花のサンフランシスコ ー スコット・マッケンジーとその時代



この写真の人、誰だか知ってる人います?

まあ、いないんじゃないかなあ。いたら、かなりな音楽通。山下達郎クラスですね。

わたし?もちろん、こんな人は知りません。調べたから貼ってるんで。

では、この曲、知ってますか?


San Francisco 




まあ、知ってます!って人、結構いるかも。しかし、知ってるってことは、相当年寄りですわなあ。

調べてみると、1967年の曲。わたしがまだ小学校のころですが、日本だと流行に時差があるのか、よく流れていたのは1972年ころからじゃないかと思います。

当時も「かつての大ヒット曲」って紹介だったかもしれません。歌手の顔もしりませんが、曲はキャッチーで、一度聴くと忘れられないいい曲でしたから、よく覚えています。


さて、この一曲だけで知られている「ワンヒットワンダー」(一発屋)のひとり、スコット・マッケンジー。

いくら調べてもごく短いプロフしか出てこない。なんでも出てくるネット?でもほとんどひっかからないというのも寂しい気がします。


スコット・マッケンジー、どんな人だったのでしょうか。


1939年フロリダ生まれで、2012年に73歳で亡くなっています。10代のころは友人のジョン・フィリップスとドゥーワップグループを作って活動していたことがわかってます。

TheAbstractsというグループ名をTheSmoothiesと変えて、ニューヨークでレコーディング。大手デッカレコードで、おまけにプロデューサーが、ビル・ヘイリーを有名にしたミルト・ゲイブラー。

ものすごく幸運なデニューだったはずです。2枚のシングルを出したらしい。


1961年、マッケンジーはディック・ワイズマンと出会い、時代遅れのドゥーワップではなく、流行ってきていたフォークミュージックグループへと方向転換。TheJourneymenを結成しました。

彼らはキャピトルレコードのために3枚のアルバムと7枚のシングルを録音。ここも超大手ですから、すごいですよね。

まあ、しかし、ご多分に漏れず、1964年のマージービート旋風にやられて、解散しました。マッケンジーとワイスマンはソロパフォーマーになります。

一方、、活動を共にしてきたジョン・フィリップスはデニー・ドハーティ、キャス・エリオット、ミシェル・フィリップスと新グループを結成し、カリフォルニアへ。このグループがヒッピーというか、フラワー・ムーブメント時代を代表するママス・アンド・パパスです。





フィリップスはマッケンジーのために「サンフランシスコ」を書いて共同制作でレコードを作りました。

フィリップスがギターを弾き、セッションミュージシャンのゲイリー・L.コールマンがベルとチャイムを弾き、ベースをジョー・オズボーン、ドラムスをハル・ブレインが演奏した。これも、実はのちの「レッキング・クルー録音」なんですね。

道理で一度聴いたら忘れがたい、素晴らしい音に仕上がっているわけだ。最高のセッションメンが作ったんだから。

1967年5月13日に米国でリリースされ、瞬く間にヒットし、Billboard Hot 100で4位、Canadian RPMMagazineチャートで2位。

日本でも「花のサンフランシスコ」としてヒットしましたし、世界中で700万部以上を売り上げました。





その後なにもなかったというわけではありません。Like a Old Time Movieがトップ40ヒット。しかし、その後が続かず、1970年代初頭にレコーディングをやめたようです。

1986年に、彼はママスとパパスに参加。テリー・メルチャー、マイク・ラヴ、ジョン・フィリップスとともに、ザ・ビーチ・ボーイズのナンバーワンシングル「ココモ」(1988)を共作したりもしました。

1998年には、ママス&パパスを脱退。2012年8月18日にロサンゼルスで73歳で亡くなりました。

マッケンジー本人は特に際立ったエピソードがないのですが、相方といっていい活躍をしたママス&パパスのジョン・フィリップス(2001年没)は、なにかと問題が多い人だったようで、フラワー時代の生き残りだからなのか、ドラッグ問題が多く、実の娘に近親相姦で訴えられるなど世間を騒がせたという記事を見つけました。


サンフランシスコもフィリップスが作りプロデュースしヒットさせたわけだから、いわばマッケンジーは表看板みたいなもの。

実際にはフィリップスの歌でしょう。あれほどヒットし、あれほど有名になり、今でも大記録を打ち立てた歴史的なヒットソングなんですが、どうもこの歌には、なにか闇のようなものが隠れているような気がします。


先日、クエンティン・タランティーノの映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」を観たのですが、とても興味深い映画でした。まあ、作り話なんですが、60年代のハリウッド製テレビドラマの世界をものすごくマニアックに、実在のドラマ、実在の人物をたくさん交えながら、なんだかほんとに60年代にあった話のように作ってあるんですね。

主人公は、50年代テレビ西部劇のスターだったのですが60年代になって時代遅れとなり、すっかり落ちぶれつつある。

で、腕利きプロデューサー(サム・ワナメイカー。実在の人物)に、イタリアに行ってイタリア製西部劇(マカロニ・ウエスタン)にでろ、と勧められたりする。これって、クリント・イーストウッドのことですね。

まあ、そんな中に、ママス・アンド・パパスも出てくるんですよ。もちろん、そっくりな役者がやってるわけですが。




こういったヒッピームーブメントの中心にいたママス・アンド・パパスといった音楽家連中の周辺には過激なヒッピー集団もいて、それがのちに大事件を引き起こすチャールズ・マンソン・ファミリーです。

女優シャロン・テートとホームパーティに集まった友人たちがマンソンファミリーの無差別殺人の巻き添えになった「シャロンテート惨殺事件」。1969年のおぞましい事件を引き起こしたのがマンソンというヒッピー集団だったというのは歴史的事実。

このあたりは、タランティーノの映画でもメインの事件として出てくるのですが、そこは映画らしい面白い虚構がまじっていてあっという結末になるのですが、ネタバレはやめておきます。

さて、アメリカ本国では、どうもこの事件で、ヒッピー文化そのものが完全にぶっ壊れてしまい、二度と復活しなかった経緯があるようです。

当時、ベトナム戦争が泥沼化し、反戦運動の大衆文化版みたいな形で広がったヒッピー・ムーブメントですが、反社会勢力とみなされるようになった。マンソン事件だけでなく、麻薬文化としての側面からも決していいものではなかったと思います。

その看板ソングのように扱われてきた「花のサンフランシスコ」。元来、もっと呑気で無邪気な平和を祈願する歌、街の歌だったのかもしれませんが、時代の変遷とともに、なにか、「いやなことを想起させる歌」という側面を持たざるを得なくなったのかもしれません。

今でもサンデーモーニング(山下達郎)なんかでときおり耳にします。いい歌だと思うのですが、ちょっと複雑、という背景も頭の片隅にいれて聴いてみるとまた違う趣があるかもしれないです。


コメント

このブログの人気の投稿

ムードテナーの帝王 ー サム”ザ・マン”テイラーの軌跡

ロック・ザ・ジョイント - 1950年代前半のビル・ヘイリー その1

ジミー・ボウモント&ザ・スカイライナーズ