ザ・デイ・ザ・ミュージック・ダイド ~ バディ・ホリー






こんにちは。バディ・堀井です。


エルビスのように、セクシーでもなく、パーキンズのように、泥臭くもなく、フェビアンのようなカワイイアイドルでもなく、ジェリー・リー・ルイスのようにイカれてもいない、黒縁眼鏡とスーツがトレードマークの、スマートでにこやかなノッポさん、チャールズ・ハーディン・ホリーこと、バディ・ホリーは、1936年生まれ。

1959年にわずか22歳で亡くなるまでの間、表立って活躍したのはわずか1年半に過ぎないのですが、ロック史で最も影響力のあったアーティストのひとりとして記憶されています。

その影響は、特にビートルズ、ローリング・ストーンズに顕著ですが、そもそも、バディ・ホリー&クリケッツは、エレキギター2本とベース、ドラムズという編成をロック・バンドのスタンダードにした、元祖でもあるのです。

そうした、歴史的な影響力の大きさから、2004年にローリング・ストーン・マガジンが選んだ、「最も偉大な100人のアーティスト」で13位に選ばれています。



ホリーが生まれたのは、テキサス州ラボックで、地理的位置から考えると、ホリーが主に聴いていたのは、カントリー、リズム&ブルーズ(テキサス・ジャンプ)、テックス・メックスだっただろうと言われています。

民族系音楽の非常に豊かな土地柄であり、ラジオから流れ出る白人、黒人、ラテンといった多種の音楽、混血音楽は、徐々に、彼自身の中でさらにミックスされて、後に特徴的なバディ・ホリー・サウンドを生み出すもとになるのです。


そんなわけで、音楽一家だったホリー家で、バディくんは、ピアノ、ギター、フィドルを習いましたが、まだガキンチョのくせにすでに地元のラジオ局で自分の番組を持っていたという天才ぶり。そして、1949年、中学時代に、ボブ・モンゴメリという男とばったり出会います。

「おっ!いいね!おまえさん!」「なんだい!おまえさんこそ!このイカす眼鏡男!」「いや、うふん、ばかーん」なんてキモいやりとりが男同士であったかどうか知りませんが、とにかく、好きな音楽で気があったふたりは、ブルーグラスっぽいデュオ、バディ&ボブとして、地元のクラブや高校のタレントショーなどで活動を開始。


ところが、1955年初頭、地元ラボックにやってきた、当時としては風変わりな歌手、エルビス・プレスリーを見て大ショック!「うわー!かっけーー!僕らもこんなのをやろうぜ!」と決心します。そして、次にラボックにやってきたのは、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」で大ヒットをかっとばしたばかりのビル・ヘイリー。「うわ!なんだこのアタマの薄いおっさんは・・」と思ったかどうか定かでありませんが、そこで、バディ・ホリーは、ヘイリーの前座を務める幸運を手にいれます。

それを見ていたのは、メインアクトであるビル・ヘイリーの所属するデッカ・レコードのスタッフ。そして、ホリーはニューヨークのデッカと契約することになりました。そして、1956年、映画「捜索者」(ジョン・ウエイン主演の西部劇)で、主人公が繰り返し言うセリフに触発されて作ったオリジナル曲、「ザットル・ビー・ザ・デイ」を吹き込みますが、最大手だったデッカは、ベテラン・アーティストが多く、「なに?この眼鏡のあんちゃんは?」って感じだったのか、全く無名の若いアーティストを真剣に売り込む姿勢に多少欠けており、ぜーんぜん当たりません。しかし、この初期のデッカ録音には、ふたつの古典、「ミッドナイト・シフト」、「ロック・アラウンド・ウィズ・オリー・ヴィー」が含まれています。これらは、後にクリケッツのメンバーとなる、サニー・カーティス、ジューン・アリソンとともに吹き込まれており、このころからすでに、まだ、カントリー編成バンドには珍しかった、アリソンのドラムズとホリーのギターというデュオを基礎としたスタイルが築き上げられていました。


そこで、ホリーはラボックに戻り、自分のバンド、クリケッツを結成し、ニューメキシコ州クローヴィスにある、ノーマン・ペティという男の経営するスタジオで、録音するようになります。ノーマン・ペティのスタジオは、小さな独立スタジオの先駆で、時間単位でなく、曲単位で使用料をとることにより、ミュージシャンの負担を軽くするという、当時としては画期的なスタジオシステムでした。

そこで、クリケッツを見聞きして、「イケてるぜ!」と判断した賢明なペティさん、マネージャーとなって、デッカ系列のコーラル・レコードとクリケッツを契約させます。結果、バディ・ホリーは、個人としてデッカと契約する一方、グループとして同社系列のコーラルとも契約するという異例の事態となりました。







そして、クリケッツ版の「ザットル・ビー・ザ・デイ」がついにナンバー1の大ヒット。その後、「オー、ボーイ!」、「ノット・フェイド・アウェイ」など、独特のメロディーとリズム感覚で、次々とヒットを放ったばかりでなく、バディ・ホリー個人名義でも、「ペギー・スー」、「リスン・トゥー・ミー」、「レイブ・オン」が大ヒット。1958年にはイギリスツアーを行ったりしています。




