黄色いリボンの100年史 ー トニー・オーランド&ドーン


イエローリボンは、輪状にした黄色のリボン、もしくはそれを図案化したシンボルで、アウェアネス・リボンのひとつである。

多くの国で使われているが、国によって大きく意味が異なる。このシンボルが最も広く使われている国は、アメリカ合衆国である。愛する人、特に戦争に送られ、一時的に祖国に帰ることができなくなった兵士達に対して、帰りを待ちわびているという思いを表すシンボルとして使われている。(wikipedia)


黄色いリボンにこのような意味づけをする軍歌は古くから知られていたが、今日のような使われ方のきっかけは、1979年のイランアメリカ大使館人質事件の際、ケンタッキー州リッチフィールドの婦人会で、人質の無事帰還を願って街路樹に黄色いリボンを結んだり、身につけたりしたことがABCテレビのニュース番組で取り上げられ、全国的に黄色いリボンの掲示が行われるようになったため、ということのようです。


さて、わたしくらいの年代の人には、たぶん、青春時代の思い出のひとつとして記憶していることも多い名曲、「幸せの黄色いリボン」。1973年のビルボード1位の大ヒットでした。トニー・オーランドは、大ヒットが他にもあるし、60年代の名歌手でもあるのですが、これ1曲で今でも有名です。たった今もコマソンに使われて家庭に流れている。


しかしながら、夫の帰りを待つ女性と黄色いリボンの歌の歴史はとても古く、1917年に遡ります。

最初の著作権で保護された曲は、ジョージ・A・ノートンの「ラウンド・ハー・ネック・シー・ウエア・ア・イエロー・リボン」で、最初にレコーディングされた曲でもありました。

ノートンの歌は、200万人の男性が海外派兵された第一次世界大戦にぴったりでした。

この曲に登場する女性は、夏でも冬でも首に巻いている黄色いリボンについて尋ねられると、「兵士で前線にいる彼を待っているからよ。」と答えるのです。




その後、1949年。60,70年代にテレビで観た人もたくさんいると思いますが、ジョン・フォードの西部劇「黄色いリボン」の主題歌に、1917年のこの歌が使われ、日本でも有名です。


アンドリュー・シスターズ版「黄色いリボン」



さらに後年、歌ではなくて、物語、お話として、黄色いリボンは語り継がれてきました。

軍隊でなく、刑務所から出所した囚人が家族のもとへ帰るといったバージョンもあった。

もし、帰りを妻が待っていてくれるなら、家の前のリンゴの木に白いリボンを結んでおく。もし、なかったら、もう帰る家はない、というストーリーです。ラスト、木にはためく数えきれない白いリボンを見て彼は無事帰郷を果たします。


この話は、口頭伝承で語られましたが、1971年に、人気コラムニストのピート・ハミルが、ニューヨークポストのために新しいバージョンを作成しました。

その中で、ハミルは白いリボンの代わりに黄色のハンカチを、リンゴの木の代わりに樫の木としましたが、この短いストーリーは、1977年に、わが国の山田洋次によって脚色され、黄色いリボンは黄色いハンカチとなって映画化されました。高倉健が主演した「幸せの黄色いハンカチ」です。




その間にあたる1973年、トニー・オーランド・アンド・ドーンの「幸せの黄色いリボン」が世界ヒットになっています。

ピート・ハミルは、著作権侵害でソングライターのアーウィン・レヴィンとL・ラッセル・ブラウンを訴えましたが、敗訴しています。なぜなら、この黄色いリボンの物語は、作者不明、みなが語り継いできた民間伝承だからです。


1979年に起きたテヘランで起きた米国大使館での人質事件で、52人の人質の家族は、危機意識を国民に示すべく、組織だってキャンペーンのシンボルとして黄色いリボンを選びました。彼らは、テレビの気象記者を含む全国の著名なアメリカ人に一万本の黄色いリボンピンを配布。1981年、人質は444日後に解放され、黄色いリボンは、象徴として改めて有名になりました。


さて、70年代を代表するヒットのひとつ、「幸せの黄色いリボン」が、あれほどヒットした理由は、ベトナム戦争にあります。

この曲の作られた1972年はリチャード・ニクソンが泥沼化したベトナム戦争撤退を決めた年で、帰還兵で溢れました。

帰郷する兵士の歌といえば、「黄色いリボン」です。トニー・オーランドの歌った曲は、ピート・ハミルの話のように、囚人の歌でしたが、もともとは帰還兵の歌ですから、時期的に時宜を得たものでした。


トニー・オーランド&ドーン「幸せの黄色いリボン」



トニー・オーランドについていえば、この人は59年にドゥーワップでデビューした歌手で、実力が認められてニューヨークのブリルビルディングの作曲家、デモ歌手として雇われたことがメジャーへの道となった人です。この時期のヒットに、「ブレス・ユー」があります。

その後、レコード会社の裏方として、出世街道を歩み、プロデューサーにもなり、1960年代後半には音楽エグゼクティブとして成功しました。1967年にはコロンビア・CBSレコードの副社長にまでなっています。




最初のナンバーワンヒットは、1970年の「キャンディダ」で、「幸せの黄色いリボン」が続き、1974年から1977年にかけては、CBSでヒットバラエティ番組「トニー・オーランド・アンド・ドーンショー」でホストを務め、エンターテインメント界の大物となって、現在でもラスベガスで、ヘッドライナーとして多くのライブショーを続けています。


また、オーランドは、アイゼンハワー財団の理事会と、亡くなった軍の英雄の子供たちへの支援を行うスノーボールエクスプレスの名誉会長を務めたり、3つのアメリカンミュージックアワードと2つのピープルズチョイスアワードを受賞しています。

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムも受賞。

我が国ではなんとなく一発屋的にしか記憶にとどめられていませんが、アメリカ本国では、単なるヒット歌手ではなくて、レコード業界の大物、政界、財界とも縁の深い国家規模のセレブとして華々しい経歴を持つ人です。


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