ロック・アラウンド・ザ・クロック - 50年代半ばのビル・ヘイリー その1


さらあらい もとへ おさらい


そもそもの始まりに戻ると、エセックスレコードのオーナー、デイブ・ミラーとニュージャージーのツインバーというチープなバーで知り合ったのがヘイリーのキャリアのスタートだったといえます。

このミラーという男、実はインチキ薬のセールスマン。はっきりと詐欺師ですね。出発点からして怪しいこのふたり、いったい何をしでかすのかわからない。

マフィア商売との関係からロケット88を吹き込んで、でっち上げたエセックスレコードからリリースして云々という話は前々回ここでお話しました。詐欺師とヤクザ、よくある話なのかどうか知りませんが、もうこの時点でアブナイ商売をしている胡散臭い連中の中にいたのがわかる。

続いて出たロック・ザ・ジョイントも他人のふんどしで、ジミー・プレストン版がすでに有名だったものを、冗談半分でカバーしたものが15万枚売れてヒットしました。




さて、ロック・アラウンド・ザ・クロックは、1953年に、60歳になるフィラデルフィアのベテランソングライター、マックス・フリードマンが書いた曲です。(他に、スー・シティ・スーが有名。)デイブ・ミラーは、フリードマンと共作したとされるジェームズ・マイヤーズとの版権上のトラブルを恐れて録音を拒否したとされていますが、このマイヤーズという人が曲者。実は曲など書いていない、とされています。なにか版権上の策略があったのでしょうが、名前だけで著作料をなにかのマージン代わりにしていた胡散臭い人ですよね。

この人がレコーディングを実現させて儲けようと、ヘイリーをエセックスから引き離してデッカレコードに連れていき、ジャズ界の名プロデューサーのミルト・ゲイブラーに引き合わせたところから、いよいよ世界的有名人、大金持ちへの道が開けることになります。あぶない橋を渡りまくったあげくのビッグ・ビジネスのスタートです。


ゲイブラーは、父がコモドアレコードの創立者で、音楽業界の名家の御曹司。数々のジャズの名盤を手掛けてきた人です。

このとき、手掛けていたのが、R&Bのルイ・ジョーダンだったので、ヘイリーがやっているタイプのR&Bに理解があった。

ヘイリーに、クレイジー・マン・クレイジーは覚えているけど、もっと改善してあげる、と言ったそうです。

マネージャーがわりのマイヤーズは当然、契約の際の条件として、自分に著作権があるものをまず録音することとしたので、1954年の最初の録音がロック・アラウンド・ザ・クロックになりました。これはR&Bでもカントリーチャートでもない、普通のポップレコードとして75000枚プレスされて、なかなか好調な売れ行きでしたが、スマッシュヒットではなかった。

リリース当初のジャズ・ジャーナル評は、「人種が定かでないグループによるジャンプ・ブルース。ヘイリーの歌は効果的で、バンドは今風のハーレムスイングスタイルの演奏」というものでした。

マイヤーズが次に録音させたがったのが、自分に著作権があるABCブギでしたが、ヘイリーの希望で、ジョー・ターナーのヒットのカバー、シェイク・ラトル・アンド・ロールとのカップリングで録音リリースされることになりました。これについては、ビル・ヘイリー自身が語っていますが、ジョー・ターナーのファンだったそうです。




ところが、先に録音してぱっとしなかったロック・アラウンド・ザ・クロックが1955年の春、映画「暴力教室」の主題歌としてフィーチャーされたことをきっかけに、6月にはナンバーワンヒットになります。




ところで、50年代のビルヘイリーを聴いていると、簡素な録音、簡素な編成、簡素な、音数の少ない編曲の中で如何に曲を高揚させるか、アイデアの粋を詰め込んでいることがよく解ります。編曲を重箱の隅をつつくように解析して解ることも未だにたくさんあるってことですね。

特に、スラップベースを効果的に録音して特段きわださせたことでロカビリーの最も特徴的なサウンドを51年ごろからスタートさせている。デッカ以前のエセックス録音は、プロデューサーだったデイブミラーがベースのスラップに着目し、ベースに張り付くようにマイキングして目立つようにしたということのようです。

こうした例のように、録音でも特筆すべきことがある。デッカ時代、一連の録音がなされたのは、即席撮りしたシーユーレイターアリゲーター以外はゲイブラーお気に入りのピティアン・テンプル(ニューヨークの古いビル)です。ゲイブラーはジャズ畑の人で一発録音を好みました。このホールは天井が高く天然のエコーがきいており、なんの電気操作(エフェクト)もなし。バンドは高い位置に全員を上げてヘイリーだけ壇の下で歌い、まとめて一本のマイクで録ってます。今聴いてもなにも電気操作をしていないというのが信じられない音質ですが、生の一発録音ほど凄いものはないのかもしれません。


ピティアン・テンプル



さて、48年にさかのぼってヘイリーのプレコメッツバンド、サドルメン。

アコーディオンとスティールが中心のサウンドでした。ジョニー・グランデ、ビリー・ウイリアムソンはビジネスパートナーとして契約しています。(編曲者及び舞台監督)

53年、全国的に有名になり、カネができたヘイリーは当時のアマチュアの若者3人(ベースのマーシャル・ライトル、ドラムスのディック・リチャーズ、、サックスのジョーイ・ダンブロージオ)を安月給で雇い入れました。

以後、アコーディオンとスティールはほとんど目立たなくなりますが、それもそのはず。器楽演奏の主力は雇われ器楽奏者にほとんどまかせたのでしょうね。

さらに、55年、ロック・アラウンド・ザ・クロック大ヒットで、きわめて金持ちになったヘイリーに安月給組の3人は賃上げを要求しますがはねられてしまいます。これがきっかけで一気に3人が脱退。独自にジョディマーズを結成して独立しました。ざけんな!大金持ちのくせに安月給でこきつかいやがって!くらいなもんだったのかも。


まあ、こうした経緯を見ると、いかにもビジネスライクで、当たり前ですが、金目当てで、場合によっては器楽奏者はが使い捨てのサラリーマンみたいなものだったのかもしれません。契約がすべてですからね。

こうした内紛、というか、労働争議みたいなごたごたが起こる一方で、ハリウッドからは映画出演のオファーがきます。「暴力教室」のヒットに便乗したハリウッド低予算映画、しかし、高額な出演料というおいしい話。それが「ロック・アラウンド・ザ・クロック」です。

この続きはまた次回!

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