さよならグラディス ー グラディス・ホートン(ザ・マーヴェレッツ)

 





1975年。アメリカ。2曲のナンバー1ヒットを出す大スターだったカーペンターズは、長年のビートルズのファンで、ビートルズナンバーの中から大好きな曲、「プリーズ・ミスター・ポストマン」を1974年にカヴァーした。そして、ビルボードで1位の大ヒットになった。

1963年。イギリス。世界規模のレコード販売EMIグループは、アメリカのモータウン・レコードの英国内販売権を獲得した。当時EMIを代表するグループだったザ・ビートルズは、プロモーションを兼ねて、2作目のイギリス盤公式オリジナル・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』の7曲目にモータウン最初のミリオンセラー曲、「プリーズ・ミスター・ポストマン」を収録した。



1961年。アメリカ、ミシガン州インクスター。

「うそみたい!」当年とってまだ17歳のグラディス・ホートンは大喜びしていた。こんな大ヒットになってるなんて、まったく知らされていなかった。友達から聞いてびっくりしたのだ。素人の高校生である自分たちが一から作り上げ、地元近くの小さな、新しいレコード会社モータウンから出したデビュー曲が、とうとう週間ランキング第1位を獲得してしまった!信じれない快挙だ!「プリーズ・ミスター・ポストマン」は、グラディスが作ったグループ「マーヴェルズ」のメンバー、ジョージア・ドビンズのボーイフレンド、ウイリアム・ギャレットが詩を書いてきたものに、ジョージアが曲をつけたものだった。

だけど、レコード会社と契約する前にジョージアがグループを辞めてしまった。結局、リードを歌うことになったグラディスが、もともとブルース風の曲調だったものに手を加えて、戦地にいる恋人の手紙を待つ女の子を気持ちを歌った、流行歌に作り変えたものだった。グループ名を「ザ・マーヴェレッツ」に変えたのもグラディスだった。



1945年、フロリダ州ゲインズヴィルで、身寄りのない孤児として生まれたグラディス・ホートンは、里親を転々としながら育った。

15歳のとき、歌が大好きなグラディスは、住んでいたデトロイト郊外の田舎町インクスターで、高校のグリークラブのメンバー5人を集めて、コーラス・グループを結成した。メンバーは、グラディス、ジョージアナ・テイルマン、ファニータ・カウアート、ジョージア・ドビンズ、そして、リードを歌ったキャサリン・アンダーソン。そのグループ「マーヴェルズ」は、タレント・オーディションに出演するチャンスを得て、「メイビー」で有名になっていたザ・シャンテルズのナンバーを歌い、4位になった。彼女たちは、それを聴いていたモータウン・レコードオーナーのベリー・ゴーティ・JRから、なにかオリジナルの曲を書いてきなさい、と言われたので、ジョージアが動いて作り出したのが「プリーズ・ミスター・ポストマン」だった。それを聴いたゴーティは、リードをグラディスに変更し、モータウンで吹き込みをした。原案を作ったジョージアは、残念ながら母が病気だったため、プロとして活動することを諦め、脱退した。代わりに加入したのがファルセットのワンダ・ヤングで、以後、グラディスと交互にリードを勤めることになる。

「普段、クラスの教室で歌っていた私たちが、スタジオで録音するなんて、まるで夢のようだった。わくわくしっぱなしでね。まるで、うちのキャンディ・ストアにきた子供みたいなものだったわね。」ファニータ・カウアートは微笑みながら思い出す。

彼女は、1963年に過労から神経衰弱になってマーヴェレッツを辞め、音楽で貯めた資金(わずか1500ドルだった)で、地元インクスターの小さなキャンディ・ストアを買い、現在もそこで暮らしていている。


「プリーズ・ミスター・ポストマン」は、ナンバー1ヒットとなり、結局、ミリオンセラーとなった。その後、ザ・マーヴェレッツは、「プリーズ・ミスター・ポストマン」のほか、「ツイスティン・ポストマン」、「プレイボーイ」、「ビーチウッド4-5789」をポップチャートのトップ10に持ち込んだ。そして、R&Bからソウルへの移行期に、「トゥー・メニー・フィッシュ・イン・ザ・シー」、「ドント・メス・ウイズ・ビル」、「ハンター・ゲッツ・キャプチャード・バイ・ザ・ゲーム」など23のポップチャートシングルと21のR&Bチャートヒットという記録を残すことになる。





1964年、イギリス襲来の年、同じモータウン所属のダイアナ・ロス&スープリームスがナンバー1ヒットの「ホエア・ディド・アワ・ラブ・ゴー」を出して、マーヴェレッツは影が薄くなった。翌年には、ジョージアナ・テイルマンが、病気のために引退。しかし、スモーキー・ロビンソンが書いた「ドント・メス・ウイズ・ビル」が1966年に7位になるなど、ザ・マーヴェレッツはまだまだヒット・グループだった。


