ファイアー・クラッカーはその後どう軌跡を描いたか ー イエロー・マジック・オーケストラ



わたくし、最近、DTMということをやっています。

DTMはデスクトップミュージックの略だそうで、ほぼ、パソコンだけでひとりで音楽が作れる、というもの。

これ、MIDIデータ(コンピューターで作った合成音。実際の楽器の音をもじって作られることが多いです。)がたくさん入った録音ソフト(CUBASEなど)をパソコンにインストールして楽譜のように書き込むか、外部キーボードを弾くと連動してそのまま録音できる。ひとりでバンドもできてしまいます。

パソコンとマイクやエレキをつないでアナログ信号をデジタル信号に変換するオーディオ・インターフェイスを使えば、ボーカルや実際の演奏を重ねていくこともできます。

一番安いオーディオ・インターフェイスとソフトのセットは、とうとう1万円を切っています。お手軽に、だれでもDTMで、ひとりで音楽が作れる時代になった、ということです。


さて、わたしがもともとこうした「多重録音」をして遊びだしたのは、10代のころで、当時はパソコンなんてありませんから、親父のオープンリールテープレコーダーのヘッド部分に音を重ねられるように細工をしてました。

80年代には、4万円ほどでカセット式マルチトラックレコーダーが一般に販売される時代になり、アマチュアが割合簡単にできるようになった。そのうち、20万円以上しましたが、コルグのシンセサイザーを手に入れて、相当凝ったことも始めました。

このときは、パソコンで編集をするより、コルグ本体でやってました。なんとあの、5センチ四方しかない小さい表示部で編集作業までやったのですが、今考えると頭から煙が出そう。そもそも今では老眼で、無理ですね。


そうした過去の経験から考えると、いまのDTMはとても便利で安価。すごい時代になったものです。それくらい進化したコンピューター音楽。そもそものきっかけはいつごろだったのでしょう。


中川克志著「コンピュータ音楽」(現代美術用語辞典)によると、最初のコンピュータ音楽はDTMで、クラシック音楽の世界。

1954年のことだったようです。

また初めてMIDIが可能になったのは1957年で、ベル研究所のマックス・マシューズとジョン・ピアースがプログラミング言語「Music I」を用いてコンピュータによる音響合成に成功したとあります。


さて、個人的な思い出は、1984年に飛びます。大学を卒業して最初に就職した職場で初任者研修がありました。

その一環で、「電子計算機研修」というのがあったのですよ。当時、東京のど真ん中にある大きなオフィスですら、ワープロもなかった時代。ガリ版印刷、手書きと青焼き(古いゼロックス)の世界。

電子計算機というのは、今のコンピューターですが、当時はパソコンが普及する以前(内閣府調査によるとパソコン普及率が50パーセントを超えたのは、21世紀に入ってから)であって、電算処理業務、というのは、専門機関がすべて請け負ってやるものでした。当時の電算処理機は、テープがぐるぐる回っている巨大な機械です。まるで巨大な書棚みたいなやつ。

あれがいまではモバイル程度の大きさになっていると思うと、短期間にどれほどすごいスピードで進化したか実感できます。

で、そのときに研修内容覚えています。もちろん、デスクトップにパソコンを置いてやったわけでも、タンスみたいなスーパーコンピューターをいじったわけでもなく、紙切れ(カード)にパンチャーで穴を開けるというものでした。

コンピューターの元祖のひとつは、実は、楽器です。自動演奏オルガンというもので、厚紙のロールに穴が開いていて、楽器内の歯車でできた機械がそのパターンに従って鍵盤をたたく。オルゴールと同じ原理です。作られたのは1847年。

そもそも、電子計算機の歴史ってどこから始まったのか。


コンピューター博物館「黎明期のコンピューター」より抜粋


機械式計算機

現在残っている最古の機械式計算機はフランスのブレーズ・パスカルが1643年に作った計算機パスカリーヌで、19世紀になってフランスのシャルル・トマが商品化に成功。

これらの手動式の卓上型機械式計算機は、その後モータを採用した電動式卓上計算機に発展する。

一方,イギリスのチャールス・バベッジは、1834年ごろから機械式解析機関を発明。記憶装置と演算装置から構成され,外部から与えたパンチカードによりプログラム制御する方式となっており、完成はしなかったが今日のコンピュータの元祖となる。


