クレイジー・マン・クレイジー ~ 50年代前半のビル・ヘイリー その2







みなさん、こんばんはらたつのり!

さて、前回に引き続きまして、ビル・ヘイリーの有名人になる前後のお話。

前回書いたように、ロック・ザ・ジョイント以降次々にヒットが連発、中でも53年に出たクレイジー・マン・クレイジーの大ヒット(ビルボーで12位)により、ヘイリーの印税を除く実演ギャラは、ラスベガスのホテルが中心となって、月収換算にしてみると、およそ現在の日本円で500万円を稼ぐレベルになっていきます。もはや、セレブ。大金持ち。

大手のデッカに移籍してゴールドディスクを出す前、まだエセックスという小さなインディーズにいたころなので、無名なイメージがありますが、実際は、もう全国レベルのヒットソングメイカー、大スターなんですよね。

52年のヒット、ロック・ザ・ジョイントの後、ヘイリーがした大きな仕事は、バンドの衣替えです。ロック・ザ・ジョイントでできた、ホテルなどの都市型ハイソサエティな舞台で活躍しだした新しいダンスバンドのイメージを作るべく、バンド名をサドルメンなんていう泥臭いものからコメッツに変更。カウボーイハットにウエスタンシャツ、という40年代ウエスタンスターの田舎ヒーローくさいイメージを捨てるためにタキシードに変更。ここでは、カントリーヒットを夢見る若者ではなくて、実利をとる、冷静なプロフェッショナルとしてのヘイリーがよく出ています。この人となりがその後、10代のガキどもからの支持を失う元凶にもなっていくのですが、まだ、エルビスも出てきていない時点では、ガキんちょどもも熱狂的な新しいヘイリーサウンド(のちのロックンロール)に夢中だったのですね。

話が少しさかのぼって53年の初頭、ヘイリーはサウンドを確立させるべく、いくつかバンドに手を入れています。

ひとつは、ドラムスの導入。なんだかなあ、53年でやっとドラムス?なにそれ?と思うかもしれませんが、当時のカントリー音楽にはドラムは入ってません。めちゃくちゃ保守的なんですよ、オープリーとかナッシュビルは。当時は電気ギターですら亜流だと思われていたそうで、スチールギターよりドブロのほうが好ましい、とか言われていた。

ドラムスがちゃんと入ったのは、リール・ロック・ドライブあたりから。初期の写真に写っているあまりその後見かけない顔の人、チャーリー・ヒグラーが初代ドラマーです。53年夏からはディック・リチャーズに入れ替わり、この人は最期までコメッツ(復刻版のオリジナルコメッツ)だった人です。




しかし、本当のチャンスは自作曲、クレイジー・マン・、クレイジーを書いたところからスタートしました。これは、当時、コメッツの演奏の場のひとつだった、高校のダンスパーティで、高校生からかけられた言葉をそのままタイトルにしたもので若者独特のスラングを知らないおじさんバンドリーダーのヘイリーが、いわば、商売目当てで高校生のスラングを採用したわけです。これが受けた。ウケに受けて、大ヒットした。歌詞の力は偉大なんですよー。日本人にはピンときませんが、当時のがきんちょにはピンときた。だからヒットしたのですね。レコーディングにつきあったのは、コメッツメンバー以外では、ドラムスのビリー・ゲサック。この人はデッカ時代、ジャズドラマーだったラルフ・ジョーンズが正式に雇われるまで、コメッツのレコーディングドラマーを勤めました。

結局、クレイジー・マン・クレイジーは、1953年5月23日、ビルボードチャート12位番に達する大ヒット。ヘイリーの最初の全国的な成功であり、オリジナル曲での彼の最初の大ヒットです。さらに、これはポップチャートだけでなく、ビルボードR&Bチャートでも10位になるクロスオーバーヒットになりました。

版元のエセックスレコードは1953年4月25日にビルボード誌に全ページ広告を掲載し、シングルは「15日間で10万以上」売れたと述べています。

その後、1953年の夏、CBSアンソロジーシリーズのGlory in the Flowerのサウンドトラックで使用されて、米国の全国テレビで聞かれる最初のロックンロール曲になりました。また、コメッツは1954年のユニバーサルインターナショナル映画の短編「リズムのラウンドアップ」でこの曲を演奏しました。


Crazy Man Crazy



この映像で見られるのは、現在でもオリジナルコメッツとして認められている最も有名なメンバーによる演奏です。

ボーカルとギターがビル。ヘイリー、スティールギターがビリー・ウイリアムソン、サックスがジョーイ・ダンブロージオ、ベースマーシャル・ライトル、ドラムスがディック・リチャーズ、ピアノがジョニー・グランデ。

クレイジー・マン・クレイジーは、レコードの売り上げだけでなく、ライブオファーも大幅増という結果をもたらしました。

シュガー・レイ・ロビンソン(伝説的ボクサー)の試合会場で試合前演奏をしたことも。

続いて出た、フラクチャード(24位)、リヴ・イット・アップ(25位)で、記録更新とはいわないまでも、立派なヒット。

ただ、ヘイリーはケチだったらしく、固定メンバーも安月給でこきつかったいたと言われています。これが、のちに、3人のメンバーの脱退騒動(ジョディマースの結成)につながっていきます。

明けて1954年、エセックスとの契約期限が切れることを境に、ヘイリーは大手デッカレコードへ移籍。

シェイク・ラトル・アンド・ロール、サーティーン・ウィメン、そして、ロック・アラウンド・ザ・クロックを吹き込みます。

ここで、この話はおしまい。あとは、世界的大スター、ギネス記録上最も売れたロックレコード、云々、とよく知られた話が続きます。ロック時代の幕開け、というやつですね。

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