ベースの中の人 ー キャロル・ケイ
ベースの中の人?なんだそら?
でも、ベースの中の人っていうのが一番適当な気がする。でっかいウッドベースの中にちっさいおっさんが入ってる、とかきもわりー感じしますが、そうでなくて。
そうでなくて、ようするに、影武者ですよ。仮面の忍者赤影?あんた古いねえ~。俺と同じロージンじゃないのお?
キャロル・ケイの最初の影武者仕事は、なんと、リッチー・ヴァレンスのラバンバ。レコードで聴けるあのギターは本人でなくて、キャロル・ケイです。あと有名な影武者仕事は、ビーチ・ボーイズ。
ブライアン・ウイルソンがケイに絶大な信頼をよせていて、ビーチ・ボーイズのかなりの録音は、実際にはケイが弾いてることを公認してますね。
その後も彼女は、有名バンドの音の影武者としてだけでなく、1960年代~1970年代には、ロサンゼルスのセッション・ミュージシャンとして、1万曲以上のレコーディングに参加(メインはベース)、その膨大な録音のかなりが超大ヒットになったという、ミュージシャンの中のミュージシャンです。
2020年、ローリング・ストーン誌が選んだ「史上最高のベーシスト50選」で第5位に選ばれました。すげーなー。
キャロル・ケイの仕事
そんなキャロル家、おっと違うな、それじゃあツッパリ一家みたいだぜ!
剃りも入れたし弁当ももたなくちゃ!ほら、キャロルちゃん、今日もちゃんとホコ天で転ばないようにね、帰りにピンクドラゴンでポマード買ってきてくれる?じゃねえよ!
キャロル・ケイは、1935年生まれで、現在85歳。
ワシントン州の生まれなんで、バリバリの西部人。カリフォルニアのずっと北、シアトルよりももっと北、もすこし頑張って北上するとバンクーバーなんでかなり寒いとこですね。両親はプロのミュージシャンで、ジャズ畑の人たちだったそうです。
キャロルは13歳のときに、母からギターをもらって習いだしました。まあ、音楽一家のこと、すぐに巧くなる。
で、ロスアンジェルスのジャズクラブでギターを弾きだすわけっすね。時代は50年代、当時のジャズはビバップです。
チャーリー・パーカーから発したこのスタイル、今から見ればシンプルですが、当時は「難解むずかし演奏困難音楽」の最先端。10代の女の子がビッグバンドの一員となって全国ツアーしながら、バリバリ弾きまくってるんですから、まあ、神童でしょうね。
しかし、この人の天才ぶりが突如として知れ渡ったのは、ジャズでなくて、ポップ畑でした。
1957年、サム・クック、リトル・リチャード、レイ・チャールズなどを手掛けた凄腕プロデューサー、バンプス・ブラックウェルに呼ばれて、クックのレコーディングに参加したのがきっかけになりました。なにせ、スズメの涙なジャズミュージシャンとは桁違いのギャラに目がくらんだキャロル。やー、当たり前ですね。当時はみんなそうだったでしょう。ちなみに、
わたしがもしそういう立場だったら小躍りしてそっちにいきます。で、リッチー・ヴァレンスの影武者仕事などを経て、続いて知り合ったのがなんとゴールドスタースタジオのフィル・スペクター。覆面バンド「ボビーBソックス&ブルージーンズ」の「ジップアディードゥーダー」でエレキギターを弾いた。これをきっかけに、彼女はゴールドスタースタジオ、すなわち、フィル・スペクターの伝説的な「ウォール・オブ・サウンド」のレギュラーセッションミュージシャンになったんですね。
1963年、ハリウッドにあるキャピタルスタジオでベースの代打を勤めて、レコーディングにおけるベースのきわめて重要な役割に気づいた彼女は、以後、ベーシストとして活躍をはじめます。それに、曲によって数本の使い分けが必要なギターと違い、1本だけで済むし、キャピトルのセッションベースマンだったレイ・ポールマンがプロデューサーに出世したので、
キャロルが喜んで後釜になったということらしい。ロス全域でキャロル・ケイはナンバーワンベーシストになった。
その後も、ソニー&シェールやフランク・ザッパとのレコーディングなど、ギタリストも勤めていますが、なんといっても、キャロル・ケイの本領はベースでした。彼女が使ったのが、フェンダー・ベース。今でいうところの、エレベのこと。当時はまだダブルベースが主流で、キャロル・ケイはエレベの先駆者のひとりなんですね。
キャロルはいわゆるのちに知られるレッキング・クルー(ハリウッドのセッションマングループ)の一員として1万曲ほど(!)演奏し、西海岸製トップ100に入るヒットレコードは全部キャロル・ケイがベースを弾いている、と言ってしまっていいくらいの活躍をします。フランク・シナトラ、サイモン&ガーファンクル、スティービー・ワンダー、バーブラ・ス
トライザンド、シュープリームス、テンプテイションズ、フォア・トップス、モンキーズといった錚々たるメンツです。
なんと毎日、日に3セッションくらい参加していたらしい。めちゃくちゃやっつけ仕事みたいですが、レッキング・クルーはそれが売り。凡人セッションマンが一日がかりで録音するようなものを30分で仕上げてしまったりしていたそうです。
ビーチ・ボーイズの一連のアルバムでリーダー的役割を勤めたのは、ブライアン・ウイルソンがキャロルのベーシストとしての腕前に惚れてのことで、他のセッションと異なり。キャロル自身のベースアレンジに全員が合わせていく形をとったようです。
その後、スタジオセッションマンでなくて、人気バンドが影武者など使わず、自力で演奏するのが流行りになっていった70年代以降、キャロルをはじめとしたレッキング・クルーの面々は映画やテレビの音楽にシフトしていきます。
しかしながら、ここでも、当時のヒットテレビドラマ、「スパイ大作戦」だの「シャフト」だののヒットしたテーマソングはみんなキャロル・ケイ。映画の印象的なサントラ、例えば、70年代を代表するラロ・シフリンの「ブリット」(スティーブ・マックイーンの刑事ドラマ)なんかもそう。ポップでもバーブラ・ストライザンドのバックや、ジャズではジョー・パスとツアーしたり。エレキベースの教則本(世界初)を執筆したり大活躍でしたが、70年代後半、自動車事故をきっかけに第一線を引退。
縁の下の力持ち、という言葉がふさわしいスタジオのプロらしく、世間一般にはまったく知られず、そのまま引退したため、長く無名の存在だったキャロル・ケイ。そんな彼女に転機をもたらしたのは、アカデミー賞を受賞した映画『永遠のモータウン』。その後、カナダで彼女の経歴を伝えるドキュメンタリー番組「First Lady of Bass」が放映され、再評価が進んでたくさんの賞を受賞。現在では、歴史上最も偉大なベーシストのひとりとして改めて有名になっています。




コメント
コメントを投稿