電気機械式計算機

19世紀の終わりごろには小形電気モータが登場し、電気を動力とする計算機を開発できるようになった。

米国では統計処理を効率化するため,ハーマン・ホレリスはパンチカードを用いた統計処理機械を1884年に開発。

これはパンチカードシステム(PCS)として発展し,20 世紀に入って事務処理に大量に使用された。


パンチカードによって機械を自動化するというのが、楽器でも計算機でも、1830-40年代なのがわかります。

コンピューターがパンチカード電気式計算機として普及し、それが現代のパソコンまでつながっているのだとすれば、自動演奏(シーケンサー、という)はオルゴール起源から自動演奏ピアノを経て、現在は同じ起源を持つ兄弟システムであるコンピューターと一体化した、と言っていいと思います。

言ってみれば、コンピューター音楽は、機能的には、オルゴールへの先祖返りです。


こうして調べてみると、コンピューター音楽のルーツはとても古いけれど、70年代まではあまり一般的ではありません。

それまでは、コンピューターそのものが一般的ではなかったのとリンクして、コンピューター音楽もクラシック、現代音楽、アートの世界に近い人たちがあれこれと実験をしていた、という感じです。70年代初頭になると、少しづつ、ポピュラー音楽にもコンピューターがとりいれられはじめます。エマーソン・レイク&パーマーは1971年という早い時期にシンセサイザーを用いました。ドラムマシンも多くのプロ録音に取り入れられ始めている。

しかし、わたしたち普通の音楽ファンが、面白い、と認識しだしたのは、いつくらいからでしょう。


60年代ごろまで、現代音楽において、ほぼ、味付け、実験程度に取り入れられてきたコンピューター音楽は、1970年代にポピュラー音楽の分野で大発展を遂げます。

最初の特筆すべきグループは、ドイツのクラフトワークで、1971年にアルバム「クラフトワーク」でテクノポップといわれる音楽の元祖になりました。




続いて、ディーヴォ、わが国のイエロー・マジック・オーケストラが世界的にヒットして、シンセサイザーのmidi音源を使ったプログラミングによる自動演奏と人の手によるリアルタイム演奏をミックスしたテクノポップが確立します。

クラフトワークの「テクノ・ポップ」は、先駆的な実験でありながら、ファンク、ポップ、そしてマーティン・デニーの古いラウンジ音楽をミックスして、最先端のダンス音楽を機械化してみせたような全く新しいサウンドで大変な人気を得ました。

そして全員がロボットを演じて見せたこともまったく新しかった。

その後、70年代のディスコが一気にコンピューター音楽化していったのも彼らが作った流れの一環でしょう。

この路線のオリエンタル風味をさらに発展させて有名になったのが、日本が誇るイエロー・マジック・オーケストラ。コンピューター音楽の歴史から見ると、必ずしも先駆者というわけではありませんが、生演奏とシークエンサーを織り交ぜたフュージョン音楽は誰にも聴きやすく、ポップ音楽に占める位置は大きいです。

わたし、80年代前後にレコードを全部買い集めてよく聴いていました。単純にいい音楽だと感じましたし、今聴くとなささらそう思う。「人間らしいグルーブ」とか信じていた当時の音楽仲間からは、ずいぶん変わった趣味だと言われましたが、同世代の音楽系ではない普通の連中は楽しい流行ものとして聴いていたと思います。

発案者の細野晴臣は、「デニーのエキゾチックムード音楽(60年代)のファイヤークラッカーをシンセサイザーで録音してアメリカで400万枚売る」というコンセプトで立ち上げたのだそうです。



細野晴臣は70年代前半から、はらいそ、トロピカルダンディーといったソロアルバムで、古いニューオーリンズR&B、ロックンロールといった音楽にラテン、デニーのようなオリエンタル風味のエキゾチカ音楽を加味した作品をたくさん発表していました。それを発展させてコンピューター音楽を取り込んだところから、イエロー・マジック・オーケストラがスタートしたということらしい。クラフトワークがお手本になったのかもしれません。

