マザー・オブ・ロックンロール ー エラ・メイ・モールス






「何が最初のロックレコードか?」っていう、鶏と卵みたいな話が昔からあるんですよね。

そもそも「ロックってなんだ?」ってところもはっきりしないような気がしますが、一応、面白いお話ではある。

 ロバート・ジョンソン、マディ・ウォーターズ、T・ボーン・ウォーカー、チェット・アトキンスなどなど、いろいろと有名なアーティストが「ロックの元祖」みたいに取り上げられてきている中、とても無視するわけにはいかない重要人物なのに、ひっそりと忘れられている人がいます。


彼女の名は、 エラ・メイ・モールス。


1924年、テキサス州マンスフィールドに生まれたエラは、1940年代初頭、ポップ、カントリー、ジャズ、リズム&ブルーズをブレンドした音楽を唄った、最初の歌手のひとりです。

ロックはブルースとカントリーのミックスだという説がありますが、そういったサウンドが目立ってきていた50年代には、はっきりした名前がなく、一説によると、こうした音楽をかける専門のDJ、アラン・フリードが「ロックンロール!」と叫んだことによって、ロックンロールという名前で呼ばれるようになった、と言われています・・・・・


・・・とかなんとか、書くと、

「あれ?それって、どこかで聞いたような話だぞお?」

「んだんだ!そら、あれでねえか、恵比寿フリスビーとかいうやつの話でねえべか?」

「いんや、ビール平太とカレーの米粒、とか言う連中の話じゃ?」


なんて井戸端でのやりとりが聞こえてきそうな感じ、ですよね?(そこのお客さん、失笑しないでくれる?)


いえいえ、1942年に出たウエスタン・スイングナンバー、「カウ・カウ・ブーギ」を唄ったとき、彼女は17歳。今聴けばわかるとおり、そのフィーリングは、完全に初期のロカビリー(白人によるリズム&ブルーズ)です。

このとき、エルビスは、紙飛行機を飛ばして遊んでいる7歳の子供ですし、ビル・ヘイリーは、エラよりひとつ下の16歳ですが、やっとギターケースをどっこらしょ、ともって旅回り楽団に入ったばかりのころ。まだ自分のバンドを結成すらしていません。


エラは、白人ですが、父親がプロのジャズドラマーだったことから、幼いころから黒人音楽に親しんで育ちました。

そして、歌手としてバンドに正式加入したのは、1939年、わずか14歳のときで、バンドはローカルどころか、世界的に有名だったジミー・ドーシーのオーケストラ。

ドーシーは、エラの自己申告を真に受けて、19歳だと信じていたのですが、実際の年齢を知って、びっくり。

「げげげげ!!!!いいオナゴだと思っとったら、まだガキじゃん・・・汗」みたいな感じで。

教育委員会との関係上、未成年者の保護に関する責任が生じるために、「やべ!」と思ったドーシーは、彼女を解雇せざるを得ませんでした。

在籍期間はわずか2か月でしたが、ここで知り合ったのが、ドーシーのピアニストだったフレディ・スラック。


スラックは、もともと、ブーギウーギの元祖のひとりである、パイントップ・スミスのブーギウーギピアノが大好きで、ジャズのビッグバンドにそのサウンドを生かせないか、と常に考えていた人。.それがとうとう結実したのが、モールスと組んで出した一連のレコードだった、ということになります。

 

1942年、フレディ・スラックは自身のコンボを結成した際に、17歳になったエラを加入させます。そして彼らは、同年に設立されたばかりのキャピトル・レコードから「カウ・カウ・ブーギ」(原曲は、チャールズ“カウカウ”ダヴェンポートの「カウ・カウ・ブルーズ」)をリリースしますが、これがゴールドレコード獲得の大快挙。

 のちのちに大会社に成長する、キャピトルレコードの基礎を作ったとすら言われています。




続いて出た、「ミスター・ファイヴ・バイ・ファイヴ」もスラックのバンドと演奏したもので、これも同じく42年にヒット。これは、リズム&ブルーズチャートの第1位に達しますが、白人歌手としては、これがたぶん歴史上初めてのことであります。


エラ・メイ・モールスは、白人黒人別のチャートの壁をぶち破った最初の人のひとりなのです。

さらに、戦時中には、彼女自身のペンになる「ミルクマン、キープ・ゾーズ・ボトルズ・クワイエット」が出て、これは後年、ナンシー・ウォーカーが、映画「ブロードウェイ・リズム」で唄い有名になります。

1943年には、ソロでレコーディングした「シュー・シュー・ベイビー」が再びリズム&ブルーズチャートの第1位に。この時点で、レコードやラジオを聴いていた人々は、エラが黒人だと信じていた人も多かったようです。

