史上最高のポップ・ディーヴァ ー ダスティ・スプリングフィールド



 さて、このブログは、もともとファッション・ブランド、the kingのコラムとして書き下ろしたものを個人的ブログとして掲載しなおしているものなのですが、the king掲載100回記念に、わたくしのつたないながらも50年以上に渡る人生で、一番好きなアーティストについて書くぞ!と決めていたのです。

しかし、なかなか書けず。いわゆる「無人島にたった1枚だけLP(CD)を持って行くとしたらどれにする?」っていうやつ。

わたしに限らず、子供のころから、誰でもたくさんの音楽を聴いてきてますよね。そんな中から「これが一番!」ってのを選ぶのなんて所詮無理な話だ、というのはよく聞きます。でも、よく考えてみたら、それって、あまりに「真面目な考え」に基づくもので、本当はもうとっくに感覚でわかってるんですよね。だって、いちばん好きって考えて、いちばん先に思い浮かぶ人がいちばん好きな人ってことでしょ?本当は、好きや嫌いに、余計な詮索も理屈もいらないわけですよね。

たまごかけごはんがなんで嫌いなんだ?なんで、空豆ばかり買い占めるほど食うんだ?ちゃんと好き嫌いしないで食べなさいっ!おかあさんは怒るわよ!と問われても、嫌いだから嫌い、好きだからしょうがない、としか答えられないですよね。


メアリー・イザベル・キャサリン・バーナデット・オブライエン。ダスティ・スプリングフィールドという名で知られる彼女は、本国のみならず、世界の認めた20世紀最高の女性歌手のひとり。日本ではモデルの「ツイギー」ばかり有名ですが、ダスティも世界的に見れば、60年代の「世界の恋人」と言っていい存在だと思います。単なる「俺的惚れ込み」だけってわけでもないんですよ。近所に住んでた美人のこずえちゃんじゃないんですから。(誰それ?)近年の「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第35位。

プロの歌手が口をそろえて言うのは、「あんな正確無比で、すごい歌唱テクニックを「すごい」と気がつかないくらいさらりとこなしてしまう人はいない。」ということですね。

このレベルになると、ほぼ「天才」です。

さらに、「彼女はまるで名女優のようだった」とも言われています。映画に女優として出ていた、っていう意味じゃないんですよ。曲によって、作者がその曲を通じて言いたいこと、訴えたいことを、声だけでなく、表情、身振り手振りで表現し、その表現力を超える人はいなかった、ということです。

ダスティは、多くのトップ・ヒットを出し続けてきた人気歌手で、1963年から1989年にかけて、アメリカで6曲のトップ20ヒット、イギリスでは16曲のトップヒットを出しています。アメリカ、イギリスのどちらの国でも「ロックンロールの殿堂」入りもしています。本国イギリスでは、大英帝国勲位(OBE)も与えられている。

また、ポップ音楽史上、最も重要な「ブルーアイド・ソウル・シンガー」でもあります。「ブルーアイド・ソウル」って知ってます?人種問題が大きなテーマだった当時、アメリカの黒人たちが「これが自分たちのアイデンティティだ」と、世界に訴えてきた音楽が「ソウル音楽」だったわけです。そんな中、白人でも、黒人音楽を本当に理解し、同格の魂を感じる音楽ができる人を「ブルーアイド・ソウル」といって、黒人たちから仲間として、同志として、理解と尊敬の念で迎えられたアーティストたちのことです。

アメリカで出ているDVDには、当時の生ステージを録画したものもあります。レコードや有名なBBCの冠番組収録ではない、生のライブのダスティは、モータウンのソウル・アーティストをしのぐ白熱したステージを展開していたことがわかります。これでは、アメリカの偉大なソウルブラザーやソウルシスターたちも当然、「あのイギリスの女の子はすごい」と言わざるを得なかったでしょう。「スタジオの音」だけではわからない。

自身で選曲し、アレンジもし、歌唱も実力派、というだけでなく、ブロンドのビーハイヴ・ヘア、イヴニング・ガウン、派手なつけまつげとマスカラの外見(パンダ・アイ)は、ロンドンを中心にした「スインギング・シクスティーズ」の象徴ともいえるもので、世界的に模倣され、ファッションリーダーとしても一時代を築いた人でもありました。


さて、1939年、ウエスト・ロンドンのカソリックの家庭に生まれた彼女は、自学で唄うことを学び、58年に最初のプログループ、ラナ・シスターズを結成。当初は、ポップーフォークのヴォーカル・トリオとして活動しました。