こうした先進的技術を取り込んだ音楽はどうしても機器の発展とリンクします。当時のシンセサイザーは、今のものと比べると非常に原始的で、MIDIを作るためにあったのですが、発音が現代のようのたくさん確保できず、単音だったり、ベロシティ(音の強弱)がつけられなかったり、と不便なものでした。きわめて、「ピコピコした機械音」だったと思います。おまけに、リアルタイムで演奏せずに、自動演奏(プログラミング)をすると、ジャストでしか動かないため、生身の人間らしいグルーブが出ない。あまりに正確だといかにも機械という感じがするためです。

それを逆手にとって、「いかにも機械です」というところを売りに、現代社会を揶揄するような意味も含めて、新しい珍奇さを出してきたところがクラフトワーク以降のいわゆる「テクノポップ」の特徴だったと思いますが、イエロー・マジック・オーケストラは、「グルーブのない音楽の研究」とあえて言い切った実験音楽というなかば皮肉ともとれるような売り出し方もした。しかしながら、実際は、その活動は5年ほどしかありません。


彼らの最盛期は、80年代前半ですが、後半から90年代にかけては、わたしの思い出話にも出てくるように、シンセサイザーが大変急速な発展を遂げるとともに、一般向けに普及しだすのです。もともと箪笥みたいな巨大単音シンセが170万もしたのに、90年代には、軽量、小型化、圧倒的に高性能になったものが20万ほどで売られるようになりました。先にわたしの思い出話に書いたとおりです。

もはや、ファイヤー・クラッカーのMIDIバージョンは、家庭でアマチュアが作れるようになった。


それがイエロー・マジック・オーケストラの解散原因ではありませんが、コンピューター音楽を取り巻く状況が相当速いスピードで進展していたのは事実。

90年代以降になると、プロの現場ではコンピューター操作なしにはレコードそのものが作られなくなっていきます。そもそもこうした流れというのは、コンピューター音楽以前からあり、70年代ポップ音楽はすでにスタジオシステムの中で、編集補正がなされるようになった。一発録りのレコードはなくなり、テープはつぎはぎ編集だらけになった。それが80年代以降、もっと便利なデジタルデータに置き換わっていったのは、手書き、コピーの糊付けからワープロ、パソコンに進化していった事務仕事と同じわだちを踏んでいます。




特に、早くに発展したリズムマシーンは、音質、利便性ともに急速な進展を遂げ、「最初にドラマーが失業した」と言われるまでになっていく。

もともと、昔から、優れたミュージシャンというのは、「まず正確であること」を要求されますが、機械にかなうはずがありません。オリンピックにバイクが登場しないのは、走ることに特化した機械に人間がかなうわけがないからです。

早くから航空機がそうであったように、自動車も自動運転になろうという21世紀はましていわんや。

言い換えれば、「機械みたいに演奏できるうまい人」が技術進展で本当に機械にとって代わられた、ということになる。

そんな未来予想をテクノポップはやってみせた。機械的なジャストなリズム、正確無比な音程、どんな困難なフレーズも難なく演奏する自動機械といったことを提示してみせたテクノ・ポップは流行としては下火になっていきましたが、その考えの基礎となる技術はどんどん発展を遂げていって、現代の音楽制作そのもののあり方を変えていきました。

人の声という、歌手ですら例外ではありません。テープのつぎはぎどころか、今はアマチュア向けのDTMソフトにすら、ピッチ補正機能がついていて、音痴な人がいなくなりました。

これの究極はたぶん、ボカロ。これを「気持ち悪い」という人は、単に古い人だというだけで、現代では完全に市民権を得ているし、むしろ、これくらい正確無比でないととても気持ち悪くて聴けないという人が圧倒的に増えた。

かつての昭和中ごろまで、1950年代くらいまでのヒット曲と比べながら、今のヒットソングを注意深く聴けば、そのサウンドの成り立ちの大きな差がわかります。それはコンピューター技術がなしえたものです。

そうした今の音楽制作、音楽ファンの指向性の根底をはじめて示して見せたのが、最初のテクノ・ポップ群だったと思います。

ファイヤー・クラッカーは、パッと散る見世物ではなくて、旧来のアナログな、人の温かみが一番、と言われていたポップ音楽の価値観を根っこから吹っ飛ばすほどの威力のあるクラッカーであったのだと思うのです。


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