼独特のイタリア歌手らしいおおらかで大きな声とあいまったスタイルになっていったんでしょう。

このバンド活動中にイタリア風の名前から英語風のものに変えることをすすめられ名前をディーン・マーティンと改名。

そして1946年、アトランティック・シティのクラブ歌手を解雇寸前の窮地に立たされた時、偶然ナイトクラブで歌っていたニューヨークで出会った9歳下の無名コメディアン、ジェリー・ルイスと即興でコンビを組み人気が沸騰、それがハル・B・ウォリスの目に止まりコンビで映画「底抜けシリーズ」(パラマウント映画、1949年 - 1956年)に出演して、世界的スターになった、というわけです。

この時期にディノは歌手としてミリオンヒットを何枚も出しています。主な代表曲に『誰かが誰かを愛してる』 (Everybody Loves Somebody)、『ザッツ・アモーレ』(That's Amore)、『イナモラータ』(Innamorata)、『ヴォラーレ』(Volare)、『思い出はかくのごとし』 (Memories Are Made of This)、『キング・オブ・ザ・ロード』 (King of the Road、グラミー賞受賞曲)などのヒット曲があります。

また、俳優としても、シリアスな役もこなす名優になっていきます。代表作にエドワード・ドミトリク監督の『若き獅子たち』(1958年)、ハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』(1959年)、ヴィンセント・ミネリ監督の『走り来る人々』(1958年)、『ベルは鳴っている』(1960年)、ビリー・ワイルダー監督の『ねえ!キスしてよ』(1964年)など




ディノを語るに底抜けコンビと同様、欠かせないのが、60年代のラットパック。

ラットパックは、フランク・シナトラ、サミー・デイヴィス・ジュニア、ピーター・ロウフォード、ジョーイ・ビショップ、そしてディノからなる、エンターテイナー集団で、ベガスのカジノを拠点にしていました。

もともとは、1950年代にハンフリー・ボガートがリーダーではじめたらしく、ボガート家に集まって遊んでいた友達集団みたいなものでした。ディノのいた有名なシナトラのラット・パックは60年代のバージョン。

いわゆる「シナトラ一家」というやつで、マフィアとのつながりがあったのは現在では周知の事実。このあたりになってくると、当時の芸能界のスキャンダラスな闇の部分がかかわってきますが、あまり明らかではありません。

いずれにせよ、彼らの伝説的なベガスノショーはほとんどアドリブでのジョークや歌で大変な人気があり、その興行収入がマフィアの手に入っていたといわれているようです。

彼らはマフィアの力を背景にベガスで豪遊しまくっていた不良集団でもあったのですね。

ちなみに、ラット・パック(どぶねずみ)というのは、悪党ばかりだったことと、いつも全員黒のタキシードだったことからネーミングされたようです。(日本でも黒やネイビーのスーツしか着ないサラリーマンをどぶねずみ、といいましたよね、昭和のころには。)


しかしながら、小悪党で出鱈目野郎で女たらしで酒のみだけど憎めないやつ、みたいなイメージを利用してディノは大スターになり、自身のテレビショー(NBCのテレビ番組『ディーン・マーティン・ショー』(The Dean Martin Show、1965?1974)及びen: The Dean Martin Celebrity Roast(1974?1984))を持つまでになり、世界的人気の名司会者になるのです。

一幕を紹介すると、とにかく豪華としかいいようがない、ハリウッドの大物勢ぞろい、ベガスの一流芸人大集合なすごい番組です。


これは、ディーンマーティンショーの一部、「今週の人」コーナーに、コロンボ警部(ピーター・フォーク)がゲスト出演した回。

ロナルド・レーガンもいますね。フランクシナトラ、ドン・リックルズ、ジョージ・バーンズ、ジーン・ケリー、ジェームズ・スチュワート、ジャック・クラグマン、アーネスト・ボーグナイン。。ものすごいメンバーが並んでます。



一方で、現在では様々な証言からいろいろなことがわかっており、ディノは世間で認識されていたような不謹慎で出鱈目な人間ではなかったようです。


ネルソン・リドル(全米で人気があったバンドリーダー)

「ディーンは歌が巧いのに本人が全くそれに気付いていない、彼は自分の人生を真剣に考えないのです、まして周囲が自分をどう評価しているかなど全く考えていません。」

一方で、ディノは「何の才能もない人に必要なもの、それは勤勉、忍耐、自制心だよ。」と言っています。


要するに、ディノは努力や練習を一切見せず、全く努力せず、気楽に歌い、気楽に演じているイメージを作り上げてそれを守り抜いたわけです。

その結果、しばし一流の監督や音楽家ですら欺いていたというわけ。



これは、ディノの短いドキュメンタリー。

周知の事実ではあるけど、ディノがステージで持ち歩いているグラスの中身はアップルジュース。酒を飲んでも飲まれない人で、アル中とはまったく縁がなく、家が大好きで、いつも家にいた人だった、という証言もあるとおり、生涯、架空のキャラ「ディノ」を演じ続けた人だったのですね。



では、そんな「テキトー男」を演じ続けたディノの洗練された「テキトーぶり」で、カテリナ・バレンテと気楽に愉快なボサノヴァをふたりで歌うシーンでおしまい。



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