ティーンエイジ・アイドル ー リッキー・ネルソン




リッキー(リック)ネルソンは、1940年生まれ。シンガー、ミュージシャンかつ、ゴールデングローブ(ニューヨーク批評家協会)賞にもノミネートされた一流の俳優でもあります。

チャートで見れば、50年代後半から60年代初頭に50曲をトップ100に送り込んでいます。これは、ものすごい快挙であり、俳優がお遊びで唄ったらまぐれで当たった、というのとは違い、もっと旧い時代のビング・クロスビーやフランク・シナトラといった、歌手兼俳優に近いセレブだったといえるでしょう。


ニュージャージー生まれのネルソンは、オジーとハリエットのネルソン夫妻の末っ子として、生まれながらに恵まれた環境で育ちました。両親は、全米の人気者であり、「オジー&ハリエット」という1944年から1954年(ラジオ)、1952年から1966年(テレビ)まで続いた人気番組を持っていました。そして、リッキーも兄のデヴィッドとともに、1949年(9歳)から、両親のラジオ番組で、プロのアクターとして活躍したのです。


最初のお披露目は、ファッツ・ドミノの持ち歌「アイム・ウォーキン」(1957年)。これをテレビでやったところ大受けし、チャートの4位、ミリオンセラーとなったのです。それから、「オジー&ハリエット」では、番組の最後に必ずリッキーの唄で終わる、ということになりました。


しかし、ネルソンは、単に流行の音楽を利用して、イケメンで金儲けだけしようと思っていた連中とは、全く違っていました。真剣に音楽が好きで、ティーン・アイドルになる以前から、もともとミュージシャンであるおやじさんの影響もあり、ギター、ドラムズ、クラリネットをマスターしていました。

さらに、ネルソンが尊敬していた、ジェイムズ・バートン、ジョウ・メイフィスなど、カントリー界の優秀なミュージシャン連中とつきあいがあり、特に、後のヒットは、ネルソンのレコーディングセッションに多く参加した、バートンのギターに負うところが大きいといわれています。ネルソンの音楽的インスピレイションの源泉だったのは、カール・パーキンズだったそうです。


その後、最大のヒットのひとつ、「ハロー・メリー・ルー」(1957年)から「トラヴェリン・マン」(1962年)の間に、ネルソンは30曲をトップ40に送り込むという大活躍。また、ビルボードがホット100を創設した1958年のナンバー1ヒット第一号は、ネルソンの「プア・リトル・フール」です。


ネルソンのヒットソングは、主に2種類の異なる音楽性の曲からなっていました。

ひとつは、「ハロー・メリー・ルー」、「イッツ・レイト」のようなアップテンポのロカビリー、もうひとつは、落ち着いたおとなしめの声質を活かしたバラードでしたが、「トラヴェリン・マン」、「ヤング・ワールド」、「ロンサム・タウン」といった、バラードのほうでより大きな成功を収めたといえます。バラードものでは、自身を唄った「ティーンエイジ・アイドル」も良くできた曲で、ヒットしました。





どれもこれも、ネルソンのあまり広くない声域、いくぶん弱い声に合わせて、覚えやすいメロディーで作られており、さらに、カントリー・ギターにおける激シブ路線の代表格、ジェイムズ・バートンのサポートを受けていたこともあって、どれも大ヒットになったのです。このあたりは、ネルソンひとりの力というより、バックバンド、録音技術等の力も大変大きかった。しかし、やはり、そこはアイドル。ネルソンは、大スターだったのです。


さらに、ネルソンは歌手として活躍しただけではありませんでした。俳優として、1959年に名作西部劇「リオ・ブラボー」に、ジョン・ウエイン、ディーン・マーチンとともに、主役のひとりとして出演。


1963年、全米のアイドルだったネルソンは、デッカと20年契約を結びますが、64年から始まるブリティッシュロックブームの中で、ヒットは途絶えていきます。

当たり前ですが、彼自身は、もう、10代のアイドルでもなく、次のスタイルを目指さなくては生き残れません。

そして、60年代半ばからは、脱アイドルを目指して、カントリー音楽界に本格的に転身を図りますが、非常に優れたミュージシャンを集めた自身のバンド(ストーン・キャニオン・バンド)の力もあり、カントリー・ロックのパイオニアのひとりとして、大きな影響力を持つアーティストになりました。いわゆる「カリフォルニア・サウンド」は、ネルソンの貢献なしには語れません。ただし、ヒットには恵まれず、ドサ廻りをして、50年代の旧いヒットを唄って生活費を稼ぐなど、決して恵まれた状況ではなかったようです。そんな中でも、ネルソンは努力し続けました。

そして、1972年、ネルソンはとうとう自作の「ガーデン・パーティ」でトップ40入りを果たします。ビルボードでは、1位となり、ゴールドレコードを獲得。これで名誉挽回かと思われたのですが、しかし、その先がなかった。

続くヒットが出ずに、50年代のような大活躍はとても望めず、私生活におけるトラブルなどもあり、ネルソンの人生は、かなり苦しいものになっていったようです。せっかくの大ヒットの後も、小さなライブ会場をドサ廻りする生活から抜けられず、ネルソンは麻薬におぼれるようになります。


1985年、イギリスでの50年代ロック・リバイバル公演が成功、再び活路を見いだしかけた矢先、アメリカ南部を廻るツアーに出かけたネルソン一行を乗せたセスナが機械故障で墜落、一瞬のうちに、全員帰らぬ人となりました。たまたま、彼が最後に唄った唄は、同じく飛行機事故で亡くなったロック・スター、バディ・ホリーの「レイヴ・オン」だったそうです。


死後、1987年には、ネルソンはロックの殿堂入り、ハリウッドの殿堂入りしましたし、2004年には、ローリングストーンの選ぶ「最も偉大なアーティスト100」の91位に選ばれました。

そして、最近では、2005年、EMIレコードがリリースしたベスト盤が、ビルボードのアルバムチャートの56位になりました。今でも人気があるネルソンは、20世紀のアメリカポップ音楽の重要なアーティストのひとりです。




posted on2011年11月15日

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