ザ・ヴォイス ー ロイ・オービソン
ROY ORBISON "CRYING" 1961
エルビス・プレスリーから「最も偉大な歌手」と言われ、「ザ・ヴォイス」と呼ばれた男、ロイ・ケルトン・オービソンは1936年、テキサス州のヴァーノンに生まれました。
たいして裕福でない家庭出身のロイはハイスクールを出て、エルパソ天然ガス会社で働いていましたが、カントリーやポップ音楽が好きで、ハイスクールの同級生とバンド活動も続けていました。
毎日、昼間働いて、夜もバンドしてあとは寝るだけ。これじゃあまずいなと思ったか、とりあえず大学に行くことにしましたが、1年で中退、とうとうバンドに力を集中します。
このバンド「ウインク・ウエスターナーズ」は、一応カントリーバンドなのですが、時はちょうど1955年、ロック時代の到来です。「ティーン・キングス」と名前を変えて、オリジナルのロック曲を作り、ノーマン・ペティのスタジオでレコード吹き込みまでしますが、リリースすらされません。
到底駄目か、と思った矢先、テネシーのサン・レコード・オーナー、サム・フィリップスが、 ティーン・キングスをサンに呼びいれました。 最初にサンで出たのは、「ウービ・ドゥービ」というタイトルのノベルティー曲。ペティのところではぜんぜん売れなかったロイのオリジナルです。 これが、ロックブームのどさくさに紛れてまあまあ売れた。でもあとは何をしようがビクともしない。
自分の天分は、バラードにあると思っていたロイは、声の模索に入っていきます。
そうした努力が実ったのが、フレッド・フォスターという男が経営する小さなレーベル、モニュメントに移った時でした。フォスターは先進的なことが好きな人物で、ロイとうまく話があった。 ここで、彼は自作のバラード曲「オンリー・ザ・ロンリー」を吹き込みます。
「孤独」「ブルー」といった言葉、美しいメロディー、流麗なストリングス・オーケストラにロックするボレロリズムを絡めたバック、高く舞い上がるファルセットという構成は、「オペラ的」で、驚くべき声域を持つ美声をうまく活かしており、誰にもマネの出来ない素晴らしい出来映えでした。
これは、ロック時代以降、切り捨てられてきた要素、「美しいバイオリンの調べ」とか「感傷的なメロディー」とかを復活させたものでした。「オンリー・ザ・ロンリー」を追って、オービソンは更にこのスタイルに磨きをかけ、「クライング」「イン・ドリームス」「ラニング・スケアード」「イッツ・オーヴァー」「リーア」など、次々にヒットを連発。
また、サングラス、全身黒づくめ、まるで腹話術師みたいに口もほとんど動かさず直立不動で、レコードそのまんまに唄ってみせるステージでの姿も伝説となっていき、60年代前半のビートルズ・ブームの中でもオービソンの人気は、衰えませんでした。他とは比較のしようがない「孤高の音楽」だったからかもしれません。
そして、1964年に、オービソン曲の中では比較的とっつきやすいロック曲「オー! プリティ・ウーマン」が桁違いの世界ヒットになりましたが、気が付いたら4年ほどの間に22曲もチャート首位に送り込んでおり、もう大変なスーパースターでした。
しかし、家族を大切にする優しいパパであり、リモコンヒコーキだのバイクだのが趣味で、豪邸や高級車なんかにも関心がなかった彼は、マスコミにたいして異例なほど露出度が低く、「プライベートをあかさずとらえどころのないスーパースター」として、ますます伝説化していきました。
そんな大成功のさなか、突然のバイク事故で妻を失ったロイは、ショックで仕事ができなくなってしまいます。そして、曲を作るのもレコーディングもやめてしまった彼はツアーをし続けることで心の整理をしようとしますが、翌年、留守宅が火事になり、3人の子供たちのうち2人を失ってしまいます。
そうした私生活での不幸が重なり、いつの間にか、ロイ・オービソンは60年代の伝説となって表舞台から消えていきました。
1969年、ツアー中に知り合ったドイツ人女性バーバラと再婚し、人生を立て直していたロイに再び転機が訪れたのは80年代近くのことです。
70年代終わり、健康を害していたロイがフレッド・フォスターと組み直したアルバムは、心臓病の手術のすぐ後にレコーディングされたもので、あまり出来があまりよくありませんでした。続いて出たアサイラム録音も、素晴らしい自作曲があるものの、いかにも病み上がりで失敗に終わるなど、なかなか突破口が見えないロイに、いよいよ追い風が吹き始めました。
オービソンの黄金期の曲、「ブルー・バイユー」をリンダ・ロンシュタットが、「クライング」をドン・マクリーンが復活させてヒットさせ、子供時代にオービソンをアイドルにしていたデトロイトの新進ロッカー、ブルース・スプリングスティーンが自作曲「サンダーロード」の歌詞の中にオービソンを登場させると同時に、「ハングリーハート」など、いかにもかつてのオービソン調の曲をつぎつぎにヒットさせていったのです。 そして、カントリー界での活躍が実ったか、自身もエミルー・ハリスとのデュエット曲「ザッツ・ラヴィン・フィーリング」が大ヒット、グラミーを受賞。
そんななか、オービソンに1本の電話が入ります。
「僕は、子供のころからロイ・オービソンの大ファンだったんだよ。だけど、雲の上の人だと思っていた。だから、話が出来るなんて考えたこともなかった。でも、このままじゃ悔いが残るだろ。だから思い切って電話してみたんだよ。そしたら、あのレコードと同じ優しい声で“やあ、ジェフ。テキサスまで遊びに来なよ。”っていうんだ。天にも昇る気持ちだった。その日のうちに荷物をまとめ飛行機に飛びのり、3000キロも離れたテキサスにあるロイの自宅に行ったよ。」と語るのは、ジェフ・リン。
この一本の電話をきっかけにして、オービソンの運命は再び大きく動き出したのです。
80年代の半ばの覆面バンド、トラベリング・ウィルベリーズ(ジェフ・リン、ジョージ・ハリスン、ボブ・ディラン、トム・ベティ、ロイ・オービソン)のヒットをきっかけに、オービソンは再び現役の人気スターとなりました。そして、その後、オービソンは、全盛期を思わせる素晴らしい曲を次々と作ります。これらはアルバムとしてまとめられ、大々的に発売される予定になっていました。
発売間近の1988年、息子と母が暮らす実家へ遊びに行き、大好きなリモコン飛行機で遊んだりした後、くつろいでいたロイは突然心臓発作で倒れ、救急車で搬送されるまもなく、帰らぬ人となりました。 享年53歳。死後、発売されたアルバム「ミステリー・ガール」はあっという間に全米アルバム第1位になりました。
ROY ORBISON "LOVE SO BEAUTIFUL"
作曲家の殿堂入りをした時、オービソンはこんなことを言いました。
「こういう仕事というのは、仲間に入りたくてやっているようなところがある。これでやっとみんなの仲間に入れた気がする。」
死後、再びヒットした「オー! プリティ・ウーマン」でグラミーを受賞したときは、バーバラ未亡人が代理出席し、こんな事を言いました。
「ロイは、生前、よく“僕は名誉とか富とかあんまり興味がないんだ。ただ、みんなが覚えていてくれたらそれだけで満足なんだ。”と言っていました。きっと、ここにロイが来ていたら一言こういうと思います。“みんな、覚えていてくれてありがとう。”」
伝説の中に閉じこめられていた「孤高の大歌手」は、伝説のイメージそのままで蘇り、世界中の人々をもう一度感動させた後、本当に伝説の世界へ旅立っていったのでした。
posted on2011年11月16日

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