カナディアン・アイドル ー ポール・アンカ



おはこんばんにちは、ポール安価です。

大安売りだよ、そこのおばちゃん、おばちゃんどっから来たの?え?彼方の小田原から?違うの、カナダのオタワからあ?そいつはてえへんだ、地球のうらっかわじゃござんせんか。


ポール・アンカってカナダの人だったんですね。知りませんでした。


日劇ウエスタンカーニバルな、「ダイアナ」、「君は我が運命」など、日本でも1950年代から人気があって、日本の歌手にたくさんカヴァーされましたし、1958年(昭和33年)には、来日もしています。

さらに、ソングライターとしても有名。

トム・ジョーンズの最大のヒット曲の1つ、「シーズ・ア・レイド」。

エルビス・プレスリーを含む多くの人が録音したフランク・シナトラの代表曲「マイ・ウェイ」。(シャンソンのクロード・フランソワとジャック・レヴォーの曲。アンカは英語版の歌詞の作者。)


アンカとセダカは、日本では並べられて2大アイドルっぽい扱いだったと思いますが、セダカはニューヨークの、しかもブリルビルディングのエリート作曲家ですから、まったく異なる背景の人たちです。

しかしながら、アンカは、女の子たちが絶叫卒倒するイケメンのスーパーアイドルというだけに終わらず、全く素晴らしい大歌手であっただけでなく、超一流のソングライターでありました。





アンカはカナダのオンタリオ州オタワの生まれ。両親はレストランのオーナーなので、中流家庭の出身です。

彼の父はシリアのダマスカスのバブトゥマからアメリカに来て、彼の母はレバノンからの移民でした。

白人系のアイドル歌手が目立つアメリカ60年代のティーンアイドルの中では、ちょっとエキゾチックな感じの風貌ですが、中東の血筋だからでしょうか。

ちなみに、イギリスでアイドルだった、エンゲルベルト・フンパーディンクもインドの血筋の人ですね。


アンカは、レバノンのキリスト教関係者で、聖エリアス・アンティオキア正教会の聖歌隊と一緒に歌いました。

そして、フィッシャーパーク高校に通い、ボビー・ソクサーズと呼ばれるボーカルトリオの一員となりました。


まあ、こういう話、実は歌の奥には宗教的な深い意味があった、とか、そういう話になりがちですが、まったくそんな評論家が喜びそうな話はいっさいありません。アンカの場合、当初はまったくのティーンアイドル、おバカなアメリカンラブソング(ほんとはカナディアン)ばかりで、そこがわたしなんかは大好きなんですね。


ポール・アンカは、14歳のときに最初のシングル「アイ・コンフェス」を録音しました。

1956年、父から100ドルもらってニューヨークに行き、ABCレコードでドン・コスタのオーディションを受けた。で、このときうたったのが、自作曲の「ダイアナ」。

のちに、インタビューでアンカは、「教会に来ていたある女の子に向けた歌だったけど、彼女のことはほとんど知らなかったんだ。」と答えています。

「ダイアナ」は、カナダとアメリカの音楽チャートで1位になり、いきなり大スターになってしまいます。このとき、17歳。その後、1958年にトップ20に4曲がランクイン。


当時の女性客が卒倒しまくっているすさまじい人気ぶりは映像としても残っています。





アンカはバディ・ホリーと一緒にイギリス、そしてオーストラリアをツアーしました。で、ホリーに、「イット・ダズント・マター・アニィモア」を書いた。これは、1959年、ホリーが飛行機事故で亡くなる直前に録音され、死後に大ヒットになりました。

アンカは、ホリーの未亡人に版権をプレゼントしました。「それが私ができる最低限のことです。」と述べています。



1960年には、ソングライターとして、コニー・フランシスに「テディ」を書いて、トップ20ヒットになりました。

そして、フランスの歌に英語の歌詞をつけて、フランクシナトラに「マイ・ウエイ」を提供。これが、シナトラのシグネイチャーソングになったわけです。


 

また、映画界にも大きな貢献を残しています。映画「史上最大の作戦」のテーマ曲を作曲。俳優としてカメオ出演もしました。

この曲は、今日では、カナダ空挺連隊の公式行進曲となっています。わたしの子供時代には、小学校の行進曲でいつもかかっていたのですが、アンカの作なんですよね。


PAUL ANKA "THE LONGEST DAY"




ポップヒットも、「ロンリーボーイ」、「マイ・ホーム・タウン」と続きます。

その後、彼はラスベガスのカジノで演奏する最初のポップシンガーの一人になりました。 


60年代半ばになると、キャリアに陰りが出てきました。毎度のことですが、イギリス襲来、というわけですね。

で、エンターテイナーとして、ラスベガスに定期的に出演し始めました。


その後も、ヒットが出ず、ユナイテッド・アーティスツと契約し、1974年にオディア・コーツと組んで、ナンバー1ヒット曲「ユア・ハビング・マイ・ベイビー」でもって、アンカは新世代のファンを獲得。カムバックを果たしました。この曲は、いかにも70年代のソフトロックですが、本当に素晴らしい出来栄えで、アンカの天才的なソングライターの才能を改めて感じます。


PAUL ANKA "YOU'RE HAVING MY BABY"




アンカは、日本でも人気がありましたが、世界中でさまざまな活躍を見せた人でもあります。

特にイタリアとフィンランドでの活躍が目立っています。



なんか、平たく書くと、もうすっかり終わってる人みたいに見えますが、実際は、80歳の今でも大スター。

ラスベガスのエンターテイナー系の人って、シナトラはじめ、ほんとにいくつになってもバリバリ現役で、大変な人気です。ものすごい大観衆。観ればわかりますよ。





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