バックビートの先駆者 - アール・パーマー
リトル・リチャード(実はでかい)のバックでエキサイティングなノリのドラムスをぶったたいていたドラマー、誰だか知ってますか。
今回のその、アーノルド・パーマーじゃない、人違いだっ、アール・パーマーのお話。
まあ、その前に余談ですが、ワッババルーバッバワッバッブーンっていうあの有名なリチャードの意味不明シャウト(トゥティ・フルティの出だし)の元ネタがありまして、それはズティ・シングルトンのドラムス。ズティは30年代からニューオーリンズの有名なドラマーで、ルイ・アームストロングの古いジャズ録音で聴かれるドラムスはほとんどズティのドラムスです。もともとがニューオーリンズのリズムはルーツが葬式の行進にあって、いわゆるセカンドラインといわれるシンコペーションリズムなんですよね。スネア(小太鼓)とバスドラム(大太鼓)はもともと別々に2人で叩いていたものが、ひとりで演奏できるようにと発明されたのが現代のドラムセット。大元はニューオーリンズに住む黒人たちの葬式です。そのシンコペーテッド・リズムをこれでもかと盛り込んだズティのドラムスによく出てくるリズムが、たったたたたたたたったったっ。元ネタというよりもリズムそのものだった。ロックのリズムはもとをたどればニューオーリンズに行きつく。
さて、そんなニューオーリンズで1950年代初頭から有名ドラマーだったパーマーは史上最も多作なスタジオミュージシャンの1人でした。
リトル・リチャードのヒット曲のほぼすべて、ファッツ・ドミノのヒット曲のすべて、ライチャスブラザーズの「ユーブ・ロスト・ザット・ラヴィン・フィーリング」など、何千ものレコーディングで演奏しています。
さらに、古典的なテレビや映画のサウンドトラックがたくさんあり、そのレコーディングの歴史は、まるまるアメリカ音楽の主流そのものといわれるくらい活躍した、本当の「キング・オブ・ドラマー」だったと思います。
アール・パーマーの歴史
1924年10月25日ルイジアナ州ニューオーリンズに生まれたパーマーは、ショービジネスの一家で育ちました。
なんと、デビューは5歳。タップダンサーとしてです。
父はピアニスト、母と叔母もダンサーで、一家は広く国中をツアーして歩いたらしい。旅芸人の世界、でしょうか。アメリカは国情がまったく違うので、日本と比較はできませんが。
「おとうちゃん、おいらもう、タップダンスはいやだよ、ドラムス叩いてロックスターになって武道館に出たいよう」
なんて言ったはずはありませんが、タップダンスで培った抜群のリズム感があってこそのドラミングだったのかもしれません。
その後、第二次世界大戦がはじまり、パーマーは陸軍に入ります。前線には立たず(多くの黒人兵が兵器を持たせてもらえなかった)、ヨーロッパの劇場で清掃などの仕事を割り当てられたようです。
終戦後、パーマーはニューオーリンズのグリューンヴァルト音楽学校でピアノと打楽器を学び、そこで読譜技術を身につけました。多くのミュージシャンが読譜ができないのが当たり前だった時代、それはプロの音楽家になることを意味していて、1940年代後半にデイブ・バーソロミュのバンドでドラマーになります。
パーマーは、ちゃんと正規の音楽教育を受けた、いわば、エリート・ミュージシャンです。
そのバンドは地元の人気者ファッツ・ドミノのバックを務めていて、最初にパーマーは、ファッツ・ドミノの「ザ・ファット・マン」のレコーディングに参加。ここで、パーマーは初めてバックビートを強調した演奏をして、その独特のノリから有名になりました。これが、のちのロック音楽の特徴となっていくので、「ファット・マン」は史上最も重要な最初のロック曲、と言われているわけですね。
さらに、その後、「プロフェサー・ロングヘアの「ティピティーナ」、リトル・リチャードの「トゥッティ・フルッティ」など、ニューオーリンズのレコーディングセッションに参加して、リチャードのヒット曲のほとんどでドラムを演奏したり、世界ヒットになった、ロイド・プライスの「ローディ・ミス・クローディ」にも参加。今ではロックの古典になっている、スマイリー・ルイスの「アイ・ヒア・ユー・ノッキン」でドラムスを叩いているのもパーマー。
「ファットマンは曲全体を通して強いアフタービートが必要だった。ディキシーランドでは、最後のコーラスを叫んだ後で初めて強いアフタービートがあったけど、全体をそういうビートで埋めたんだよ。リズム音楽への新しいアプローチのようなものだったね」(アール・パーマー)
彼はこういったノリを一緒に演奏するミュージシャンに説明するのに、「ファンキー」という言葉を最初に使用した人でもあるそうです。
これだけでも、大変な、歴史に名前が残る大活躍だったわけですが、なんと、パーマーの本格的な驚くべき活躍はここから先なんですよ。
パーマーは1957年にニューオーリンズを離れてハリウッドに向かい、アラディンレコードで働きはじめます。どこのミュージシャンも、当時カリフォルニアを目指したそう。それくらいハリウッド製の音楽は大変人気があった。
その後すぐに、1962年から1968年まで、ノンストップでレコーディングに参加しまくった。とにかく、ドラムスといえば、パーマーかハル・ブレイン、と決まっているくらい人気が高かったんですね。
これが前回ご紹介したセッションミュージシャンのゆるいグループであるレッキングクルー。その一員だったわけです。
ちなみに、わたしはレッキング・クルーでもレッドキングるーちゃんでもなくて、レッカー車来る?の一員。駐車違反じゃねえかよ!
クルーの活動が下火になってくると、パーマーはハリウッドのテレビ番組、映画音楽の世界で活躍します。
「サンセット77」「魔法使いジェニー」「鬼警部アイアンサイド」「マニックス特捜網」「スパイ大作戦」などなど、われわれ世代が子供のころに親しんだかっこいいドラムも全部アール・パーマー!すっげえなあ。
結局、彼が一緒に仕事をした多くのアーティストをちょっと挙げるだけで、フランク・シナトラ、フィル・スペクター、リッキー・ネルソン、ボビー・ヴィー、レイ・チャールズ、サム・クック、エディ・コクラン、リッチー・ヴァレンス、ボビー・デイ、ドン&デューイ、ジャン&ディーン、ビーチ・ボーイズ、ラリー・ウィリアムズ、ジーン・マクダニエルズ、ボビー・ダーリン、ニール・ヤング、ペット、バーズなどキリがない。
さらに、1970年代以降、ランディ・ニューマン、トム・ウェイツ、ボニー・レイット、リトル・フィート、エルビス・コステロのアルバム・レコーディングもドラムスはパーマーです。
ロックだのポップだの区分けなんか何の意味もない、まさにアメリカの20世紀音楽史最大最高のドラマーだったパーマーは、2008年に83歳で亡くなりましたが、その伝説が色あせることはありません。録音された膨大な遺産はいつまでも人々を楽しませ続けるのです。



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