サマー・スーヴェニア ~ 50年代後半のビル・ヘイリー



1957年のイギリスツアーは、「大成功の大失敗」だったという話を前々回にしました。

奥さんと一緒にイギリスのウォータールー駅に到着したヘイリーを待っていたのは、4000人の熱狂的なファンでした。

コンサートも大入り大成功。しかし、ある意味、失敗だったのは、当時のカントリーバンドではスタンダードなアクト(ジョークやコメディアクトを交えたボードビル的なステージング)が若者層に受けなかった。

ちょうど時代の変わり目で、すでにベテランのミュージシャンだったヘイリーが普通だと思っていたことがもう時代遅れになっていた、ということでしょう。

結果、ロック・アラウンド・ザ・クロックだけはイギリスで再び過熱して大ヒットしましたが、それ以外はいまいちだった。

帰路についたヘイリーを見送りにきていたファンはわずか数人だったそうです。

この渡英をきっかけに、ヘイリーは競争から敗退したと言われています。これが、大成功の大失敗という意味です。

なお、60年代の終わり、非常な人気をもって迎えられた50年代ロックリバイバルブームの立役者として返り咲いた際、人気を下支えしたのがイギリスだったことは特筆すべき。21世紀の今でもヘイリーの音楽はイギリスでのほうがアメリカより人気があります。



帰国したヘイリーは、自分のキャリアを再考せざるを得ませんでした。このままではますますダメになると思った。しかし、プロのソングライターもいないコメッツで、目新しい曲を作ることも困難でした。「アイデアが枯渇してしまった」(フランク・ビーチャー)ということだった。そこで、古い世代向けに、一時代前のスタンダードにコメッツ特有のアレンジを施したものを出したけれど(ロッキン・スルー・ザ・ライ、ロック・ロモンド、ユー・ヒット・ザ・ロングノート、ビリーゴートなど)これも当たらず。

おかかえのソングライター、ラスティ・キーファーが書いた、ピカデリー・ロック、ロッキンローリン・シュニッツェルバンクといった「ロッキン・アラウンド・ザ・ワールド」の二番煎じものもダメ。

ハウ・メニーといったカントリーソングもダメ。エディ・アーノルドの有名なイッツ・ア・シンのカバーもぬるい出来でダメ。

ミルト・ゲイブラーによると、「このころには、ヘイリーはもともと持っていたカントリー・フィーリングをなくしていた。」

メリー・メリー・ルーは、かなり出来栄えがよくて、かつてのエセックス録音を思わせたけれど、いかんせん、当時は流行おくれだった。

このころ、実は、当時はリリースされなかった傑作、「ウォーキン・ビート」が録音されていたけれど、アット・ザ・ホップの盗作と言われるんじゃないか、と余計な心配をしたせいでお蔵入りになっています。


walking beat :



続いて出たスキニー・ミニーがヘイリーにとってのブレークスルーで、ボ・ディドリー風のギター・リックと語り調の歌からなっていました。小規模ヒットとはいえ、これでチャートに戻った。この曲はプロデューサーだったミルト・ゲイブラーのアイデアだったそうです。この勢いを失うまいと出したよく似た曲調のリーン・ジーンは思ったようにいかず、再び袋小路に追い込まれてしまいます。




そうこうするうちに1958年が終わろうとしているなか、今度はヘイリーの事務所がビジネス上の深刻な危機に陥ります。

マネージャーだったジム・ファーガスンが素人考えでやっていたわけのわからない投資がうまくいかなくなった。鉄鋼業、アート・ギャラリー、出版社、スタジオ経営などなど、あらゆることに手を出していた。一度だけの幸運が続くと思い込んでしまった。すべての事業投資がこけてしまった上に、このときの対応策がまずく、節税を失敗。莫大な税の追徴を呼び込んでしまい、内国歳入庁がヘイリーの資産を差し押さえました。これがヘイリーを生涯苦しめることになった財政破綻の元凶です。

ヘイリーが海外遠征に向かっていったのは、国内の収入は差し押さえられてしまうからという事情があったからなんですね。

しかし、1958年のドイツ公演は、以前と同じように興奮した若者たちが暴動を起こし、ヘイリーはすっかり恐ろしくなってしまった。ただ、ドイツではスペインの歌姫、カテリナ・バレンテと映画に出演しています。


with Caterina Valente



その後、ホエア・ディド・ユー・ゴー・ラスト・ナイトのように、上質な録音も残しているのですが、勢いを失ったコメッツは迷走状態。皮肉にもデッカ最後のセッションから生まれた最後のヒットはインストルメンタルで、これまでのコメッツロックンロールとは全く異なるラウンジサウンドのスコキアンとジョーイズ・ソングでした。これにはミルト・ゲイブラーの新しい戦略があったようです。

「ビルにとっては突破口になるかもしれないものだった。歳のいった顧客層を狙ったんだよ。ちょっと新しい、小規模のビリー・ヴォーン・オーケストラってとこだね。」

デッカとの契約が切れる1960年、大手のワーナー・ブラザースからの魅力的な申し出を、ゲイブラーはヘイリーに受けるように言います。契約金はデッカとの契約金の4倍。その金で追徴課税を払って、新しく出直すことができるからでした。

ワーナーに移籍したヘイリーは、様々な過去の録音の焼き直しや、ロックンロールソングのカバーをリリースしていきますが、ヒットには恵まれず。64年には再びロック・アラウンド・ザ・クロックが1位になる大ヒットを記録しますが、ワーナーとも切れたヘイリーは、メキシコに新天地を求めます。

その後のストーリーは、また信じられないほど数奇なものになっていきますが、それはまたいずれ別の機会に。

ではまた!

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