不死身のヒットソングメーカー  ー ニール・セダカ 



NEIL SEDAKA "CALENDAR GIRL" 1962


ティーン・ポップ、というと、やはりセダカ。どうも!こんにちは、ニール・背高です。


背高、なんていうと、バディ・堀井、もとへ、バディ・ホリーのようなノッポさんみたいですが、ずんぐりむっくりの丸顔で、やけに愛想のいい隣のあんちゃん、という感じのニールさん。

実は、単なるアイドルでもあんちゃんでもなく、クラシック・ピアノの神童といわれ、ジュリアード音楽院出身の音楽エリートで、当時最もヒット曲を量産したヒットソング工場(楽譜出版社)である、通称ブリルビルディング(アルドン・ミュージック)の看板ソングライターだった人物。

1939年生まれのセダカは、生粋の下町っ子(ニューヨークのブルックリン)で、タクシー運転手をしていたトルコ系移民の父と、ロシア系移民の母という、ごく普通の庶民的な家庭の出身です。

小学校時代、毎日ピアノをいじっていたニールくんに目をつけた、音楽の先生が、おかあさんに「ピアノ買ってあげるとよろし!」と言ってくれたのがきっかけで、ニールくんの音楽への第一歩が始まりました。

おかあさんも素晴らしくエラい人で、スーパーで半年間、一所懸命パートをして、ニールくんにセコハンのピアノを買ってあげたのです。ニールくんは、クラシック・ピアノの博士号を夢見て練習に励んでいました。


そんな中、13歳のある日、ホテルでピアノコンサートに出演していたニールくんに目をとめたおばさんあり。

 「ねえ、坊やー、かっわいーじゃなーい!うふーん」なんて言ったわけないと思いますが、このおばさん、「家の息子が詩を書いてるから、一緒に曲を作ったらどうかしらん?」なんて話を、ニールくんに持ちかけるのです。

こうして、ニールくんは、16歳の作詞家ハワード・グリーンフィールドと出会い、作詞作曲を始めます。それが、その後、500を超える曲を作り、大ヒットを飛ばしまくる、黄金のソングライターコンビとなるのです。


さて、もともと、どんな楽器でもこなせるし、唄もうまく、作曲技量も抜きんでていた天才のニールくん、高校時代に「ニューヨークの最も素晴らしいクラシック・ピアニスト」にまで選出され、名門、ジュリアード音楽院に予科生として通います。

しかし、1955年、友達のキャロル・キングと一緒に、ジュークボックスで大ヒット中だった、ペンギンズの「アース・エンジェル」を聴いて、心を奪われてしまい、ドゥーワップ音楽の虜になってしまったニールくん、グリーンフィールドとのコンビで、オリジナル曲を創り、ヴォーカルグループをはじめました。トーケンズ(1961年に、プレイメイツのカヴァー「ライオンは寝ている」で大ヒットをとばします)というこのグループは、ラジオで評判になり、いよいよ、若い作詞作曲家チームの夢は膨らみます。

ソロとしても、売込みをはじめたニールくん、いよいよ1958年、グリーンフィールドと書いた「ステューピッド・キューピッド」が、大人気を博していたコニー・フランシスに唄われ、大ヒットを記録します。

そして、生まれて初めて受け取った最初の印税収入を見て、びっくら仰天トコロテンのニールくん。

当時の34,000ドルというのは、当時、タクシー運転手だった父が、一生見ることも出来ないような巨額の金だったのです!(当時1ドル360円の固定レートで計算すると1224万円。確かに巨額)

 「これはもう、もうからないクラシックなんか止めて、ポップ音楽でいくっきゃねえじゃんよ・・」と鼻息荒く決心したニールくんは、世界的ヒットソング・メイカー、ニール・セダカとして音楽史に残る活躍をしていくことになるのでした。

とうとう、1958年、セダカ&グリーンフィールドとして、アル・ネヴィンズとドン・カーシュナーが経営する、ニューヨークの歴史ある高名な音楽出版社「アルドン・ミュージック」(別名、ブリルビルディング)と契約。同じ世代には、ニール・ダイアモンド、セダカの幼馴染のキャロル・キング、ポール・サイモンといった人々がおり、セダカ自身もボビー・ダーリンに曲を提供するなど、作曲家、ピアニストとして活躍するのですが、「くっそー!子供のころ、“ミスター・ムーン”なんて綽名だった、丸顔のオレだって結構イケてるんだい!俺だって、おれだってええええ!アイドルになって女の子にもてたいんだあーっ!!」と青春まっさかり、鼻血ブーのセダカ、自分で唄って自作自演したいという夢をもっていました(かも)。


そんな矢先、エルビスをサン・レコードから引き抜いたことで有名なRCAのプロデューサー、スティーブ・ショールズが、セダカをRCAと契約させます。最大手のRCAと契約した、天才ソングライターのセダカ、もう世界ヒットは目前です。

そして、もともとは、ドゥーワップ・グループのリトル・アンソニー&インペリアルズ用に書いた曲、「ダイアリー(恋の日記)」を自身で吹き込み、これが全米14位という大ヒットになるのです。

1959年のキャロル・キングに捧げた超明るいラブソング、「オー!キャロル」の世界ヒットから、「ブレイキング・アップ・イズ・ハード・トゥ・ドゥー」、「カレンダー・ガール」、当時の丸ポチャアイドルで、セダカの友達だったアネット・フニチェロに捧げた「ハッピー・バースデイ・スイートシックスティーン」などなど、大ヒットが続き、1963年2,500万枚のレコードセールス記録を打ち立て、ブリルビルディングの王子様となっていきました。