しかし、単にR&Bで有名になった「白人のソウルシスター」ではなくて、もっとすごい点は、ポップチャートでもトップ10に入る大ヒットになったことです。

これはチャート上、最初のクロスオーバー・ヒットで、もうこうなると、あからさまに「ロックの誕生」そのものです。じつは、ヘイリーとプレスリーに先立つこと、12年も前の1943年に、そうした白人ロック音楽は出来ていた、ということになります。

それなのに、エラはロックンロール黎明期の一流スターにはなれませんでした。


ご多分にもれず、当時から、黒人っぽさをめちゃめちゃ薄めて白人マーケットで売りやすくしたアンドリュー・シスターズが、彼らのレコードをカヴァーしまくり、売りまくった、というのも一因といわれており、その点は、50年代半ばのロック音楽誕生時代とまったく同じ。


1946年は、スラックとエラにとって、おそらく、決定的な年で、「ハウス・オブ・ブルーライツ」が出た年です。この曲は、多くのR&Bアーティストにとりあげられることになりますが、さらにカントリー&ウエスタンのクラシックともなっており、エラの音楽の軌跡からみても、これで、ジャズ~ブーギウーギ~リズム&ブルーズ~カントリー&ウエスタン、と、アメリカ音楽のオールジャンルで大ヒットを出したことになります。




 1952年、エラは、全米で最も有名なビッグバンド、ネルソン・リドル・オーケストラをバックに、「ブラックスミス・ブルーズ」を録音、ついにミリオンセラーを達成します。さらに追い打ちをかけるように、ノリノリのアップテンポなロック曲「オーキイ・ブーギ」も大ヒット。



しかし、50年代前半、ポツリポツリとではありますが、リズム&ブルーズが白人の間で流行りだし、いよいよ本格的にロック音楽が産声をあげようとしている中、ブームにのって金もうけだけしてしまおう、とたくらむ連中が次々に出した、単なるR&Bのモノマネにすぎない薄っぺらな「白人製偽物」とごちゃごちゃにされたエラは、先駆者であるにもかかわらず、逆に影の薄い存在になっていきました。

これの主な原因は、キャピトルという企業の体質にあったと言われているようです。キャピトルの出すレコードのほとんどが、気の抜けたようなくだらないビッグバンドのムード音楽ばかりになっていました。

そのキャピトルが汚名を挽回するのは、再度エラのようなアーティストを発掘することを目指したプロデューサー、ケン・ネルソンが、後年、ジーン・ヴィンセントを発掘したときで、以後、キャピトルは、ヴィンセントのほか、エスケリータ、ファイヴ・キイズなどによって、ホンモノのR&B、ロックレコードを出し続けることになってからです。

そんな状況にもめげず、エラは、50年代前半、ビル・ヘイリーが後に吹き込んで有名になった「フォーティ・カップス・オブ・コーヒー」のオリジナルや、逆に、ヘイリー作の曲のカヴァー版「ラズル・ダズル」を吹き込んだりもしており、かなり出来栄えもいいにもかかわらず、ヒットはしなかった。





思うに、ネルソン・リドルは当時、白人中流階級の「安心安全の権化」みたいなバンドで、反逆的なロックとは正反対のベクトル。それと組んだエラはたぶん、水で薄めたような白人カヴァー歌手と勘違いされたのではないかと思います。

結局、エラ本人は、軍人さんと結婚、主婦となり、57年にはレコーディングをやめ、ショービジネスの表舞台からは去ります。フレディ・スラックは、1965年に死去。

エラは、主婦業の傍ら、90年代まで小さなパブでジャズソングを唄う活動のほか、ディズニーランドに出演したりもしていましたが、1999年に呼吸不全により、75歳でこの世を去りました。

残されたのは、今日では、ドイツのベア・ファミリー・レコードのボックスセットになるほどたくさんの、最初期の、白人バンドによるリズム&ブルーズ、すなわち、最初のロックレコードの数々。

彼女の功績は、歴史的文献としても、1984年に書かれたニック・トスチスの名著「アンサング・ヒーローズ・オブ・ロックンロール:エルビス以前のロック生誕物語」に取り上げられてもいます。

最初に書いたように、誰がオリジナルのロッカーか?なんてのは、意味のない議論だと思います。そんなことは音楽そのものとはなんの関係もない。

かっこいい音楽はいつのものだろうと、ヒットしてようとしてまいと、かっけえ!のです。

しかし、わたくしは、ここで改めて、あえて、エラ・メイ・モールスは、「ロックンロールの母」と呼ぶにふさわしい、そんな音楽をたくさん残した素晴らしい歌手であった、と言いたいと思います。

(2012年の記事の再掲載です。)

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