しかし、グラディスは結婚し、1967年に引退することになった。

最初の子供には、生まれつき重い脳性麻痺があった。グラディスは、息子の面倒を見るため、仕事を辞める決心をした。

「その後離婚して3人の子供たちのシングルマザーになったグラディスは、よくわたしの家に子供たちをつれて来ていたわ。」とカウアート。

「わたしには、彼女の子供たちより年上の娘が二人いたので、よく面倒をみていた。わたしたちは姉妹のように行き来していたの。」


同じころ、ザ・マーヴェレッツの売り上げは、急失速しはじめた。そして、ダイアナ・ロス&スプリームス、マーザ&ヴァンデラスという二組の人気女性ボーカルグループを擁し、有名レーベルとなっていたモータウンは、ザ・マーヴェレッツのプロモーションから急速に撤退しだした。会社の助けなしにヒットを出すのは無理だ。

1972年に、モータウンはデトロイトからロスアンジェルスに主要な機能を移したけれど、マーヴェレッツのメンバーたちには、まったく知らされていなかった。移転後、完全にマーヴェレッツへの著作権料はストップし、未払いのロイヤリティが生じていると彼女たちが判断したところでザ・マーヴェレッツは解散した。

モータウンの最も初期、自分たちのロイヤリティから実質的な財政支援をしてきた彼女たちは、ゴーティ相手に訴訟を起こした。信頼関係が完全に壊れてしまったのだった。


別の問題も生じていた。病気で退いたオリジナルメンバー、ジョージアナ・テイルマンがとうとう力尽きて36歳で亡くなった1980年に、グラディスはザ・マーヴェレッツを再結成し、復帰しようとしたけれど、モータウンはマーヴェレッツの権利をすべて売り払ってしまっていた。権利を持つまったく別の若いマーヴェレッツが存在していたため、元のメンバーたちは実質的に業界から締め出されていた。オリジナルメンバーがひとりもいない場合は名乗ってはいけないという措置がされたのは、2006年になってからだ。1983年に、テレビで、モータウンの25周年記念番組が組まれたとき、ザ・マーヴェレッツは招かれもしなかった。


1990年に、イギリスのプロデューサー、イアン・レヴィンが、グラディスとワンダをフューチャーした、オリジナル・マーヴェレッツの再結成を画策し、アルバムを1枚出すところまで行ったのだけれど、ヒットはしなかった。そのころには、ワンダが深刻なメンタル疾患とアルコール中毒になっていて、コンサートもうまくいかなかった。


翌年、グラディスの3番目の息子が、銃で撃たれて死亡する事件が起こった。

2番目の息子ヴォーンは回想する。

「なにもかもすっかり変わってしまった。僕の娘の顔を見たとき以外、母の目の輝きはあれから二度と戻ってこなかったよ。」

そのころから、原因不明の頭痛とベル麻痺(顔面麻痺)に罹ったグラディスは人相まで変わってしまった。

1992年、デトロイトにある有名な一軒家、かつてのモータウンレコード社屋が一般に公開されることとなった。グラディスは中を見てショックを受けた。社史を飾る多くのアーティストたちの写真のなかに、ザ・マーヴェレッツは一枚もなかったのだ。



2011年。アメリカ、ハリウッド。

何度かおきた脳卒中によって、介護施設で亡くなったグラディス・ホートンをしのび、グラディスの息子とかつてのオリジナル・メンバーたちがフォレスト・ロウン・メモリアル・パークの教会に弔問に訪れていた。ファニータ・カウアート、キャサリン・アンダーソン、そして、「プリーズ・ミスター・ポストマン」の原案を作り、マーヴェレッツデビュー前に辞めたジョージア・ドビンズ。

「とうとう肺炎を起こしてしまったグラディスが亡くなる少し前、彼女に語りかけたのよ。あなたが作ったグループのおかげで本当にワクワクした人生が送れた。ありがとうね、いつまでもわたしたちはマーヴェレッツだよ、って。本当にいい友達だったの。」

結成当初から解散するまでグループを守ったキャサリン・アンダーソンは、マーヴェレッツの名前をこれからも守るつもりだ。

ジョージアナ・テイルマンとグラディスが亡くなり、もうひとりの看板スターだったワンダ・ロジャース(ヤング)はアルツハイマー病で家から出られない。これで、オリジナル・マーヴェレッツの再結成は永遠の夢となった。

「わたしたちは、もう歌ってはいないし、今はオリジナルメンバーがいないとザ・マーヴェレッツは名乗ることが出来ないことになっているけど、わたしは新しい若いマーヴェレッツが出来たら権利を与えて後押ししたいと思っているわ。ザ・マーヴェレッツの名前を消さない、とグラディスに言ったのだから。」とキャサリンは言う。


「グラディスにとっては、3人の息子が彼女の世界そのものだったんです。彼女はとてもいい母親でした。」ファニータ・カウアートは言った。

息子たちは、母の思い出を語った。

「彼女は偉大な母でした。わたしたちは、父の顔をほとんど知りませんが、母のおかげで、わたしたちが困るようなことはありませんでした。彼女は母であり父であり同時に兄弟のようでもありました。」


誰もが、最後のお別れをした。さよなら、グラディス。

ザ・マーヴェレッツよ永遠に。






(この記事は、2012年04月01日に旧ブログ「サンチャゴタムラの音楽夜話(ライブドア)」に掲載したものです。)


コメント

このブログの人気の投稿

ムードテナーの帝王 ー サム”ザ・マン”テイラーの軌跡

1950年代のレッド・ツェッペリン ~ ジョニー・バーネット・トリオ

イギリス初のロックンローラー クリフ・リチャード&ザ・シャドウズ