ダスティは、とても幅広くアメリカ音楽を聴いて育っていて、ジョージ・ガーシュイン、ロジャース&ハート、コール・ポーターなどのミュージカル=クラシック・ポップや、デューク・エリントンやグレン・ミラーといったアメリカン・ジャズの大御所の大ファンでありました。特に、「スモーキー・ヴォイス」(かすれたようなセクシー・ヴォイス)のペギー・リーとジョー・スタフォードは、女性歌手として、ダスティに大きな影響を残したようです。


さらに、1960年には、2人の兄と「スプリングフィールズ」を結成。スプリングフィールズは、61年と62年に、イギリスで、「イギリス最高のヴォーカル・グループ」に選ばれましたが、63年にダスティは脱退。

1963年、ソロになり、最初の大ヒット「アイ・オンリー・ウォント・トゥ・ビー・ウイズ・ユー」(二人だけのデート)でブレイク。これは、ジョニー・フランツによるプロデュースで、アメリカのフィル・スペクターによる「ウォール・オブ・サウンド」をまねて作られました。ダスティにとってみれば、あこがれだったアメリカのドゥーワップ・ガール・グループであるシュレルズのようなサウンドでお気に入りだったようです。英米ともに大ヒットとなり、(米ビルボードでは10週間以上チャート入りした)、結局ミリオンセラー、ゴールド・ディスクになりました。

64年の最初のアルバム「ア・ガール・ネームド・ダスティ」は、彼女のお気に入り曲のカヴァー集で、イギリスでアルバムトップ10入り。


「アイ・オンリー・ウォント・トゥ・ビー・ウイズ・ユー」(二人だけのデート)


同じ64年には、「ステイ・アホワイル」、「オール・クライド・アウト」、「ルージング・ユー」と立て続けにヒット。「ステイ・アホワイル」B面の自作曲「サムシング・スペシャル」は、批評家から大絶賛されましたが、ダスティ本人は、「ソングライティングは嫌い」と言っていたようです。さらに、バート・バカラック作の「ウィッシン・アンド・ホーピン」、「アイ・ジャスト・ドント・ノウ・ホワット・トゥ・ドゥ・ウイズ・マイセルフ」とトップ10ヒットが続きます。


「ステイ・アホワイル」



「ルージング・ユー」


65年に、キャロル・キングのペンになる「サム・オブ・ユア・ラヴィン」などの傑作をリリースしたダスティは、イタリアのサンレモ音楽祭に出演した時に耳にしたピノ・ドナージオ作のカンツォーネ「イオ・ケノン・ヴィヴォ」の英語ヴァージョンを出そうと決意。友人のソングライターヴィッキー・ウィックヘムの手により歌詞が作られ、66年に発売されたのが、「ユー・ドント・ハブ・トゥ・セイ・ユー・ラブ・ミー」(この胸のときめきを)。


「ユー・ドント・ハブ・トゥ・セイ・ユー・ラブ・ミー」(この胸のときめきを)


後にエルビスをはじめ、様々なアーティストにカヴァーされ続けることになる、ダスティヴァージョンは、イギリスで1位、アメリカで4位の大ヒットとなり、年間トップ100の35位にもなりました。(1999年に、BBCによる投票で、「オールタイムトップ100」にも選ばれています。)

66年には、自身の歌手活動だけでなく、自分のテレビ特番で、大好きなモータウン・アーティスト(テンプテイションズ、ミラクルズ、シュープリームス、スティーヴィー・ワンダーなど)をイギリスに招いて紹介するという功績も残しています。

さらに、同年、「リトル・バイ・リトル」、「ゴーイン・バック」、「オール・アイ・シー・イズ・ユー」とトップ20クラスのヒットを連発。リリースされたベスト・アルバム「ゴールデン・ヒッツ」も、イギリスで2位という快挙。


「オール・アイ・シー・イズ・ユー」


キュートな外見だけではなく、メロディメーカーの選んだベスト・インターナショナル・ボーカリストに選ばれるなど、世界一成功した女性シンガーという地位を手に入れたのです。

67年、バート・バカラックが書いた007映画「カジノ・ロワイヤル」の主題歌「ルック・オブ・ラブ」で、かつてのペギー・リーを思わせるスモーキー・ヴォイスで歌い、これがアカデミー主題歌賞を受賞。アメリカでも22位にあがるヒットとなりました。その影響か、67,68年は、渋いジャジーな選曲が多くなり、本国では売れたものの、アメリカでは売れ行きが鈍っていきます。

