20世紀最大の女性歌手 ~ デイム・シャーリー・バッシー
みなさん、こんばんは。オールドフィンガーです。年を取ると指さばきも鈍くなって、もうわしゃダメじゃ、じゃなくて、今日は、ジェームズ凡人さんが見えましてね。近所の焼き鳥屋でいっぱいやってきたとこですわ、なわけないすね。
ところで、1964年のジェームズ・ボンド映画「ゴールド・フィンガー」。覚えてますか?つか、知ってますか?
映画そのものは、かなりばかばかしい劇画風になってきたころのだぶるおーせぶんもの。いわゆるひとつの、ボンドくんじゃござんせーんか映画の1つ。わたくし、ガキのくせして映画館で観ております。もちろん、小学生で、再上映のときですね。悪役のひとりの殺人執事が山高帽を投げるとなぜか木が切れたり人の首がとんだりするのが面白くて思わず笑ってしまいました。子供が失笑するようなことをイギリス人は映画で作るんだなあ、とか思ったり。
まあ、それはとにかく、主題歌がなんといってもかっこよかった。これはもう、強烈に覚えております。エロい!としかいいようがなくて、子供のころは親に知られないようにしなくちゃ、とか変に気を回したりする歌だった気がします。
別にあえぎ声とかはいってないですよ!雰囲気がエロかったのかなあ、特に声が。
この主題歌、やはり、大ヒットしまして、世界ヒットになりました。歌ったのが、シャーリー・バッシー。
まずは、2011年に収録されたこの動画から。驚くことに、74歳のときの映像です。
世界ヒットは、これだけなので、理屈でいえば、この人もやまほどいる「ワン・ヒット・ワンダー」(一発屋)。日本でも70年代に流行ったきりなので、そう思っている方が多いかもしれませんが、実は、「欧州で最も売れた史上最高の女性歌手」です。
1937年生まれなので、今年で84歳になりますが、まだ健在。つい昨年、ラストアルバムといわれる「I Owe It All To You」をリリースして、世界中のファンを感動させました。
よく言われるとおり、「20世紀後半最大の女性歌手」、それがシャーリー・バッシーです。
50年代は、バーやクラブから、テレビ、そしてレコードデビューという、下積みから徐々にあがっていく苦労を重ねて実力をつけていったようです。でも、かなり早いデビューですね。まだ19歳でレコードデビューですから。
子供のころから、持ち前の強力なビッグ・ヴォイスでクラスメートを圧倒していたそうですが、14歳で中学を出るとバイトしながら、夜と週末には地元のパブやクラブで歌うようになります。
1953年、アル・ジョルソンの生涯を基にしたミュージカルである「メモリーズ・オブ・ジョルソン」で歌う契約を結んだのをきっかけにプロとなって、1956年、フィリップス・レコードプロデューサーであるジョニーフランツがテレビで歌う彼女に感銘を受けて、彼女にレコーディング契約を申し出ました。 同年に「バーン・マイ・キャンドル」でデビュー。
1957年、「バナナボートソング」がUKシングルチャートで8位になり、ヒット歌手となっています。
同年、アメリカ人プロデューサーのミッチ・ミラーから招待を受けて、アメリカでもデビュー。ラスベガスでも活躍するようになりました。
1959年、「アズ・アイ・ラブ・ユー」がイギリスでとうとうナンバーワンになり、続いて出た「キス・ミー・ハニー」が同時ヒット。当時の録音をきくと、別に普通のアイドルチックなポップ歌手っていう感じなんですが、これがのちにどんどん化ける。変貌していくんですね。
60年代になると、波に乗ってもう止まらない大ヒットシンガーの道を驀進。英国で5枚のアルバムがトップ15入り。
さらに、アメリカでもエド・サリバン・ショーに出演してますます有名になり、シングル、アルバムともに、出すものすべてがヒット。1964年にはカーネギー・ホール出演を果たします。
そしてついに、1965年、歴史的名声を決定づける運命がめぐってきました。
ジェームズボンド映画「ゴールドフィンガー」のテーマ曲を吹き込みます。1965年1月に米国でリリースされたシングルが8位。オリジナルサウンドトラックはとうとう1位に駆け上がりました。
バッシーは次のボンド映画、サンダーボール(1965年)もレコーディングしますが、映画では使用されず、ディオンヌ・ワーウィックによって再録音されています。
「ゴールドフィンガー」大ヒットは、逆効果な面もあったようで、あまりにこの曲のイメージが付きまとうこととなって、全体としては伸び悩み気味。一発屋という誤解はこのあたりから生じているのかもしれません。
70年代になると、バッシーはふたたびイギリスで大成功をおさめます。
73年には、アルバム「サムシング」がリリースされ、トラディショナルポップからより現代的な曲やアレンジへ移行して、新しいスタイルを確立していきます。
英国のチャートでは、ビートルズによるオリジナルのレコーディングよりもバッシー版のほうがヒットしています。
このアルバムは、アメリカのアダルト・コンテンポラリーチャートでもトップ10ヒットになりました。
さらに、この成功によって、続くユナイテッドアーティスツのアルバムがすべてヒット。
特に、「シャーリー・バッシー・シングル・アルバム」は彼女の最高のチャートアルバムであり、2位に達し、ゴールドディスクを獲得。25周年記念アルバムは最終的にプラチナになりました。
結局、バッシーは1970年から1979年の間に、アルバムチャートに18枚のヒットアルバムを出しています。そして、ジェームズ・ボンドソングのもうひとつの古典といえる、「ダイヤモンドは永遠に」もリリースしています。
まあ、どんな大スターでも、これくらいのキャリアでそろそろいおしまい、というのが普通な感じですが、バッシーの大活躍はまだまだ続きます。
1980年代のほとんどを通して、バッシーは慈善活動をしていて、音楽はセミリタイアしていました。90年代に入ると、プロペラヘッズが彼女のために書いた「ヒストリー・リピーティング」(1997年)が、全英ダンスチャートで1位、米国ダンスチャートで10位に達し、再びヒット歌手に返り咲いています。
1997年の60歳誕生日のコンサートをとらえたライブアルバムは、グラミー賞の最優秀トラディショナルポップボーカルパフォーマンスにノミネート。
21世紀に入ってからも、バッシーはショービジネスの第一線で活躍。生きた伝説となっていきます。
2003年には50周年を迎え、アルバム Thank You for theYearsはトップ20入り。
2000年には英国王室からdameの称号(男性ならサー)を得ました。
この時期のバッシーのステージはまるまる全編、TUBEで観ることができます。
最後に、現在84歳のバリバリ現役大歌手、シャーリー・バッシーをご覧いただき、お話をおわりたいと思います。
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