同年、マリア・エレナ・サンティアーゴというメキシコ系の女性と、なぜか初デートでプロポーズ、たった2か月で結婚。翌年初頭、ニューヨークに拠点を移したために、地元にとどまりたいメンバーの都合上、クリケッツは解散。ホリーはソロとしてレコーディングを続けるという具合に、事態はめまぐるしく変わります。


しかし、悲しい運命の日があっという間にやってきてしまうのです。

1959年2月2日、ツアー中、次の公演先へいそぐために、アイオワ州クリアレイクでチャーターしたセスナ機が離陸直後に墜落。搭乗していたバディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ビッグ・ボッパーの3人は、帰らぬ人となったのです。そして、2月7日、彼らは埋葬されました。

大活躍中で、しかも未来を期待されていた若きロックスター3人を失ったこの日は、後に「ザ・デイ・ザ・ミュージック・ダイド(音楽の死んだ日)」といわれるようになるのです。


主人公が死んでしまったので、お話はこれでおしまい、のはずなのですが、そうはならないところが、バディ・ホリー・ストーリーのすごいところ。

ホリー自身はわずか22歳で亡くなってしまったわけですが、ホリーの音楽は死ななかった。

死後に発売された、「レイニン・イン・マイ・ハート」、「イット・ダズント・マター・エニモア」が大ヒット。続いてでたベストアルバム「バディ・ホリー・ストーリー」は、その後、5年間チャートにとどまる、という大記録を打ち立てます。さらにそれ以降、10年に渡り、ホリーの未発表音源をオーヴァーダビングで、コマーシャルレベルに処理して、発売するということが続くことになるのです。

最初に出たのは、1959年、ジャック・ハンセンがプロデュースした、「クライング、ウェイティング、ホーピング」と「ペギー・スー・ゴット・マリード」で、シンプルなホリーの音源にコーラスをオーヴァーダビングして発売され、さらに最も後に残された6曲を入れて、アルバム「バディ・ホリー・ストーリー vol.2」としてまとめられました。





その後も、ホリーは、「まだ生きているアーティスト」と同じように、新曲をリリースします。

「もっとバディ・ホリーを聴きたいぜ!頼むよ!神様!」という声がどんどん高まっているのを知ったかつてのマネージャー、ノーマン・ペティは、自分のところで吹き込んだ様々なデモ・テープ、アウトテイクなどをオーヴァーダビングでうまく処理して発売するようにしました。これは、最終的に1969年まで続くことになり、結局、バディ・ホリーは、死後10年間に渡り、現行アーティストと肩を並べて活躍したのです。


というわけで、実際に活躍した50年代の1年半だけでなく、それに続く60年代の10年間で、ホリーは絶大な影響力を持ちました。

革新的なことも多数。例えば、ギター演奏の分野では、ホリーは当時としては特異なギタリストで、リズムギターから、コードソロのリードへなめらかに移行するスタイル(「ペギー・スー」、「オー、ボーイ!」、「ノット・フェイド・アウェイ」など)は、ホリーが最初でした。

また、歌作りの面においても、曲作りの面においても、当時としては複雑かつ洗練されたものでしたし、2トラック録音の先駆だとも言われています。


それに、そもそもバンド演奏スタイルそのものが、後のロック音楽のスタンダードとなるグループの原型となったのです。

バディ・ホリー&クリケッツは、「全員楽器を弾きながら、ハーモニーコーラスも歌う、エレキ2本、ベース、ドラムズで編成されたロック・バンド」だったわけですが、それをそっくり、真似て、オリジナルで曲を起こし、演奏したイギリスのグループが、ザ・ビートルズで、そもそもバンド名(かぶと虫)からして、クリケッツ(こおろぎ)のオマージュとして名付けられていました。特に、ホリーの大ファンである、ポール・マッカートニーは、ホリーの版権をすべて買い取り、所有しているとのこと。ビートルズは、ホリーの死後、5年して現れた、イギリス版バディ・ホリー&クリケッツだと言うことも出来ます。

そういう意味では、「ロック音楽について言えることは、1959年までに、22歳のバディ・ホリーが全て言ってしまっていた。」とまで、言われているのです。


ポップ・カルチャーの中でも、ホリーはたびたびとりあげられてきており、パラシュートで脱出して実は生きていた(アンビリーバボーか!)、というテレビ番組から、実は月に住んでいるというSF(Y追J一か!)、果てはアニメ「シンプソンズ」に至るまで、エルビスと同じく、アメリカ文化の伝説そのものになってきています。



さて、バディ・ホリーは死んだのでしょうか?

未だに、わたくしのような人間が、遠く極東の島国で、こんな風にコラムを書いている人物が、本当に死んだと言えるのでしょうか?

OO7・・もとへ、「人間は2度死ぬ」という言葉があるのだそうです。1回目の死は、その人が実際に死んだとき、2回目の死は、その人が周囲の人々の記憶から消えたとき、といいます。

バディ・ホリーは、不幸にして、早くに1回目の死を迎えてしまいましたが、残した音楽が今日でも愛され続けることによって、2回目の死は、未だに来ていない、とも言えるのではないでしょうか?

(2011年に執筆)

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