恋のダウンタウン ー ペトゥラ・クラーク




ペトゥラというステージネームは、おとうさんが名付けたんだそうです。

なんでも、自分の昔のガールフレンド2人の名前をミックスしたんだそうな。

しかし、なにこれ?的などうでもいいトリビア、英語版ウイキ多くね?なぜ?


「おひょひょひょ、おらっつがよお、むかーす好きだったおなごにンーちゃんとペちゃんがいたのよお。だっかあよう、おめえはンーペだっペ!」

とかいうのと一緒じゃねえかよ。


今回は、イギリスの、というよりヨーロッパの、60年代を代表する歌姫のひとり、ペトゥラ・クラーク。

まあ、有名ですわな、「恋のダウンタウン」。別に松本なんとかがでてきませんよ!

名作、傑作多数あれど、これまた珍しいくらい「一発で覚えちゃえる強烈曲」だと思います。よく出来てる。


ンーペ、じゃなくて、ペトゥラは9歳のとき、偶然、ラジオ、映画、テレビに出演した、という、え?なんでなんで?ウッソー!みたいな話からスタートします。

1942年といいますから、戦時中。イギリスといえば、空爆でロンドン壊滅という、すさまじい状態にあったわけですね。

おとうさんと一緒にBBCラジオ番組に参加しているときに、海外駐在の叔父にメッセージを送ろうとしたところ、空襲で放送が遅れた。ナチスによる爆撃の間、プロデューサーが、

「あーっ!やべえ!みんなをリラックスさせなくちゃ!おらじゃあだめだすい、だ、だれかたしけてけれえ!」


って叫んだところ、ガキのくせして、ペトゥラちゃん、「マイティ・ラック・ア・ローズ」を歌い、これが大うけ。よーしっってんで、軍隊を励ますパフォーマンスをするため、その後、なんと約500回も出演することに。やー、世の中、特に、戦時中ですからね、なにが起こるかわからない。


で、この人、映画やラジオの子役となるのですが、同業仲間にいたのがジュリー・アンドリュース。

「サウンド・オブ・ミュージック」や「メリー・ポピンズ」の人ね。

 やがて、彼女は「イギリスのシャーリーテンプル」としても知られるようになります。

アメリカと同じように、イギリス陸軍でマスコットになった。ある意味、戦時を支えた女性だった。


1946年、終戦を迎えると、ペトゥラはBBCのバラエティ番組に出演してテレビでも活躍。自分の番組をもって(まだ14歳)、1950年までホストを務めています。


1947年にペトゥラはポリゴンレコードへ吹き込みを開始。1949年には最初のリリース「プット・ユア・シューズ・オン・ルーシー」が出ました。



プット・ユア・シューズ・オン・ルーシー



この時期、すでにペトゥラはヒット歌手ですから、60年代にはもう10年以上のプロ歴っていう、どっかから湧いて出てきたアイドル歌手とは全く異なります。





1957年、ペトゥラはパリのオランピア劇場で公演。これが成功してフランスのヴォーグレコードのオフィスに招待され、広報担当者クロード・ウルフに出会い、このときのヴォーグとの契約がもとで、フランスを起点にヨーロッパ本土を次々に制覇。ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語で録音し、キャリアを積んでいきました。

なお、このクロードチアリ、じゃない、ウルフさんと結婚しちゃったので、ペトゥラはフランス国籍となりました。


一方、イギリスでも1960年代初頭まで英国でヒットレコードを達成し続けています。1961年の「セイラー」はナンバーワンヒットとなり、続いて出た「ロミオ」はミリオンセラーの世界ヒットとなり、最初のゴールドディスクを獲得しています。

フランスのほうでは、「愛のシャリオ」が1962年に大ヒット。


これは、フランスの作曲家ポール・モーリアの作った曲にフランス語の歌詞をのせたものでしたが、のちに英語版が作られ、こちらは、「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」と名付けられてリトル・ペギー・マーチによってミリオンセラーになっています。この話は以前に「愛のシャリオの軌跡」という記事をこちらに書きましたね。


さて、ペトゥラはいよいよ、そのキャリアのピークを迎えます。

1964年、トニー・ハッチが作曲した「ダウンタウン」は、4か国語でリリース、イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、オーストラリア、イタリア、ローデシア、日本、インドで成功を収めました。さらに、1965年に入ると、アメリカのチャートで1位。

「ダウンタウン」は、結局、アメリカではのベストロックンロールレコーディング、ベストコンテンポラリーボーカルパフォーマンスでグラミー賞を受賞しました。ずっと後年の2004年には、グラミー殿堂賞に選ばれました。


恋のダウンタウン(ペトゥラ・クラーク)



ダウンタウンを作ったトニーさんによると、最初、ペトゥラの前で、コード進行とメロディのあらましだけやってみせたらしいです。


「ンーペ、やなかった、ペトゥラあ、わし、こんなんええと思うんやけど。」と松本、じゃなかったトニーさん。

「ンー、どっかなー、もちょい、頑張って、ええ歌詞作ってこいや。したら、やったあげるかも。」

と上沼えみ。。じゃないや、ペトゥラさん。

で、「おーし、まかしといてや!ガキのつかいやあらへんで!」とトニーさんが言った、わけないですね。

ちなみに、この曲調から、「トニーは、ドリフターズ(アメリカのドゥーワップグループ。いかにも彼らがやりそうなメロディ。)向けに書いた。」と言われていたようですが、トニーさんは否定しています。

「んな、アホな。話ができ過ぎやで。ダウンタウンをドリフターズがやったら、東西お笑い対決やないかい!」と言ったという事実はまったくありません。


さて、そんな大ヒットに恵まれたペトゥラさん、その後、アメリカで15回連続トップ40を出しています。


あまり言われていないことですが、ペトゥラは200を超える曲を書いており、その中には、ヴォーグスによって全米でトップ10入りした大ヒット「ユア・ザ・ワン」も含まれています。

ペトゥラのオリジナル版はさらにずば抜けてすばらしい出来栄えですが、イギリスのシングルチャートトップ30にとどまりました。


ペトゥラ・クラーク「ユア・ザ・ワン」



さらに、彼女は映画のキャリアを復活。1968年の「フィニアンの虹」(1968年)で、ゴールデングローブ賞の最優秀女優賞にノミネート。翌年、ピーター・オトゥール主演の「チップス先生さようなら」にも出演しました。


1970年代もヒットは続きますが、徐々に家庭人としてキャリアを縮小させていきました。

80年代に入ると、劇場以外での活動をストップ。


21世紀にはいると、再びツアーを開始。2017年時点で84歳ですが、まだ現役です。


こうして振り返ってみると、戦時の子供アイドルからフランスの歌手、そして、世界のポップ歌手へと辿って行ったかなり珍しいタイプの人だとわかりますね。




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