ブルーグラス・クルーナー ~ レスター・フラット

 




なにかですね、わたくしもすっかりジジイなんでしょうか、家に籠っているからでしょうか、どんどん昔の思い出にひたるようになりました。

もちろん嘘です。まあ、なんつか、結局、昔なじんだものが一番いい、というか、そういう感覚ではありますね。

で、私が若いころ、なにをしていたかといえば、音楽演奏についていえば、ブルーグラスなんですよ。関東で有数の名門バンドにいました。

18歳のころですね。担当はギターとリードボーカル。今も同じようなことをしてますから、もう42年になる。

当時、なんといってもダントツで好きだったのが、今回ご紹介する、レスター・レイモンド・フラットです。



手堅いリズムギターとともに、肩の力が抜けきった、スムースで深いテナー・バリトンの、おじいさんの語りみたいな歌で有名なレスター・フラット。

もともとは、ブルーグラスの父、ビル・モンロウのブルーグラスボーイズの歌手、ギタリストとして頭角を現しましたが、バンジョーのアール・スクラッグスとフォギー・マウンテン・ボーイズを結成して、モンロウをはるかにしのぐ人気(唯一、ヒットがある、一般に知られたブルーグラスバンドと言われる)を得て、今でも世界中の人の記憶に快く残っている人です。

マーキュリーとコロンビアに残したたくさんのレコード、WSMラジオ、グランドオールオープリー、絶え間ないツアー、マーサホワイト(小麦粉)のコマソン、テレビ「じゃじゃ馬億万長者」の主題歌、そして、映画「俺たちに明日はない」のテーマ曲「フォギーマウンテン・ブレイクダウン」といったお茶の間隅々にまでよく知られた曲や出演を経て、自身のバンド、ナッシュビルグラスで、RCAレコードに素晴らしい歌声を残しました。1979年、64歳で死去。


「じゃじゃ馬億万長者」(バラッド・オブ・ジェド・クランペット)

TUBE: 



フラットは、1914年テネシー州中央のスパルタ近くで生まれ、楽器を演奏する農家で育ちました。最初はバンジョーを弾いていたそうですが、7歳のとき、ギターに転じます。

レスターのギター奏法は、親指にサムピック、人差し指にフィンガーピックを付けて弾くツーフィンガー奏法で、1930年代から1940年代にはカントリー音楽のギター奏者ではかなり一般的だった奏法です。(もともとは、カーター・ファミリーのメイベル・カーター(マザー・メイベル)が有名にした奏法)。

12歳で学校を卒業し、17歳で歌手のグラディス・ステーシーと結婚。関節リウマチになってしまってから10年間、木工製品工場で働きながら音楽を続けました。

最初はクライド・ムーディー、次にチャーリー・モンローのバンドでテナーボーカリストとなった後、1945年にチャーリーの弟ビル・モンロウのバンドに加わったときにリードシンガーとして有名になります。


まあ、シカゴのコロンビアレコードまでレコーディングに行ったり、グランド・オール・オープリーに出演したり、ずいぶん大活躍ですが、もうこの時には、バリバリのプロとして熟練の域。

おまけに、当時の流行であるクルーナー系のボーカリストだった。もともとのビル・モンロウといった南部マウンテン音楽、カントリー音楽の人とは違うモダンさ、都会っぽさをもとから持っている人だったのですね。当時のクルーナーといえば、フランク・シナトラ。カントリーでいえば、ウエスタンスイングのボブ・ウイルス&テキサス・プレイボーイズに

いたトミー・ダンカン。40年代の最初のナショナル・カントリー・ヒット「ピストル・パッキン・ママ」はシナトラと双璧だったビング・クロスビーがヒットさせたし、時流に乗ることができた。


その後、バンジョー奏者のストリングビーンがブルーグラスボーイズを抜け、後釜として、まったく独創的な奏法(現在では、スタンダードになっているスクラグス奏法)で世間をびっくりさせたアール・スクラグスが入ってきた。レスターは、「いくら金がかかってもいいから雇うべきだ」とモンロウに進言したそうです。

そうやって、当初のブルーグラス音楽とは一線を画する革命的バンジョー奏者と、叫ぶように歌うマウンテン音楽とはぜんぜん毛色の異なる、都会的なクルーナーが出会ったわけですね。

意気投合したふたりは、ブルーグラスボーイズを脱退し、1948年、フォギー・マウンテン・ボーイズを結成しました。

まあ、このあたり、競合されちゃ困ると、モンロウは阻止しようとしたそうですが、失敗。フラットとモンロウは犬猿の仲となり、1973年まで一言も口をきかなかったそうな。


フォギー・マウンテン・ブレークダウン

TUBE:



その後、1953年、バンドは小さなラジオ局WSMの15分ほどのコーナー「マーサ・ホワイト・ビスケット・タイム」で定期的に演奏をはじめます。これは、スポンサーだったマーサ・ホワイトの名を冠した番組で、のちにテレビショーになりました。

このスポンサーの営業仕事で各地のマーケットを巡業して歩いた。非常に広範囲をバスツアーした。結局、マーサ・ホワイトのテーマソングは、彼らの定番としてすっかり有名になります。


マーサ・ホワイトのテーマ




先にのべたように、その後は順風満帆で、テレビ番組「じゃじゃ馬億万長者」(我が国でも放送されていたので、ごらんになっていた方もおられるでしょう)の主題歌が大ヒット。さらに、映画「俺たちに明日はない」のテーマソングとして、もともとスクラッグスの定番曲だった「フォギー・マウンテン・ブレークダウン」が大ヒット。

しかし、残念なことに、20年の成功の後、ふたりは袂を分かちます。スクラッグスは冒険の好きな人で、常に楽器とアンサンブルの可能性を追求し続けました。

その方向性とレスターの、ノスタルジックな定型が素晴らしいという考えが合わなかったということらしい。

スクラッグスは、スクラッグス・レビューでロックまで取り込んでいきますが、フラットは旧フォギー・マウンテン・ボーイズのメンバーたちとナッシュビル・グラスを結成。


その後も大変な人気は衰えず。ブルーグラス音楽の特性上、チャートとは無縁となりましたが、それでもオープリーの常連で大物でした。しかし、もとはいえば、1967年に心臓発作を起こし、手術したのをきっかけに、だんだんと衰えてが目立つようになっていった。残念ながら、1979年に心臓病で亡くなりました。ナッシュビルグラスは、40年代からの盟友、マンドリンとテナーボーカルで生涯タッグを組んだカーリー・セクラーが引き取りました。


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