この時代、60年代後半は、世界的にサイケデリックロックの時代になってきていて、60年代前半から中期までのポップやソウルサウンド全体が流行らなくなってきました。

想像してみてください。ひげもじゃで、だっさいTシャツにボロボロジーンズ姿で年中ヤクでラリってるバカみたいな連中がもてはやされたヒッピー・ムーブメントの中、イブニング・ドレス姿でバラードを歌うダスティがいかに浮いた存在になっていったか。

そういう急激な流行の変化から、突然、キャバレーまわりの仕事ばかりになっていったダスティは、心機一転するため、大好きなアメリカのソウル音楽のメッカであるアトランティック・レコードと契約します。

そして、「ダスティ・イン・メンフィス」を発表。これは69年にリリースされて、ローリング・ストーン誌によって「歴史上最も偉大なアルバム」に選ばれました。69年には、「サン・オブ・ア・プリーチャーマン」がヒットし、グラミー受賞。


「サン・オブ・ア・プリーチャーマン」


しかし、絶賛されたのに、アルバムの売れ行きはさっぱり(トップ100の99位)。あまりに出来がいいのに、あまりに売れない。ソウル音楽そのものがあまり流行らなくなっていった時代背景があるからだと思います。このころから、彼女は18年間に及ぶスランプに入ってしまいます。

70年代~80年代にかけては、時代の変化だけでなく、アトランティックとのビジネス上のトラブル、レコーディングにおけるダスティの完璧主義から来る周囲とのトラブル、バイ・セクシャル発言によって(当時はこうしたカミングアウトが非常に珍しかった)ゴシップネタが大好きなイギリスのマスコミに餌食にされるなど、ダスティにとって、苦しい時代でした。次々にレコード会社を変わり、レコードをリリースしてもほとんどヒットすることもなく、アルコールや麻薬におぼれているなどと報道されたこともあったようです。


しかし、1987年に、ダスティの大ファンだったペット・ショップ・ボーイズから声がかかり、彼らの「ホワット・ハヴ・アイ・ダン・トゥ・ディザーブ・ディス?」のリードシンガーを勤め、トップ20に返り咲きします(英米双方で2位)。さらに、リチャード・カーペンター(カーペンターズ)の「サムシング・イン・ユア・アイズ」のリードボーカルとしてフィーチャーされたり、シングルリリースの「タイム」がイギリスで12位になるなど、再びヒットチャート歌手として復活しました。

88年には、「ナッシング・ハズ・ビーン・プルーヴド」が映画の主題歌となり、トップ20入り。続いて出た「イン・プライベート」が14位。90年のアルバム「レプュテイション」は、アルバムチャートのトップ20入りしました。93年には、カントリーアルバムをリリースしますが、その直後の94年、乳ガンに罹患し、結局99年に59歳で亡くなりました。


ここまでで、大好きなダスティのお話はおしまい・・としたいところ。本当はどんな人だったのか、なんてことを知るのは野暮、ってもんです。

でも少しだけ、付け加えると、浮き沈みの激しいポップ音楽業界で、世界的名声を亡くなった後でも保持し続ける実力と個性とは表裏の関係で、プライベートな、ひとりの人間としては、かなり風変わりな人だったようです。

シャイで物静かで、ほとんど他人と接しない、「メアリー・オブライエン」という素顔の彼女と自分自身で創り出したポップで明るい「ダスティ・スプリングフィールド」という架空の人物2人がひとつの体に同居しているような感じだったという関係者たちの証言が残っています。彼女は二重人格に近かったのかもしれません。

結果的に、その落差からくるものなのか、後年、アルコールとドラッグでしばしば問題を起こし、自殺未遂で何度か入院させられてもいます。結局、医師の診断としては、双極性障害を持っていたようです。また、彼女自身がカミングアウトしているように、レズビアンであり、一度はカリフォルニアで同性婚をしてもいたようです。


まあ、しかし、実際にどんなパーソナリティだったかなんて、親類縁者でもない限り関係ないし、そもそも、人の個性や長年に渡る人生を他人が簡単に記述できるわけがない。そんなことより、これほど素晴らしい音楽をたくさん残し、没後13年たった現在も世界中に数え切れないファンがいる、ということこそが、まぎれもない事実です。


「史上最高のポップ・ディーヴァ(歌姫)」と言わ続けている伝説のダスティ・スプリングフィールド。彼女のCDやDVDは今でもたくさん出ていますが、包括的に聴くなら、やはり、ボックスセット。ハズレが1曲もありません。入手されることを、お勧めいたします。


(この記事は2012年12月05日に書いたものの再掲です。)

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