どれも、ノータリンな10代の恋物語を唄った、ノンキなものばかりですが、1960年代前半の若者文化大爆発的な雰囲気をこれほどうまくとらえているヒットソング群というのは、セダカソングを置いてありません。


さらに、世界販路を持っていたRCAの作戦で、世界的規模で知名度があったセダカは、各国で、その国の母国語でヒット曲を吹き込む、ということもしており、日本でも大変な人気がありました。

オールディーズ、ロックンロール、50~60年代ポップというと、当時リアルタイムで接していた日本の音楽ファンが、ポール・アンカとニール・セダカ、もしくは、コニー・フランシスなんかをすぐに連想するのは、実は、ここから来ているのですね。



しかし、世界ヒット連発の波にのっていたセダカを待っていたのは、64年から始まる、「イギリスの襲来」。ビートルズを中心としたブリティッシュ・ロックの大襲来で、セダカのヒットはぱったりと止まってしまいました。さらに、当時の複雑な社会情勢から、ロック音楽もポップソングも、もっとなにやら、シニカルで難しげなものになってきていたのです。

当時、セダカは、新婚ホヤホヤで、まだ23歳。これからというときに、彼の栄光と成功は、踊りながら過去へと向かっていってしまいました。

 60年代後半も、セダカはブリルビルディングのソングライターとしてとどまり、モンキーズやトム・ジョーンズの曲を手がけるなど、その高度な知識とテクニックを駆使し、いい曲を作り続けるのですが、時代の流れから、ヒットチャートとは無縁の活動を強いられます。1969年には、とうとう、ピアノのセッションミュージシャンとして、1回のギャラが39ドルという有様。アメリカのミュージシャンの浮き沈みというのは、ハンパじゃないんですねえ。

運良く、セダカはソングライターなので、たくさんのヒット曲の版権のおかげで、経済的に困ることはなかったそうですが、これくらい浮き沈みが激しいと、さすがに落ち込み激しいセダカ。

つまらない仕事は、一度栄光を味わうとプライドが許さないものです。スタジオの中やドサ廻りの旅先の楽屋で、「なんとか、もう1回、世界をアッと言わせる活躍がしたい。」と切望するようになります。


しかし、1970年に入り、再びシンガー・ソングライターが活躍できる時代になってきました。かつての盟友で女友達、キャロル・キングのアルバム「タペストリー」が大ヒット。「あいつが復活したんだから、オレだっていけるんじゃないか?」と考えたセダカにもカムバックのチャンスが巡ってきたのです。セダカはイギリスに家族を連れて、引っ越します。

カムバックが実現したのは、皮肉なことに、彼自身のキャリアをつぶしたイギリスのことで、後押しをしたのはセダカのファンだったエルトン・ジョン。

 「エマージェンス」、「ソリテアー」、「トラ・ラ・デイズ・アー・オーヴァー」など、ぐっと大人っぽい、渋いオリジナル曲がちりばめられ、小ヒットになった何枚かのアルバムの後、とうとう、決定打というべき、「ラフター・イン・ザ・レイン」とエルトン・ジョンとのデュエット「バッド・ブラッド」が大ヒット、「ラフター~」は、イギリスで、70年代10年間で最大のシングル・ヒットとなりました。




 さらに、75年には、初期のヒット「ブレイキングアップ・イズ・ハード・トゥ・ドゥー」のバラード・ヴァージョンを含むアルバム「セダカズ・バック」が、大ヒット。「ブレイキング~」は、本人による全く違う2つのヴァージョンが世界ヒットを記録するという、希な例となりました。

1976年には、キャプテン&テニールが、「トラ・ラ・デイズ・アー・オーヴァー」に収録されていた「ラブ・ウィル・キープ・アス・トゥゲザー」をカヴァーして、大ヒット。セダカはソングライターとしてグラミー賞を受賞。さらに、トニー・クリスティが、同じように、セダカのアルバムから「アマリロ」を、アンディ・ウイリアムズが「ソリテアー」を大ヒットさせ、同時期に3つのヒット曲が世界中で流れるという快挙を成し遂げ、セダカは、歴史的にも稀なことに、再び、世界一のヒットメイカーとしての地位を取り戻したのでした。


しかし、それも長くは続きませんでした。セダカは再び、不振の時代に入ります。1980年代は、表立った活躍はなし。

 「ぼくには、名声もあり、金にも困らない。素晴らしい家族もいる。しかし、何か、非常に不満だね。もう、チャートにのらないようになったらダメ。今まではよかったけれど、僕はもうダメだね。「大物」で「金持ち」になってしまって、ハングリーさを失ったからだと思う。」

ずいぶん、自信を失ってしまったセダカですが、つい一昨年前、2005年、1971年にトニー・クリスティ、1977年にはセダカ自身が大ヒットさせた、「アマリロ」が、さらに大きなヒットとなり、とうとうイギリスで1位。ギネスブックが、21世紀で最もヒットしたシングルの作者としてセダカを掲載することになり、翌年には、ベルリンのワールドカップのエンディングテーマとしても使われましたし、2007年には、芸能生活50周年記念コンサートが行われるなど、再び名声を取り戻しつつあります。


浮き沈みが激しい業界で、3度の復活を果たした「不死身のヒットソング・メーカー」、ニール・セダカは現在、69歳。わたしも一ファンとして、現役で、まだまだヒットを飛ばせるセダカが、これからも元気一杯の大活躍をしてくれることを期待しています。

(本稿は2011年11月08日に書いたものです)

2021年7月1日現在の補足:

お元気そうで、こんなサイトをもって自宅でミニ・コンサートを配信しているようです。

http://neilsedaka.com/


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